払う獣

大滝のぐれ

払う獣

注 同意ない性行為を想起させる一文が含まれます。





   ◆


 二匹はお菓子の箱を運んでいた。表面には大きな樹木の絵とそこに実っているように配されたお菓子自体の写真があり、すぐ下には二匹と同じ姿をした生きものの姿も描かれている。が、当の彼らはこれが自分たちを模ったものであることに気づいていない。村ではこの絵のことを子供のころから『想像上の動物の姿』と教えている。二匹を始めとした村の者がそれを疑ったことはなかった。水に自分の体を映すたび自然とその絵が脳裏にちらつくことはあったが、どうしてそうなるのか、という思考の掘り下げをすることもなかった。


 運びやすくするために箱の四隅へ打たれた木の枝を握り直しながら、二匹は背の高い草の中へ分け入っていく。いつものように軽やかに動けない今の彼らにとって、安全に進む方法はこれしかなかった。タカ、カラス、ヘビ。村の外には敵が多い。中には草むらを移動する手合いもいたが、それでもひらけた地面を歩くよりはいくぶんか安全と思われた。そう言い聞かせることで二匹は揺らぐ気持ちを支えた。垂れ下がる草の先が箱に印刷された生きものの上をすべる。けっきょく、大人になった今も彼らはこの絵の正体に気づいてはいない。


 が、わかったこともある。背負わされてしまったものもある。昨日、まだ『準備』が整っていない箱の中で遊んでいた子供を叱ったことを思い出しながら、二匹はなおも前へ進む。枝を握る手に、たしかな重みを感じた。


「なあ、やっぱり」

「だまって歩け」

 もう、決めただろ。先頭を歩く一匹が、背中にくっつけた箱を力強くにらみつける。後方の一匹が、それに気圧されたように全身の毛を逆立てた。それきり、辺りには草をかきわけるかすかな、本当にかすかな音だけが残った。ひそひそとしたリスの鳴き声は、もう聞こえない。



   ◇  


「それ、俺も好きなんだ。読んでる人初めて見た」


 スケロクが初めてキーチへ声をかけたとき、彼は机の下に隠すように半開きにした文庫本を読んでいる最中だった。キーチは一週間前にこの小学校へやってきた転校生だったが、引っ込み思案な性格がわざわいし、誰とも話すことができずにいた。

「あ、えっと、え」

 彼の細い肩が跳ね、手に力が込められる。それによりがばっと開かれた本のページには、太字になった「見ないで! この、へんたーい!」というセリフと、やたらに輪郭の丸い、目の大きな女の子の絵が描かれていた。

「ごめん。驚かすつもりじゃなくて。その、ラノベ読んでる子初めて見たから。嬉しくて」

「え、あ、そ、そうなの」

 キーチのおびえに満ちた表情が、すこしずつ笑みに変わっていく。それにつれてふたりはぼそぼそと、やがて勢いよく、その作品について語り始めた。今まで共有したくてもできなかったものを分けあい、言葉をかわすこと。そのかけがえなさを、ふたりはそのとき初めてかみしめた。


 そんな彼らは社会人になった今でも一緒にいる。カーステレオから流れるアニメソングに身をゆだねながら、同じ車に乗って両脇を田んぼに挟まれた道を走っている。曲が終わって新たに流れ始めた別の曲のタイトルを思い浮かべながら、スケロクは頭にゆらめく『推し』という言葉を脳内で転がした。それは彼が握るハンドルと共にくるくる回り、『俺の嫁』という言葉に変形していく。


 小学校を卒業し中学生になったふたりは、そこでたくさんの同類と出会った。そこで、『推し』と似たニュアンスでその表現はよく使われていた。○○たんは俺の嫁。おれのよめ。オレノヨメ。やはり何度言い直してもしっくりこない。それはキーチも同じだったようで、ふたりはその言い回しを決して口にすることはなかった。


 彼らに『嫁』とされていく、たくさんのキャラクターたち。その実体は存在しない。が、彼女たちは別の次元でたしかに生きており、そこには運命を共にしたり信頼を寄せたりしている人物もいる。そのことについてふたりはよく考えをめぐらせていた。が、そのことや言い回し自体への違和感を他人に話したことはなかった。


