白ノ宮 3

 沙耶が本宮の二階に着くと、奥に雪凪の姿が見えた。


 窓からの日差しは、白木の床や行き交う巫女の衣を照らした。――ちょうど通りがかった巫女は、


「天に長神ながかみ、地に白花のありますよう」


 と、お決まりの挨拶をして、去っていった。沙耶はそんな姿を微笑ましく見送ってから、木の匂いが立ち込める廊下を歩んでいった。



「待っていたよ。さあ、大巫女様は、奥にいらっしゃる」


 雪凪は大巫女の執務室を視線で示した。沙耶は頷くと、執務室の襖の前に立った。襖には、大きな白花と、両頭の蛇――日月ノ長神の絵が、銀色で描かれていた。


 沙耶の脳裏に浮かぶのは、忌神の領域に現れた、あの大巫女の霊体の姿だ。大巫女は甘言に、脅しに、呪歌……。実に様々な言葉を吐いて、沙耶を操ろうとしてきた。――そうだ。真実を隠し、瘴気の溢れる世界を堅持し、鎮め巫女のを守ろうとした。


(いったい大巫女様は、どんな表情で、待っているのだろう。なにを、お命じになられるのだろう……。わからない。あるいは、口封じを……)


 そんな沙耶の逡巡を断つように、部屋の中から声がした。


「お入り。――きたのだろう、沙耶よ」

「は、はい。それでは……」


 沙耶は襖の前に膝を立て、恐る恐る襖を引いた。――そこは畳敷きの部屋で、大巫女は背を向けて、焦茶色の背の低い机に向かっていた。大巫女は左手の筆を、脇にある硯に置くと、ざざ、と畳を擦って、体を振り向かせた。


「早う、お入り」

「か、かしこまりました。それでは、失礼いたします」


 沙耶は部屋に入ると、半身を向けて襖を閉め、あらためて大巫女に正対した。


 窓辺に二輪の、白花が活けられているのが見えた。白花の影が畳に落ちて、焦げ跡の如く見えた。


 大巫女は端然と座し、沙耶を真っ直ぐに見ていた。銀の頭冠に豊かな白髪。皺に埋もれかけた、深く理知的な瞳。――それらの佇まいは、狭世で見た、かの霊体の姿と似て、しかし違ってもいた。――大巫女はまさに、白ノ宮の表裏を背負う、威厳と静謐さを備えていた。しかし日の加減か、顔が翳っていた。



「さぞ、軽蔑しておるであろうな」


 と、大巫女は憂いを帯びた声で云った。沙耶は戸惑いながらも、


「――い、いえ。そのようなことは、ございませぬ」

「ほう……。左様か」


 大巫女は疲れたように、少し顔を俯けた。沙耶はそんな大巫女に、静かに語りかけた。


「わたしは、鎮め巫女のお役目に導かれて、西への道をゆきました」

「そうだの。神ならぬ、偽りの道だった」

「――はい。わたしは、どれほど落胆したでしょうか。あれほど、懸命に歩んだ旅路が、偽りのものだったとは」


 沙耶は右手を握り、胸に当てる。


「されど、わたしは思ったのです。――長い、白ノ宮への帰路の中で。――大巫女様もまた、代々のを引き継ぎ、迷いの中で、歩まれて来たのではないかと……」


 大巫女はなにも云わず、じっと足元の畳に視線を向けていた。やがて翳りの中から顔を上げるに、


「――そなたは、白花芽ノ神を、見たのか?」


 沙耶は頷いた。


「はい。神々しくも、この上なく、麗しいお姿でございました」

「左様か」と、大巫女は目元を綻ばせた。



  *



 蓮二はあてがわれた客室にいた。巫女が持ってきた着物の中から、なるべく好みに合いそうな、消し炭色の着流しを選ぶと、袖を通した。――真新しい麻の匂いがした。目立たぬながら、胸に織り込まれた白花紋の銀糸が、気にはなった。


(この野暮な紋様がなきゃ、文句はねえんだがよォ)


