白ノ宮 4
闇が
(雪凪に加え、戸陰どもかよ。こいつは、面倒だぜ……)
蓮二が逡巡していると、雪凪は一歩踏み出して、
「宮を、あたら騒がせることはない。――戸陰たちよ、下がりなさい」
すると、黒装束たちは液体のようにすうと、暗闇の中に消えていった。――しかし依然として、その気配だけは至る所に感ぜられた。
蓮二は太刀を抜くと、眉間に意識を集中させ、雪凪へと足を踏み出した。
「唵!」
と雪凪へ念を叩きつける。――しかし、雪凪はなんら動じず、右手を動かした。人差し指と中指を揃えて立てた、剣印の形を作ると、それを振り上げ、「しっ」と息を吐く。
蓮二は本能的に身を翻し、飛んでくる『なにか』を太刀で防いだ。
ぎいん、と鈍い金属音が響いて、暴力的な圧に襲われた。太刀は背後に吹き飛び、あまつさえ肩に衝撃がきた。
(こいつはなんだ! なにが起きたのかも、わからねえ……)
右肩を押さえて、蓮二は石畳に膝をつく。どうやら着物の肩が裂かれ、血が滲んでいた。
「着替えたばかりなんだがよォ」
雪凪は剣印を下ろすと、
「引き下がれば、新たに着替えを用意させましょう。されど、まだ手向かうならば。――さだめし、それが屍衣となりましょう」
蓮二は雪凪の体から立ち昇る、紅い霧のようなものを視た。――瘴気のようでもあるが、正体は知れぬ。あるいは、巫女たちが必然と負う、なんらかの力の代償に因むものなのか。
いずれにせよ、蓮二は震えていた。
「なぜに、大巫女様を付け狙うのです。――白ノ宮の真実に、承服しかねる点があるにせよ。腹を満たし、褒賞を受け取り、それで、宮を去ればよいではありませぬか」
蓮二は俯いて、石畳に落ちた、おのれの暗い血を見た。その血を見ていると、過去の村の情景や、血塗られた星空が思い出され、目まいがしてきた。蓮二は闇の中に語りかける心地で、
「大巫女は、あの巫女かも知れねえんだ……」
「あの、巫女?」
「ああ、蛇川村に来たやつだ。俺の、故郷を見捨てた……。あいつは、村を護りにきたくせに、挙句見捨てて、逃げ出しやがった」
「蛇川村……?」
夜風が甲高く哭いたとき、「菜玖様です」と雪凪の声がした。蓮二は顔を上げて、
「菜玖……?」
「ええ。蓮二殿がお探しの、左利きの巫女とは。――おそらく、菜玖様のことでしょう」
それから雪凪が語ったのは、こんなことだった。
遡ること十三年前。雪凪が二位巫女だったとき、菜玖という一位巫女に師事していた。――ちょうど、沙耶と雪凪の関係のように。
あるとき、菜玖は蛇川村という、瘴気禍に苦しむ山村の対応のため、兵を連れて差し向かった。けれど、あまりに瘴気が濃密であり、手の施しようもなく、苦衷の心境の中で撤退をした。
蓮二は拳を振り上げ、石畳を殴りつけた。
「菜玖だとォ! そいつがッ。村を……。おお……」
慟哭混じりの唸り声が漏れる。涙が溢れてくる。悲しみなのか、怒りなのか、蓮二にも得体が知れなかった。石畳の血溜まりが手のひらを濡らした。
足音がざり、と響いた。雪凪は数歩、近づいてきた。
「菜玖様は、あのことを、いつも心に病んでいらしました。――あのような最期を迎えられたのは、そのせいかも知れませぬ」
「さ、最期、だと?」
「左様です。蛇川村のことから二年後、菜玖様は、楼迦国への訪問の折に、ある村に立ち寄られました。そこで、瘴魔に憑かれていた村娘を救うために……」
「……」
「あのとき、年端もゆかぬ、その娘の瘴気を根こそぎ吸おうとされたとき。――なんとその娘は、瘴気に狂わされ、包丁を隠し持っていたのです。それで、菜玖様は……」
蓮二は目を拡げて、雪凪へとにじり寄った。
「な、なんだと……」
「蛇川村のできごとから、ずっと、赦しを乞うているようでした。そうでなければ、最期にあんな、穏やかなお顔をされるなど……」
「その話を、どう信じろって云うんだ」
「文読ノ宮に、しかと記録が残っております。お疑いならば、特別に巫女をつけて、ご案内いたしましょう」
その言葉を聞いた蓮二は、両膝をついて顔を押さえた。血がぬるりと頬に張りついてきた。ついで、腹の底に澱んだ、行き場のない熱が溢れ、笑いとなって込み上げてくる。
「くく……。ふふ。ハハハッ。――そうかよ。そりゃいいぜ……。くたばっちまったか。くくくッ……」
気がつくと蓮二は夜空を見上げていた。――夜天には細い月が浮かんでいた。
冬の星々は、かの明葉ノ庄で見た水晶窟の如く、凛然と輝いていた。人間の想いや痛みなど、露ほども知らぬというように。
星々は人知れぬ定めに従って、悠久に夜天を灯しているのだ。――蓮二はふと、そんなふうに思った。
「まこと、長神様の企図は、人の知れるところではありませぬ」
「やめろや。俺ァ、沙耶じゃねえぜ。そんな説教はまっぴらだ。くだらねえぜ。――なにもかもが」
そう云って、よろめきながらも蓮二は立ち上がった。背後に落ちていた太刀を手に取ると、ぶんと振ってから鞘に納めた。そこでふと振り向いて、
「ところで、助かったのか」