 ふたたび曲が終わったタイミングでスケロクは歌うのをやめ、かわりに先週もよおされた、キーチだけが欠席した中学時代の仲間との飲み会で起きたことを話し始めた。結婚した者が、子供ができた者がまた増えたこと。そういった話の合間で、風俗や不倫やセックスの話があけすけにかわされたこと。二軒目を出て、なおも繁華街へ消えていこうとする彼らにスケロクが言ったこと。その言葉に振り返った仲間たちの、笑い顔とも困り顔ともつかない、妙に年若く見えた表情のこと。それらを一息に話し終えると、車は何度目かわからない赤信号に捕まっていた。その中でスケロクとキーチは見つめ合う。そんなふたりに『嫁』はいない。が、それは必ずしも孤独であることを意味しない。

 信号が青になり車が動き出すと、おたがいの視線はフロントガラスの外へと注がれた。が、すぐ隣に座っていることには変わりがない。


「遠いなー。やっぱメルカリで売ればよかったかな」

「量が多すぎるから無理だよ。ある程度はまとめてやらないと」


 スケロクとキーチ、ふたりが育った町。その景色が後方に抜け、車が山に入っていく。くねくねとした山道のせいで、彼らの体と後部座席に積まれた段ボールはせわしく揺れた。そのうちのひとつがぱかっと開き、中からラバーストラップやフィギュアが満載された袋がのぞいた。その下や別の箱にも、似たようなアニメグッズが収められている。


 ふたりは町を出て一緒に暮らすつもりだった。手狭になる部屋に、それらを置いておくスペースはない。実家に放置するのもはばかられる。ある程度を持っていって飾る気ももう起きない。処分を、する必要があった。山を超えた先のリサイクルショップ。カーナビに示されたその場所と車との距離が、どんどん縮んでいく。



   ◆


 二匹が今おこなっている一連の行程は『送別』と呼ばれている。それは村における弔いの儀式で、箱の中には、彼ら自身の父親の遺体が入っていた。

 二匹は彼と別れたときのことを思い出す。村の女たちによって箱へしきつめられた花やどんぐりに抱かれた顔は、死に顔にしてはあまりにも安らかだった。そのまま寝ていてくれと思いながら、しばしの沈黙の後に二匹は箱を閉じた。偉大な父親と、やっとの思いで別れを済ませた。二匹の反応はそう受け取られたらしい。周りで、何匹かの男がすすり泣く声が聞こえる。が、二匹の心はこの上なく静かだった。ふたを閉めるのに時間をかけたのは悲しみのせいではなかったし、そもそも二匹は一滴の涙も流していない。しかし、男たちのほとんどはそのことに気づいていなかった。それほどに『送別』がかもし出す空気は特殊だった。冷めているのにどこか熱っぽく、参加する個々人を乱暴に大きな塊へまとめあげてしまうかのような、そんな空気があった。


 村のはずれにある見晴らしのよい場所へ箱を安置し、それを運んだ男が無事に戻ること。そうすることで『送別』は終わり、死者の魂がいやされ救われ村に戻るとされた。豊穣と繁栄をもたらすのだとされた。男たちの歓声を背に受けながら二匹は箱を運び始め、すこし歩いて後ろを振り返った。辺りに響く男たちの歓声とは裏腹に、目を向けた一角は静寂に包まれていた。『送別』が終わった後の宴の準備をする女たちと、地面へ横になった年老いた女の姿がそこにはある。そばに掘られた穴へ、その体が静かに埋葬されていく。茂みの中に入った二匹が、既定の道をひそかに外れる。誰も、それを見ていない。


「そろそろ行くか」

「うん」


 二匹は池のほとりで休息をとっていた。箱を持って立ちあがり、彼らはまたゆっくりと歩き出す。が、一度逸れた思考はなかなか元に戻らない。記憶の中で箱が開く。目を閉じていた父親が、ゆっくりと起き上がっていく。