 そんなことを思っているうちに、別の幼い巫女が部屋の入り口にやってきた。


「なんだ、こんどは」と蓮二が問うに、巫女は云った。

「ゆ、湯浴みの準備が整いまして、ございます。よ、よろしければ、ご案内いたします……」


 蓮二は頭を掻きながら、


「ッたく。俺ァ野党や獣じゃねえ。別に取って喰やしねえよ」

「は、はい」


 と巫女は顔を緊張に赤らめて、頭を下げた。青臭い匂いがした。白花を摘みに森にでも行っていたのか。――あるいは、幼い巫女はそんなものなのか。


「湯の後に、飯と、一級の酒はあるんだろうな」

「は、はい。おそらく……」


 巫女は目を伏せた。それから、一刻も早く逃げ出したい、と云わんばかりに「湯は、こちらです……」と背を向けた。



  *



 夕餉の膳と酒が客室から下げられた。蓮二は畳に胡座をかいて、柱に背をもたれていた。


 外はすっかり暗くなり、部屋の二つの行灯に火がともった。夜風が吹き渡り、ときおり遠い話し声がした。――酔ってはいなかった。ただ蓮二の胸には、昼間に聞いたある言葉が、繰り返し巡っていたのだ。


『いえ、昔のことはわかりませぬが。――それこそ、大巫女様くらいでしょう。――護衛のためにお付きしたときは、左手で文を書かれてらして』



 懐に手を入れて、茶色の巾着を取る。左手に白い石を落として、見つめる。


 蓮二の心の中に、在りし日の蛇川村での情景が蘇った。


 山の河原で、妹の須未と白い石を探す。――白石を交換した二人は、互いを守る力を得るという言い伝えのままに。


 瘴魔に取り囲まれ、怯え切った村人たち。


 助けに来てくれた、白ノ宮の巫女と兵たち。


 ――そして。


(あのとき、村を見捨てて帰りやがったなァ。あの巫女が……。なぜだ。なぜ……!)


 ぼろぼろになり、仰向けになって無情を噛みしめた夜。あの星空の輝き。白石の痛み。



 しばらく物思いに耽っていた蓮二だったが、


「これじゃなにも、終わってねえな――須未。せめて、しかと確かめねえとな。そして、真実がわかった、そのときには……」


 そう呟くと、石をしまって立ち上がった。太刀を持ち上げ、左腰に提げた。そうして、大巫女の居室があるらしい、本宮へと向かいはじめた。



「ご客人、どちらへ」と近くの守護が話しかけてきた。

「ああ。大巫女様に、呼ばれていてなァ。内密にと云われてるんだが……。日暮ノ峡で起きたことを、細かに教えろと云うのだ。夜、人目につかぬよう、居室に来いと。――確かに俺ァ、大っぴらにできねえようなもんを、見ちまったからな。――おまえも、俺の話に、興味があるのかい?」


 守護は青褪めた顔で周囲を見渡すと、小声で云った。


「いいや……。知りたくもねえ。さ、早く行ってくれ……」



 廊下を抜けて、真新しい草履を履いて外に出た。境内には所々に提灯が提がり、薄明かりが続いていた。


 蓮二はみずからが後にした雛蘇ノ宮の、横の道を歩いていった。その先で本宮の前に出るはずだ。



 暗がりから、ふと女の声がした。


「これは蓮二殿。かような夜更けに、いずこへ」


 暗闇に浮かんだのは、雪凪の姿だった。顔が翳っており、いっそ不気味に、どこか妖しく見えた。蓮二は心臓を高鳴らせながらも答えた。


「――おお、雪凪か。大巫女様に、ご用があってなァ」

「聞いてはおりませぬ」

「日暮ノ峡で見たことを、秘密裏に聞かせてほしい、ってことなんだがよォ」

「必要とあらば、沙耶から聞くでしょう。――それより、左利きの巫女について、守護に質問をされた、と。そう聞いておりますが。面妖なことです。なぜに、そのようなことを」


 蓮二は昼間の、若い守護の顔を呪いながら、


「ああ。礼がしたくてよォ」

「わたくしが、言伝いたしましょう」

「いいや、そんな手間は、かけさせねえ。俺が自分で行くぜ」

「――あなた様は、どうあっても、大巫女様の許へ、ゆかれると」

「ああ、そうだ。分かったら、どけよ」

「どかれませぬ」

「なんだァ、邪魔だてするなら、血を見ることになるぜ……」

「そのような物騒な言葉を聞けば、なおさら、通せませぬ」


 雪凪の暗い瞳に、冷徹な輝きが見えた気がした。


「くそッ。烈賀王の、巫女……」


 呟くと、蓮二は太刀の柄に右手をかけた。

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