後半

 バイトが終わると、私のスマホに着信があった。

 直人だった。


『ちょっと話せないかな?』と短いメッセージ。


 一瞬、淡い期待をした。でも、それは違うと考えを振り払う。

 バイト先を出ると、やや急ぎ足で直人の元へと向かった。

 京王線に乗り、教えられた新宿外れの居酒屋へと歩く。連絡を受けた居酒屋の路上の前に、直人はいた。路上に力なく座り込み、片手には安物のボトルワイン。

 私に気付くと、「おう、小夏」と浮ついた声音で顔を上げる。顔は真っ赤で、泥酔一歩前といった状態だった。


「どうしたの?」

「……美朱に告った」


 心臓に流れる血が、二、三度冷えたと思う。唇を開くのが、少し重かった。


「……それで?」

「フラれた。タイプじゃないんだってさ」

「そっか……」


 知りたくなかった。

 なんとなく気付いていたけど、言葉で聞きたくなかった。

 誰かが誰かを好きになるなんて当然のことだし、いつだって気に留めない事柄なのに。あなたのことになると、私はどうかしてしまう。


「馬鹿だよな。あいつのこと、何にもわかってなかったなぁ」


 弱々しく吐く。やめて。


「こういう話できるのはさ、同級生の小夏しかいないなぁ」


 照れ臭そうに笑う。


「そうだね」と私。「同級生なんだし、さ」


 ひどく自虐的だな、と思う。


「直人がこんなに傷つくのなんていつぶりだろう」


 隣に腰かけ、直人の力ない指先を見た。


「美朱はひどい奴だね」


 私ははにかんでいった。意外そうな顔をしたあと、フッと笑う直人。


「そうだよな。あいつ、ひどいよな」

「うん、ひどいよ。どんな風にフラれたの?」


 それから、直人はろれつの回らない口で話し始めた。大学のあとにさりげなくを装って、とか。実は去年から好きだったとか。大声で、悔しそうに。でも、どこか、楽しそうに。私はそれにうんうんと頷くだけ。

 でも、知ってる。この寄り添う時間って、そんなに無くって。

 だから、願ってしまう。

 だから、欲してしまう。

 あなたの痛みが私にうつればいいのにって。




 終電もなくなり、私と直人はふたり連れ立って歩く。直人の最寄り駅は二つ先。歩けば三十分ほど。私は一駅分。短いデートだ。

 酔いが冷め始めてきた直人は調子づいていう。


「小夏。俺はてっきり藤森と付き合ってるもんだと思ってたよ。だって、あんなに仲良いからさ」


 ムッとする。


「そんなわけないじゃん。あいつが一方的に絡んでくるだけ」

「だよなぁ」


 空笑いしたあと、「いっそ、付き合ってみたら?」と茶化してくる。

「バッカじゃないの?」


 半笑い。

 からかわれると痛い。胸が苦しくなって、用意していた言葉が喉をつっかえる。

 咄嗟に用意した仮面を被るのは、息苦しい。


「そっかぁ。そうだよな」

「そうに決まってるでしょ? どうして、私があいつのことを好きになると思うわけ?」

「違うんだ。だって、たまに笑ってるからさ」


 見過ごされるのは、怖い。せめて、少しばかり気付いてほしい。

 私は、ずっと直人のこと――

 そこで会話は途絶えた。直人は酔いに浮かされて「あー」とか楽しそうに漏らしてる。

 置いていかれてる気がしてならない。だから――


「私たちさ」切り出してみる。「どういう出会い方したんだっけ? 委員会で話したんだっけ?」


 カマをかけてみた。ちょっとした冒険心といたずら心であった。

 次に、自分が後悔するとも思いも知らずに。


「え~。けっこう前のことじゃん。なんで?」

「なんとなく。直人って、昔のことあんま話さないからさ」

「そう? え~。俺たちたしか……美化委員? だったけどさぁ……」


 それから「いや、違うな。もっと前……」と考える素振りをした。

 きっと、思い出せない。だって、直人はそうやって過去を置いていって、先に進んじゃうんだろうから。

 ハッと思い出したように「あっ! 思い出した、『雨の匂いが好き』だよっ!」と大きな声で顔をあげた。


 心臓が跳ねた。吐こうと思っていた嘘がどこかへ消えた。直人は正解に近づいた興奮を持ったまま早口でいう。


「あれだよ、廊下に貼られた『自己紹介カード』。それで俺、自分と同じもん好きな人いるんだって思って、小夏に声をかけたんだよ」

「あっ……」

「覚えてない? 俺、それで小夏に訊いたんだよ。今思えば、変な奴だったよな、俺」


 涙が滲んでくる。泣くな。そう命令しても目頭が熱くなって無理だった。

 私、バカじゃん。ひとりで強がってさ。


「あれが俺たちの出会いかぁ」としみじみにいう直人。


 もうすぐ、私の最寄り駅。

 こんな顔じゃあ、さよならできない。でも、さよならしたくない。


「明日、大学行けるかなぁ~」とぼやく直人。

「別にいいんじゃない、いつもどおりにすれば」

「小夏って本当にいい子。俺、彼氏ができたら泣いちゃうかも」

「上から目線でいうな」

「小夏の彼氏、絶対にいい奴なんだろうなぁ。幸せになれよぉ、小夏」


 泣きまねをする直人。ズルイな、って思う。


「そうだね。そんないい誰かがいたら、ね」


 “誰か”なんていないのにね。お互いしかいないのに、ね。

 ひと気のない駅前のロータリー前で立ち止まる。自然と、互いに向き合っていた。数秒ほど向き合ったあと、「なんだこれ」と直人は照れくさく笑った。


「なんか青春ドラマみたい」


 私は「そうかも」といって小さく笑った。

 なんで、こんなに近くにいる人を好きになったんだろう。

 なんで、こんなに近くにいるのに想いが伝えられないんだろう。

 どうして身体だけ日増しに成長して、心だけが追い付かなかったんだろう。

 たった一言。

 数億の語の中の、だけ伝えればこんな痛みから解放されるのに。


「じゃあ、また明日、ね」


 私は、遠回しにしてしまうんだ。

 

「おう。今日はありがと」

「帰り、気をつけてね」


 この痛みをうつしてあげたい。こうして手を振る時に胸を襲う、言葉に表せないギュッとくるものを。あなたが家路へ進む道を歩くその背中を貫いて、呼吸が苦しくなる胸苦しさを。


 やがて、予報通りに雨が降った。その瞬間、鼻腔にが届いた。

 懐かしい。

 あの日、あなたが喜んでくれた匂い。

 あなたは思い出すかな? 私はずっと思い出す。


 私は、もう一度来た道を振り返る。街灯が灯す、人影のない道。

 さっきまで、私たちがいた道。

 そうして今じゃ、何もかもが遠く感じる。

 この痛みだけはきっと、何年も、何十年も続くんだろうなと思った。

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ペトリコール症候群 兎ワンコ @usag_oneko

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