 彼はたしかに優秀だった。村長にこそなれなかったが、それでもその右腕として村へおおいに貢献した。他の村との交渉にもすぐれ、決裂したさいには鎮圧の指揮や実際の戦闘にも参加し、手柄をあげていた。カラスを単身打ち倒したという話すらあった。

 でも、そんな彼が二匹に見せていた姿は背中ばかりだった。たくさんの食料を抱える背中。他の男たちと肩を組みこづき合い、酒を酌みかわす背中。数日帰ってこなかったと思ったら、自分のものではない誰かの脂のにおいをまとわせ戻ってきた背中。変わったにおいのする赤黒い血、すりむいてしまったときに傷口からするものと同じにおいの血にまみれた背中。彼は強かった。模範とされていた。村のためには親のためにはお前たちもこうなるべき、と教えられていた。が、その背中に触れるには二匹の手はあまりにも短かった。


 父親との記憶の回想はほどなくして終わる。そのことが不満だったのか、彼は尻尾を弓のように曲げてぱしぱしと地面を叩いた。同じような仕草を、母親もよくしていた。彼女はもともと村の外で食料調達をする仕事をしていたが、二匹が生まれてからはもちろん、成長しきって子離れしてからも、その任に戻ることはなかった。元いた地位には、貧弱そうな痩せた男があてがわれていた。お前には根性がある。やればできる。父親は彼をよくそうやって励ましていた。

 巣として使っている木のうろ。その隅で母親は尻尾を床に叩きつけ続けた。二匹が寝たふりをしている日も、父親が理由も告げず帰ってこなかった日も、あの痩せた男が外で死体となって戻ってきた日も、ずっと。そのときの気持ちはわからない。ついぞ、聞けなかった。村の下へ埋まった彼女が、もうしゃべることはない。


 食料調達の才があった母親。手仕事のほうが得意だったという痩せた男。常に父親と比較されつづけてきた二匹。それだけではない。他の一部の村人たちもそうだ。たきつけられてひとりでヘビに挑み、返り討ちにあって死んだ者。規範に適応できず無気力になってしまった者。つがいを持たないことで精神性や行動原理を面白おかしくねつ造され吹聴された者。劣等感をふくらませやけになり、無理な交尾をせまり投獄された者。数えだしたらきりがない。二匹が感知していないものもあるだろう。そういった無数の犠牲と悲鳴を飲み込んで村は肥え太り、二匹はそこでつつがなく成長してきた。が、その足元には血とウジにまみれた毛皮をまとった肉塊があり、父親の姿もそこへ混ざって転がっていた。いつからあるのかもわからない『型』に、幸か不幸かこれ以上ないほどに適合してしまった者。それゆえに、過剰に担ぎあげられもてはやされ、増長してしまった者。


 が、二匹は彼に同情するつもりはなかった。父親は強かった。模範とされていた。ならば、その背中を裏返し、こちらにその大きな胸を広げることだってできたはずだ。守るために他人が追いつけないほど強くなったのなら、弱い者を置いていかない強さを見せつけることだってできたはずだ。


 だから、安らかに眠らせるわけにはいかない。かえりみなくてはならない。ルートを外れた二匹が向かっているのは、かつて父親たちが滅ぼした村の跡地だった。罰が当たるかもしれない。魂が戻らず村が痩せ細っていくかもしれない。でも、もしそうだとするなら、今まで享受していた豊穣や繁栄はまやかしにすぎない。本来の意味とはほど遠い。


 こんなことをして何になるのかはわからない。意味があるのかもわからない。遅すぎたのかもしれない。でも、誰かがやらなくてはならないことだった。箱を安置し無事に戻って、『送別』を完遂する。その後で、きちんと言葉を尽くして語りあう。些細でも一歩を踏み出す。そうすれば、きっと。

 たしかな決意を胸に、二匹は歩を進める。やがて道が開け、灰色の地面が姿をあらわした。それは土でも砂利でも岩でもない。均一にならされたそこを、彼らは急いで渡ろうとする。ここを超えれば、滅んだ村の跡地が見えてくるはずだった。



