ペトリコール症候群

兎ワンコ

前編

 違うテーブルで討論する声があったのに、いつの間にか私はテレビの音に集中してしまっていた。


『あなたは、身近にいる異性が恋愛対象になっていませんか? それは恋愛ウェンディゴ症候群の可能性があります』


 大学の食堂にテレビが設置されているのは珍しいと友人は言っていた。どうでもいいことだと思っていたが、自分の部屋にテレビを置かない私にとって、ここは世の流れを掴める数少ない場所なのだ。

 向かいに座っていた美朱みあなが、私の視線に釣られてテレビに目を向けた。『十代の若者たちで流行っている“恋愛ウェンディゴ”とは?』、なんて説明している。


「恋愛ウェンディゴ症候群だって。こんな馬鹿な言葉を作った人は、ウェンディゴ症候群のことをまるでわかってないわ」


 美朱が呆れたようにいう。


「どういうこと?」

「ウェンディゴは、アメリカ大陸の北部に伝わる精霊のこと。冬に食糧不足に陥った部族に取り憑いて、恐怖と不安を煽ぎ、最後には人肉を食べたくなるようになるんだって。それがウェンディゴ症候群」

「へぇー」

「でも、これはビタミン不足に伴う精神疾患って言われてる。この番組だと、要は結婚や恋愛に焦る人が身近な人を好きになること現象にかけているんでしょ」


 へぇー、と関心した声を出した。

 美朱とはゼミで知り合った。歯に衣着せぬ言い方で、誰にも怖気つかない性格。気の弱い私は、ちょっと甘えガチ。付き合いはもうすぐで一年になる。

 いつも、私は美朱の話に耳を傾ける。すごく、興味のある話題や知識を披露してくるのだから。

 そんな時だった。


「よっ! 元気にしてた?」


 ハツラツとした声とともに私の横に座ってきたのは、藤森祐樹ふじもりゆうき。同じ学部の男子で、おちゃらけという文字をまんま体現した男。

 ツーブロックの黒いキノコ頭。右耳にはリングのヘリックスピアスが二つ。黒いマスク。無地の白シャツの上で踊るネックレス。

 私は、藤森祐樹が嫌い。

 嫌いな人は、ファッションごと嫌いになる。よくないことだけど、どうしても直せない。


「藤森ぃ、お前にはパーソナルスペースってもんがないの?」と美朱。

「そんなことないよぉ。でも、仕方ないじゃん。俺は小夏ちゃんの横がいいんだもん」

「私はぜんぜんよくないんだけど」


 本音。本当に消えて。

 そして、またひとり、私たちの席に近づいてくる。


「おつかれー」


 爽やかな風が乗ったような声に、私は反射的に顔をあげた。飛騨直人ひだなおとだ。

 適度な長さに切られた黒髪に、優しそうな瞳。紺のカジュアルジャケットに、白いシャツ。ジーパンというラフな姿。気取らないけど、決してダサくないファッションがいい。


「直人ー、聞いてくれよぉー。今日も小夏ちゃんはツレないんだぜ」


 おどける祐樹に、「しょうがねえよ。小夏はいつもクールなんだから」

 そう。私と直人は中学校からの仲。この大学で、再会した。


「それより、二人してどうしたの?」と美朱。

「いや、俺たちも次の講義まで時間あるからさ。なんとなく来ただけなんだけど」


 気が付けば、食堂の空気が変わっていた。周囲にいる女学生たちの目が直人を捉えている。

 直人は中学の時から人気者であった。その爽やかさを思わせる清潔感と、どこかたくましさを覚える顔つき。どっかのアイドルグループにいていいかも。

 私も皆と同じく、飛騨直人が好きだ。


「せっかくだしさ、一緒にご飯食べてもいい?」

「いいよ」と美朱。


 美朱が私を見た。いいよ、というジェスチャーをした。

 こういう場面で、美朱は強い。気にしないし、男女特有の友情みたいな恋愛感情なんかより、利己的な判断しかしない。

 きっと、美朱は誰かを好きになるより、合理性で生きてるんだなぁって思う。


「やったね」


 直人がはにかむ。羨ましい。


「じゃあさ、大学終わったあとに夕飯もどうよ? ねえ、小夏ちゃん?」


 祐樹が直人みたいにはにかむ。別になんにも嬉しくない。


「私、バイトがあるから無理」と私。

「えぇー。そりゃあないよ」


 大袈裟なガッカリ姿を見せつけてくる。そんなことしたって、あんたのことなんか好きじゃないのに。

 テレビはいつの間にか天気予報に変わっていた。


『今週より全国各地で梅雨入りとなるでしょう』


「なんだ、雨かぁ。しんどいなぁ」


 祐樹がぼやく。

 梅雨。私は、嫌いじゃない。

 直人と祐樹が食券を買いに席を立つ。直人の背中を見て、心の中で問いかける。

 覚えてるかな? 私と同じものが好きだったってこと。




 私はいつまでも続かないものが欲しい女だ。

 アスファルトに降り始めた雨の匂いだとか、ガソリンスタンドに立ち寄った時のあのツンとした匂いだとか。林間学校でみんなで騒いだ浮かれた熱だとか。

 ずっと嗅いでいたい、ずっとこうしていたいと思うものはすべからく続かずに終わる。

 だから"いつまでも続いて欲しいもの"が、実は"いつまでも続かないもの"だと悟った。欲しいと望み、身体に包まれたものは一様に、去ってしまうのだ。代わりにいらないものばかり、ずっと付き纏われるんだと。

 勉強だとか、人間関係だとか、生理痛だとか。あらゆる非連続的永続なものが鬱陶しい。

 そんな性格だからか、物に執着しなくなった。永遠にありそうなものほどどうでも良くって、ぬいぐるみとか人形なんて好きにならなかった。流行の音楽やネットカルチャーなどはもってのほか。せいぜい、アニメや漫画の同じシーンだけを何度も観るだけにした。終わりがあるものはいらない。その絶頂だけが手元にあればいい。

 そんな調子でいると人を好きになることもなかった。顔がイケてる? 老けたら醜くならない? なんでもできる? じゃあ、病気になったり怪我したら?

 どうでもいい。

 なんだっていい。

 私は私だし。そんな風に思ってた。

 ――中学二年生の時に、直人に会うまでは。

 直人はサッカー部のエースで、学校の女子たちの心を奪っていった。

 一方の私は特に何の部活をするわけでもなく、ただ宙ぶらりんと過ごすだけ。その日だけの暮らし。漠然とした日々を過ごしていた。

 クラス替えで、直人と私は出会った。

 でも、私は最初どうでもいいと思ってた。

 それが、ほんのちょっと。些細なことが、私が築いた鉄壁と呼べる心の壁をあっと言う間に吹き飛ばしてしまった。

 何も望まないと決めた私が、唯一望んだもの――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る