ここにいたよ

藤意太

「例えば、明日死ぬとします。それはもう確実です。運命ってやつです。苦しまないってことにしましょう。一瞬であの世へ行きます。あの世へワープみたいなもんです。あっという間にこの世とお別れです。スッパリ、キッパリ」

 駅前の広場で女がギターを弾きながら歌っていた。髪をピンク色に染め、黒いTシャツにジーンズというラフな格好をしていた。

「悲しいですね。嫌ですね。やってられないです。未練があります。私は全力で足掻きますよ。明日死ぬなんてやってられないですよ。延長ですよ、延長、一日、二日じゃないですよ。永遠に延長ですよ。運命。知らないですよ。捻じ曲げてやります。ぐっにゃぐっにゃにしてやりますよ」

 それは歌というよりか叫びだった。申し訳程度になっているギターの音色は、どこかで鳴いている蝉の声よりも小さかった。駅へ向かう人間たちはチラリと彼女に目をやるが、誰も足を止めない。それは僕も同じだった。だが、歩く速度は少し遅くした。

「運命は変えられる。変えられるんです。運命よりも強いのは私です。私こそが最強なんです。クソが、運命。クソが。消え去れ、死にさらせ。お前が死んでも私は生き残るからな。黙って、腐って、土へ還れ」

 味の薄い紅茶をこぼしたみたいな色の空の下で女が叫んでいる。それを誰も気に留めない。蝉が鳴いている。聞き取れない、誰かと誰かの会話が微かに聞こえる。タバコと制汗スプレーが混じった匂いが鼻を撫でた。欠伸が出た。明日は休みだ。でも、予定はない。昼過ぎに起きることだけが、ぼんやりと決まっている。

「そしたらね、どんな花が咲くんでしょうね。見て見たくないですか。死んだ運命から咲く花。どんな色でしょうかね。誰も知らない色でしょうかね。それとも無職ですかね。私と一緒で」

 つまらないはずなのに、笑ってしまう。笑ってしまったことに、また笑ってしまう。後ろから歩いてきた人間に追い越されていく。手で口元を隠し、立ち止まり、少しの間、一人小さく笑う。

「悲しいな、悲しいな。私の声は、聞こえていますか。ここにいますよ。結構前からずっと。なのに誰も、目も合わせてくれない。声が聞こえている感じもない。これはもう、私はここに存在しているのかも怪しいです。私はここにいますよね。いますよね。死んでいませんよね」

 いるね。いるよ。見えてるし、聞こえている。僕は呟く。僕にも聞こえないくらいの小さい声だ。まだ、彼女との距離はある。歩いて五十歩ほどだ。走ったらその半分くらいだろうか。あと、それだけで彼女の視界に僕が映る。

「本当は、見えているんだろ。聞こえているんだろ。何か答えろよ。口があるだろ。喋れるだろ。もしかしたら言葉を知らないのか? だったら心で叫べよ。聞き取ってやるよ、この私が。私はここにいるから」

 なら、聞き取ってくれよ。僕の気持ちも。僕は心の中で叫んだ。

「うるせえ、黙れ。いっせい喋り出すな。私は聖徳太子じゃないんだよ。一人ひとり叫べ。心の中で。あと、譲り合え。人の心の声も聞け。考えろ。何となく生きるな。しっかりしろ」

 生ぬるい夜風が吹く。首筋にうっすらとまとわりついていた汗の表面を撫でる。

 僕はまた歩き始めた。ゆっくりと彼女へ近付いていき、六十歩ほどで目の前に立った。

「見えているよ」僕は言った。

「だよね」彼女が言った。もう、ギターは弾いていない。

「何やってるの? こんなところで」

「歌ってる」

「そうだろうね」歌とは言えないけどね、とは言わなかった。

「お兄さんは何をしているの?」

「帰ろうとしている。仕事終わり」

「お疲れ様です」

「ありがとうございます」

「お兄さんは何で、私に声をかけてくれたの?」

「帰りの電車が来るまで時間があるから」

「ありがとうございます」

「だから、あと三分くらい、お話しませんか?」

「いいですよ。それくらいなら」

「あと、どれくらいここで歌うつもりなの?」

「次に誰かが声をかけてくれるまで」

「僕よりも前に声をかけてきた人はいたんですか?」

「いるとおもいます?」

「いないような気がします」

「そのとおりです」

 彼女が苦笑する。僕もつられて苦笑する。

「じゃあ、がんばってください」

 僕は彼女の足元にある、開かれたギターケースに目をやった。中身は空だった。僕は財布を取り出し、小銭をすべて入れた。

「ありがとうございます」

彼女が頭を下げた。僕は駅へと歩き出した。改札を通り、ホームへ向かう。そこで、アナウンスが流れ、車両トラブルにより電車が遅れることを告げた。

「それにしても、いつまでここで歌ってりゃいいんだよ。まったく。なんで、こんなことしてんだろうか、自分でもわかんないよ、もう」

 彼女の叫び声が聞こえてくる。一瞬、戻ろうか、と考えたがすぐにやめた。

 僕は電光掲示板に目をやった。電車の遅れは十五分だった。

 電車の遅れが延びたら行ってやるよ。僕は心の中で呟いた。

「待ってるよ」と言ってくれることを期待したが、彼女は言ってくれなかった。

 電車はちゃんと十五分遅れでやってきた。僕はそれに乗った。ドアが閉まり、少し走り出したころには、もう彼女の声は聞こえなくなっていた。


 翌朝、僕は仕事場近くの駅にいた。彼女はいなかった。

 誰に声をかけてもらったのだろう。変わった奴もいるもんだ。

 出社や登校する人の群れに追い越されていく。サイダーの泡みたいな雲が流れている。僕は彼女が歌っていた場所に立ち、人の流れを見つめながら、誰か、立ち止まってくれよ。お話ししようぜ、と心の中で呟いてみたが、その声をかき消すように蝉が鳴いていた。

 僕はその日、初めて楽器屋に行き、ギターの値段を知った。しばらく見つめていると、店員が話しかけてきたが、適当に合わせて買わずに店を出た。

 次の日の仕事帰り、彼女はいなかった。その次の日も、その次の日もいなかった。最初は少し残念に思っていたが、次第にそんな気持ちも薄れていき、忘れていった。

 楽器屋にも、あれ以来一度も行っていない。寝て起きて仕事へ行く、日々を過ごしている。

 でも、今でもたまに職場へ向かう電車に揺られながら、今日は帰りにいるかな、と思うことがある。

 会えたら、何を話そうか。そんなことを考える。

 でも、いつまで経っても彼女には会えなかった。


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ここにいたよ 藤意太 @dashimakidaikon551

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