   ◇


 やがてたどりついたリサイクルショップには活気がなかった。というか、不気味ですらあった。塗装が剥がれた外壁からは前の店の名前とマスコットらしきライオンの絵が透けて見え、ガラス窓からのぞく店内はやけに薄暗い。車を降り、ふたりは困ったように顔を見合わせる。が、けっきょくそのまま後部座席から箱を降ろし、店の中へ運び込み始めた。買取金額やていねいな対応はそこまで大事ではない。大量のアニメグッズを手放すことができるなら問題はない。スケロクはそう考えていた。


「いらっしゃいませ。買取ですか」

「はい。ぜんぶお願いします。値がつかないものは処分してもらってかまわないので」


 レジに置かれた椅子に座っていた店員が、緩慢な動作で立ち上がった。目元あたりまで伸びたぼさぼさの髪とマスクで、その人相はよくうかがえない。慣れた手つきで段ボールをあらため始めたのを横目に、ふたりは店の中に視線を走らせる。店員や外観とは裏腹に、そこはとてもきれいに保たれていた。灰色の床には汚れひとつなく、本や家電、ぬいぐるみやゲーム、その他雑貨というように商品も棚ごとにきちんと整理されている。外から見ると薄暗いと感じた照明も、中に入ってみるとそれは商品を眺めやすい光量に調整されていることがわかった。


 しかし、異質なものはここにもある。棚や床の隙間に、大量の動物の剥製が置かれているのだ。中には商品を陳列する什器のように使われているものさえある。オシドリ、タヌキ、カモノハシ、コウテイペンギン、リス。時を止められた彼らの眼球は、すべてレジのほうへ向いている。ぜんぶ、売りものなのかな。キーチがスケロクにそう耳打ちする。


「そうですよ。買い手には意外と困らないんです」


 その瞬間、店員の声が飛んできた。分厚い前髪の下で、濡れた瞳が照明を反射して光る。それが、開封された段ボールへと向けられる。

「それにしても、ずいぶん懐かしいものばかりですね。最近のやつとかないんですか」

「いくつかあると思いますけど数は少ないですね。アニメやらなんやらは今も好きですけど、グッズはもういいかなって買ってなくて」

「へえ」

 それきり店員は黙ってしまった。キーチはいつの間にスケロクの隣から消えており、今は店の奥の棚を眺めていた。その背中を見ながら彼は時間をつぶす。箱が開く音。取り出されたグッズがカウンターに並ぶ音。パソコンの打鍵音。無機質な音ばかりが辺りを埋める。言葉がかわされることはない。


「今になって、よくこんなもの売ろうと思いましたね」


 出し抜けに放たれた言葉の意味を、スケロクは一瞬つかみそこねる。すぐに理解して返事をしようとするも、それは矢継ぎ早に飛んできた別の言葉にふさがれた。


「当時売ってればもっといい値がついたと思いますよ。なんで今なんですか。こんなに溜め込んで」 

「あ、いや、これから引っ越そうと思ってまして」

「だったらもっとこまめに売りにきたほうがよかったと思いますよ。というか本当に結構な量ですねもうすこし時間かかりますけどいいですよね。おい」

 最後はスケロクに向けられた言葉ではなかった。それを合図に、レジ奥のバックヤードから目の前の店員とうりふたつの姿をした店員がぞろぞろと出てくる。彼ら彼女らはまだ開封されていない箱に手をかけ、それをばりばりと素手で裂き始めた。そこからつかみ出されたグッズたちが、レジ中央に置かれた布製のかごへと放り投げられていく。それらはその中で徐々に堆積し、山のような形をとり始める。が、天井に届くか届かないかぐらいの大きさになったところで根本のフィギュアやアクリルスタンド群がぽろぽろと崩れ始め、ほどなくしてそれは放射状に倒壊してしまった。


