屋根裏の椅子

森陰五十鈴

ひっそりと隠されて

 まだ少年の時分の話だ。

 僕と両親は、二階建ての建売住宅に住んでいた。一階から二階に通じる階段を上った先の天井に床下収納のそれにも似た扉が設けられていて、ずっとそれが不思議だった。物事が分かってくるようになると、屋根裏部屋の扉であることに気が付いた。けれども、長年住んでいても使われているところなど一度も見たことがなかったし、そもそも開ける手段も見当たらなくて、何故それがあるのかやはり不思議だった。両親に尋ねてもはぐらかされるばかりで、何となく子供心に、あれは触れてはいけないものなのだと感じ取った。

 でも、好奇心は押さえることができなくて、ある日両親が家を空けて一人留守番することになったときに、屋根裏部屋に入ってみることにした。


 一階のダイニングテーブルの椅子を持って、二階に運んだ。それを扉の下において、椅子の座面に爪先立ちをした。手に持った未使用の鉛筆で扉の縁に設けられた穴を押すと、梯子と一緒に扉が下りてきた。これ幸いと梯子を引っ張り出そうとしたけれど、伸縮式のそれは途中で動かなくなり床まで届かなかったものだから、僕は結局椅子の上から、腕の力だけで梯子を上ることになった。


 屋根裏部屋は、案の定暗かった。壁に小さな窓が二つ向かい合わせに設けられていて、そこから入り込む外光だけが頼りだった。空気は淀んで生温く、床は白く埃っぽかった。這い上がるまでに埃を思い切り吸い込んでしまって、ずいぶんと咳き込んでしまったことを覚えている。

 僅かな明かりの中で見た秘密の部屋は、ほとんど何もなかった。平らな床。中央で高く、端に行くほど傾斜して低くなる天井。父が背伸びしてやっと手が届くかという高さに、屋根の頂点に沿って梁が渡されていたが、電灯の類は一切ぶら下がっていなかった。子ども心に、走り回れそうな広さに興奮した。同時に疑問にも思った。物置にも使えそうなこの部屋は、どうして使われずに閉ざされているのだろう、と。


 さて、「屋根裏部屋にはほとんど何もない」と言ったが、「全く物がない」わけではなかった。一つだけ、椅子が置いてあった。入口と窓を結んだ線の真ん中、壁と壁の中間。梁の真下に当たる位置だ。硬い木の椅子。座面にクッションの類もない。四角く湾曲した板を、座面から伸びた四つの丸い棒が支えているような背もたれ。埃が積もり白くなったそれは、自分が足場にも使ったダイニングキッチンの椅子と同じものであることに気が付いた。僕は両親と三人暮らし。ダイニングテーブルの周りには、椅子が三つ。 けれどふつう四人掛けだから、余った椅子がここにしまわれていたのだろう。

 何故これだけがあるのだろう。不思議に思って近寄ってみると、その足もとに古びたロープが放置されていた。薄汚れた綿の紐。結構な長さがあったが、端のほうでちぎれた跡があった。縛るものは見当たらず、用途はやはり分からない。椅子とロープ以外、本当に何もなかった。


 ロープを拾い上げ、ちぎれほつれた先端をまじまじと見ていると、ばたん、と階下で何かが倒れる音がした。両親が帰ってきたのか、と慌てて扉をのぞき込むと、梯子の下で足場にした椅子が倒れていることに気が付いた。 二階の窓は何処も開け放されていたから、風で倒れてしまったのかもしれない。理由は判然としなかったが、とにかく戻る手段がなくなったことに、非常に焦った。

 梯子を伸ばすことができないか、と弄ってみたけれど、金具は錆びていたのかびくりとも動かなかった。このまま梯子が伸びているところまで行き、そこから飛び降りようか。だが、それでも結構な高さで怖く、実行する決心がつかなかった。どうしよう、と辺りを見渡すが、屋根裏にあったのは椅子だけ。手にしているのはロープだけ。


 あの椅子を、下におろせたら。


 手に跡がつくほどきつくロープを握りしめたところで、ひらめいた。このロープを使って椅子をおろそう。すぐに椅子の元に行き、ロープの端を椅子の背もたれに括り付けた。それから、椅子をぶら下げるようにそろりそろりと二階へ下ろす。重みにロープが滑り、手が摩擦で痛かった。それどころか、椅子と一緒に自分も二階に引きずり落されそうにもなって、背中がベタつくひどい緊張感を味わった。

 今にして思えば、子供の身体で重い椅子をおろすより、梯子からぶら下がって飛び降りたほうがまだ安全だったわけだけれども。それかせめて、ロープだけを利用するとか。しかし、そのときの僕は「椅子さえあれば安全に下りられる」という観念に支配されていた。


 梯子に脚がひっかかりそうになったり、とひやりとすることも多々あったけれども、果たして僕は、無事に椅子を二階におろすことができた。自分も痛い思いをすることなく二階に戻ることができた。

 探し出した布団叩きでなんとか屋根裏の扉を押し上げて閉ざし、倒れた椅子はダイニングテーブルに戻した。古びたロープはゴミ袋の中に巧妙に隠して、屋根裏からおろした椅子だけが残った。

 当然屋根裏に戻すことなどできるはずもなく、苦し紛れに自分の部屋に持ち込んだ。学習机の隣において、床に転がったおもちゃを載せて、棚の代わりに使っていたかのように見せかけた。


 両親は、僕が屋根裏部屋に行ったことには気が付かなかった。少なくとも、言及されることはなかった。

 部屋に置かれた椅子にも、特に疑問を感じる様子は見せなかった。いつの間にか僕の部屋に置かれていたものだと認識していたようだった。

 屋根裏部屋は、それきり、僕が大学に入って一人暮らしを始めるまで、開かれることはなかった。その後も、きっと。




 これは、後で知った話だ。

 僕には、弟か妹がいるはずだったらしい。僕が二歳くらいのときに母が妊娠して、でも十二週を迎える前に流れてしまったという。

 あの椅子は、きっと弟妹きょうだいが使うはずのものだった。両親は、座る人のいない椅子を見続けることがつらくて、屋根裏部屋に隠したのだろう。

 足場にした椅子が倒れ、屋根裏部屋から下りられなかったあの時。弟妹の椅子のお陰で、僕は助かった。もしかしたら弟妹が僕を助けてくれたのかも、なんて、今はぼんやり思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

屋根裏の椅子 森陰五十鈴 @morisuzu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