「今、なんと……?」
「その、菜玖が救おうとしたガキは、助かったのかよ」
「――ええ。ご無事でした」
「そうかよ」
蓮二は背を向けて、夜風の中を引き返していった。
*
朝になって目を覚ますと、障子が朝日を透かしていた。そのとき蓮二は、障子の向こうに人影を見た。
人影は影絵のように足音もなく歩んでくると、動きを止めた。蓮二は腰を起こしそちらを凝視した。
「具合はどうだ」
と影は云った。蓮二は舌打ちをしてから、
「まさか、昨夜、あの場にいたんじゃねえだろうなァ。
「愚問。――白ノ宮で、あのような騒ぎがあれば、ゆかぬ法はなかろう。我ら戸陰が」
「そうかよ。――それにしても、あの巫女は、ろくでもねえぜッ。なんてバケモンだありゃ」
「馬鹿な奴だ。あの雪凪様に、立ち向かうとは」
すると、くく、と忍ばせた嗤い声がした。
「うぬは、なかなかに、おもしろい狼だったな。いつかまた、刀を打ち合わせ、戦おうぞ」
蓮二は膝を打った。
「抜かせ。次は胴体を輪切りにしてやらァ」
すると、影は溶けるように消えていった。
*
白ノ宮の正門から向こうには、馬稚国の都へと続く道が伸びている。小鳥が寒空を横切り、チチチ、と鳴いた。西の果てで見た、白い
――沙耶は森の中に続く道を見て、みずからの旅について思った。生まれてはじめての、そして、最後になるはずの旅だった。けれど、なんの因果か無事に、古巣へと戻ってくることになった。
喜ぶべきことなのだろうが、喜びよりも、不思議な感慨の方が強かった。自身が体験してきたことなのに、まるで、雪凪や、他の巫女から教わった物語のようだった。
また鳥の声――空を見ると、白く霞む凍雲が流れていた。乾いた北風が流れて木々の枝葉を揺り、遠い小川が光っている。
巡っている、と沙耶は思う。
留まらずに、巡ってゆくものは美しい。自然にしても、人にしても、水にしても、霊気にしても。
(きっと、間違っては、いないのだと思う。巡るということ……。いかがでしょう、水奈弥様、白花芽様……)
本宮の方から人影が現れる。巫女たちの中を横切ってくると、
「あのときと、逆みてえだなァ」
と蓮二は云った。
「ええ……」
「あのときはよォ。俺がそこで、待ってた。沙耶って巫女を守れと。そう言われてよォ」
「そうです。そして、まっとうされました」
「お、おお……」
と、蓮二は驚くように顎を撫でた。沙耶はふと、蓮二が右腕――いや、肩ををかばっていることに気づいた。どうにもぎこちがなかったのだ。
「肩を、どうかされましたか?」
「なんでもねえよ」
「左様ですか。――ところで、もう、旅立たれるというのは、本当ですか?」
「まあな」
そうして蓮二は、正門の先の道を見た。
「西の果ての、あれが夢じゃなかった、ってのを、確かめてやろうってなァ。そう思ってる。――残りの瘴魔でも、狩りながらよォ」
沙耶は懐に手を差し入れて、一巻きの書状を取り出した。
「なんだそりゃ」
「これは……」
と沙耶は書状を広げると、蓮二に向けた。
「大巫女様の、推挙状です。――蓮二さんを、白ノ宮の、守護副長官に推挙すると」
「なんだと……」
蓮二はまじまじと、沙耶の広げた書状を見た。
「くだらねえ。婆ァの妄言だな。俺ァ、縛られるのは、嫌いだぜ」
沙耶はため息をついて、「やはり……」と書状を丸めた。そうしながらもなぜか、笑みがこぼれた。
「知っています」
そう云って沙耶は、蓮二の逆立つ眉毛と、大きな両目を見る。狼には白ノ宮は狭すぎる。――そんなことを思った。
「ところで、あの……」
「なんだァ」
「例の、八百万貝の褒賞金は、お持ちなのですか?」
「なに云ってんだ。一度に、持っていけるわけが、ねえだろ」
「――え?」
すると蓮二は振り返るに、本宮を見上げた。
「とりあえず、百万貝分を受け取ったがよォ。――残りは必要になったら、取りにくるさ」
沙耶は思えず両手に拳を握った。
「わたしは、やれることを、やります」
「そうかよ」
「はい……。白花芽ノ神の、浄めの力を、世に広めるのです。――そうして、瘴気を少しでも早く、巡らせて、流してゆかねばと……」
蓮二は頷くと、「やれるさ、おまえなら」と云って、太刀の柄を叩いた。
「はい……」
「無茶すんなよ」
「はい、分かってます……」
「嘘つけ。おまえが
沙耶は言い返す言葉を探した。――けれど、なにも思いつかなかった。
代わりに、蓮二が去ってしまうことを想像した。するとまるで、体の中の、内臓の一部が、すっぽりと奪われてしまう気がした。
沙耶が口を開きかけると、蓮二は空を指差した。
「おい、見ろよ」
それにつられて沙耶も空を仰ぐと、無数の白鷺が空を横切るところだった。白鷺たちはどこまでも続く冬空を、矢のような列をなして悠然と飛んでいった。
白ノ宮 おわり
白花冥幻譚 おわり
白花冥幻譚 浅里絋太 @kou_sh
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