「あー崩れたー」

「やり直しだよ」

「しかたない、しかたないよ」


 口々に言いながら、店員たちは崩れたアニメグッズを拾い直しかごへ戻していく。舌打ちと汗の滴があたりに飛びかい、後者はスケロクの肌や服にも散り始める。ていねいに積み直しているわけではないため、ある程度の高さまでくると山はふたたび崩れてしまう。そのたびに舌打ちと汗の量は増えていった。


 それを何度繰り返したころだろうか。ただ茫然とその光景を眺めていたスケロクはふと我に帰り、ポケットに入れていた携帯を取り出した。時刻を確認するためだったが、画面に着信を知らせる通知がともっていることにも気づく。先日の飲みで顔を合わせた、中学時代の友人の名前がそこには書かれている。すこし迷い、けっきょくスケロクはレジ前に立ったままで折り返しの電話をかけた。五回の呼び出し音の後に通話はつながる。こちらがなにかを言う前に、端々がふやけた言葉が耳に流れ込んできた。

「おっ、スケロクこの前ぶりー! みんなで飲んでんだけど来ない? 今日休みだろ。もしあれだったらタケルに車出させるし。あ、キーチにも連絡してくれあいつ電話出なくてさあ」

「え、あ、昼から飲んでるのか」

「あ、まあそうなんすよ、へへ」


 応対を重ねていくたび、店員たちがちらちらと視線を向けてくることにスケロクは気づいた。酒のせいか、友人は徐々に口数が多くなっていく。呂律も回らなくなっていき、言っていることの意味が堂々巡りになったり極端に薄くなったりしていく。そのたびに、視線の量と頻度は増していった。忙しい、大変、がんばろう。大きく分けて三つの意味を持った言葉や会話を口にしながら、店員たちは不毛な作業を続けている。

 あの、どうですか。携帯からいったん耳を離し、スケロクは店員たちにたずねる。やっぱ、だめそうですかね。今度はすこし軽い調子で言ってみる。が、店員たちはおたがいに言葉をかわすばかりで、スケロクに対してはなにも言わなかった。かわりに、生ぬるい視線ばかりが返ってくる。携帯と耳の間で、もはやなんの話をしているのかもわからない声が滞留する。電話を切ろうとスケロクは思った。が、ひとつなぎのようになってしまっているそれへ切れ込みを入れるタイミングがなかなかつかめない。店員の視線、言葉、舌打ち、汗。アニメグッズが握られ投げられ崩れる音。すべてをスケロクは一身に受け止める。電話の向こうにそれらが届くことはない。


「すみません、やっぱりすこしくらい持って帰ったほうがいいですよね」


 そこに、店の奥から戻ってきたキーチがあらわれた。多かったですよね、もっと大きいところ、お店にも分けて持っていくべきでした。スケロクや店員がなにかを言う前に、彼はまだ無事な段ボールをふたつ手に取り、レジカウンターを乗り越えてアニメグッズの山を崩した。立体物や印刷や刺繍などで表現されたキャラクターたちの足が、目が、髪が耳がてのひらが胸が腹が、くぐもった音を立てて箱の中へ落ちていく。それらがいっぱいになると、キーチは周りの店員に頭を下げながらスケロクのもとへ戻ってきた。

「スケロク、行こう」

 舌打ちと汗が飛びかうさなか、彼は抱えた箱を差し出してきた。そのうちのひとつを受け取り、スケロクはキーチと共に店の外へ出た。箱を後部座席に積み、車を発進させる。店の窓から、たくさんの店員の顔がのぞいている。外に出てくる者はいなかった。


「別の場所、探さなきゃな」

「やっぱりネットにちまちま出すのもいいかもね」

 カーステレオから曲を流すことを忘れたまま、ふたりはぽつぽつと言葉をかわす。いくぶんか軽くなった車体が道路を滑り、来た道を戻っていく。ほどなくして山の木々のこもれびが降り注いできた。道が湾曲を始める。ふたりと後部座席の箱が揺れる。


「あ、買い取りのお金。ああいうの、もしあったらもらってこないとまずかったかな」

 どうしよう、謝罪の電話とかしたほうがいいかな。キーチが自分の携帯を取り出そうとする。店員たちの仕草や言葉や行動、電話のことを思い出しながら、彼はハンドルを強く握って口を開く。

