第16話 カナホの好きなもの
気がつくと、カナホは真っ白い場所にいました。
距離感がなくなる、どこまでも真っ白な場所。
そこに、一台の黒いアップライトピアノ。
演奏者用の椅子に座っているのは、お父さんでした。
音楽教室の先生だった、カナホに音楽を教えてくれたお父さんです。
「……お父さん……お父さんっ!」
カナホはお父さんに飛びつきましたし、お父さんもカナホを優しく受け止めました。
「会いたかった。会いたかったよ。お父さん」
カナホはお父さんの胸に顔をうずめます。
「僕もだよ。またこうしてお話しできて嬉しいよ」
お父さんはカナホを抱き上げると、膝に座らせます。
「ごめんね。僕が死んじゃってから、辛い思いをさせちゃって。カナホはすっごく頑張ってくれてたんだね」
お父さんが言うと、カナホは自分のズボンをギュって握ります。
「……お父さんが死んじゃったとき、お母さんがすっごい悲しそうだった。ウチね、あんなお母さんをもう見たくなくて、それで、だから、新しいお父さんと仲良くしようと思ったのに、なのに、なのに」
カナホはワッと泣き出します。
「ウチ、お母さんに、新しいお父さんとは別れて欲しいって、あんな人、いなくなって欲しいって思ちゃった。お母さんに幸せになってほしいのに。それに、お母さんに怪我もさせちゃった」
お父さんは、カナホを抱きしめます。
「ウチは『いい子』じゃないから、だから、私、独りぼっちになっちゃう」
お父さんはカナホの髪を撫でます。
「カナホの好きなもの、全部僕に教えてくれる?」
「体育の授業……給食の時間……おやつのプリン……シアンちゃん……クロエちゃん……、ラピタくん、フィーナちゃん、伯父さん、伯母さん、それから、それから、お父さんと、音楽が大好き」
お父さんは小さくうなずきます。
「カナホは、決して独りぼっちになんかならない。カナホの好きなもの、カナホの好きな人がみんな、みんな、カナホを支え、守ってくれる。だから、独りぼっちになんかならない」
「でも、お父さんは死んじゃって……」
「うん。でも、カナホの中に僕はいる。カナホのピアノを弾くときのクセ、ハーモニカを吹くときの癖、得意な曲、苦手な曲。全部、僕にそっくりだ」
父は膝からカナホを降ろします。
「だから、恐がらないで大丈夫」
お父さんの姿が、徐々に透けていきます。
「そろそろ、時間みたいだ」
カナホは慌てて言います。
「お父さん! 一回、一回だけ、ウチと連弾して」
だけど、お父さんは首を横に振ります。
「カナホと一緒にピアノを弾くのは、僕じゃないよ。一緒に弾いてくれる人が、すぐ近くにいるから」
「……お父さん」
お父さんは、完全に消えてなくなりました。
「いいかい、カナホ。カナホは幸せになっていいんだよ。自分の幸せを大事にしていいんだよ」
最後に声だけが、聞こえました。
カナホは涙を拭い、顔を上げます。
「うん。ウチ……ウチ、幸せになるよ」
カナホは目を覚ましました。
伯父さんと伯母さんの家です。
布団の上で上体を起こし、周囲を見渡しました。
障子の隙間から、朝日が差し込んでいます。
机の上に置いていた小瓶。『心の光』を集めていたそれは、空っぽになっていました。
昨日、熱が出てとっても苦しかったのが嘘のように、スッキリとしたとても気持ちの良い朝です。
小鳥の声が聞こえます。
部屋を出て、リビングに行きました。
そこには、信じられないような景色が広がっていました。
リビングの隅にピアノが置かれているのです。
「ピアノ……」
そこに、伯父さんと伯母さんがやってきました。
「おはよう。カナホちゃん。具合はどう?」
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫」
カナホはそう言いつつ、ピアノが気になるようです。
「シアンから、カナホちゃんに誕生日プレゼント」
伯父さんが言いました。
カナホはピアノに歩み寄ると、鍵盤の蓋を開け、白鍵を、指先で軽く叩いてみます。
ポン、と澄んだ音が鳴りました。
視線を感じてリビングのドアに目をむけると、そこには、シアン、クロエ、ラピタ、フィーナがいました。
「おはよう。それからハッピーバースデー、カナホ」
シアンが言いました。
その日の昼下がり。
すっかり元気になったカナホは、ピアノの前に置かれた椅子に座ります。
その後ろには、演奏を聞くためにシアンと三人の妖精たちが座っています。
カナホはそっと、鍵盤に指を乗せ、呼吸を整え、弾きはじめませんでした。
鍵盤から指を降ろすと、振り返りました。
「シアンちゃん、一緒に弾いて」
「へ、でも、私はピアノなんて」
「教えるから、ねっ」
シアンはしょうがないという風に、でもどこか嬉しそうに、カナホのところにやってきます。
それからカナホはシアンに弾き方を教えました。
その姿はさながら、ピエール=オーギュスト・ルノワールの絵画『ピアノに寄る少女たち』のようです。
そしてしばらく後。
一つの椅子を二人で分け合い座るカナホとシアン。
「カナホ。緊張する」
「教えた通りにすれば大丈夫。間違っても、楽しかったらそれで大丈夫」
そして、二人は一台のピアノを弾きはじめました。
曲はハッヘルベル作曲『カノン』です。
鍵盤を優しくなでるような、滑らかなカナホの音。
必死に鍵盤を目で追いかけながら、ぎこちなく叩くシアンの音。
二人の音は混ざり合い、一つのメロディを紡いでいきます。
どこか物悲しく、でもそれ以上に優しい。
ゆったりとしたメロディ。
おやおや。
いつの間にやら、妖精たちが魔法に使って、空っぽになったはずの小瓶の中で、二つの小さな『心の光』が輝いていました。
カナホと星の妖精たち 千曲 春生 @chikuma_haruo
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