「まあ、もともとそんなに値がつきそうにないものだったんだし、大丈夫だろ。店の方角にごめんなさいでもしときな」

 すみません、すみません。キーチは後ろを向いて頭を下げ始める。やばすぎる、と笑いながら、内心でスケロクも謝罪の言葉を口にする。そういえば、友人から電話がかけ直されてくることはなかった。


 ふたりを乗せた車はなおも山道を進んでいく。まっすぐの道がしばらく続くところで、スケロクはバックミラーに目をやった。背後に広がる道と山の木々、砂色の座席、その上に積まれた箱を順繰りに眺める。それは一瞬のできごとだった。


 そのはずなのに、視線を戻したスケロクの目には、今までなかったはずのものが現れていた。進行方向のアスファルト上に、なにか四角いものが落ちている。それは、かすかに。考えるよりも先に足が動いた。ブレーキが踏まれ、車内のすべてが前のめりになる。身をよじり後ろを見ていたキーチも、ハンドルを強く握るスケロクも、ふたつ並んで置かれた箱も、すべてがすべて。



   ◆


 見えたのはこもれびだった。しかし、それは道路の上で揺れてはいない。迫りくる大きな白いなにかによってめくりあげられ、どこかへ吹き飛ばされ続けていた。逃げなくては。二匹は本能からくる指令に突きあげられる。が、どうしても体が動かない。視界いっぱいに広がるその大きなものを、まるで他人事のように見ることしかできなかった。


 自分が、家族が、村が、父親が。さまざまな考えが頭をかすめる。その中で、二匹は目をそらすように箱へと目を向けた。想像上の動物が、彼らをまんまるの瞳で見つめ返す。凪いだ池の水面を眺めたときの既視感が頭を満たす。なにかが地面にこすりつけられ、甲高い音が鳴る。瞬間、思考が薄い膜を突き破った。その先に、彼らの短い手がかかる。


「あれ、これって」


 車体の表面に二匹の姿が映り込む。言葉が、鳴き声が、続くことはなかった。



   ◇


「うわなに危な、なに」

「びびった、ほんとにびびった」

 ブレーキが効いたことにより車体が軽く跳ね、前のめりになっていたすべてが元に戻る。キーチの興奮した声を聞きながら、スケロクは一拍遅れて体が冷たくなるのを感じた。事故を起こしかけたという恐怖もあるにはあったが、それとは別の想いによるものだった。この町に住んでいれば山道を運転することなんてよくあるし、ロードキルだってしたことがないわけではない。申し訳ないとは思うが、止まらずに走り抜けないと危険なときもある。


 が、今回は違った。一瞬だけしか見ていないが、あれは生きものではなかった。ただの小さな箱だった、ように思う。自信はない。小動物であったという可能性もある。でも、いったんは無機物だと判断したのは事実だった。それなのに、彼は迷いなくブレーキを踏んでいた。後続車がいないことはわかっていたが、だとしても危険なことに変わりはない。箱のために死ぬことがありえた。それでもそうしてしまった。


 座席にもたれかかりながら、スケロクは初めてのロードキルを思い出している。夜の山道。その上で横になっていたリス。車を降りて確認したさいに見た、押し花のようにぺったりとした、毛の塊。


「ごめんちょっと見てくる。車来たら教えて」

 え、あ、うん。キーチの声に見送られながらスケロクは車を降りる。車体の前で彼はかがみ、そのまましばらくの間、助手席に座るキーチの視界から消え失せた。自分も外に出たほうがいいかな。彼がそう思い始めるぐらいの時間が経ってから、スケロクは運転席へ戻ってきた。ほどなくして車は動き出す。ハンドルはすこし右に切られたが、またすぐに戻った。


「え、どうだったの」

「あ、いや、うん」


 煮え切らない返事をスケロクはした。なにも言わず、キーチは後ろを振り返る。が、ゆるい下り坂を抜けて上り坂に差し掛かったところだったため、後部座席の窓から見えたのはややこちらへ傾斜したアスファルトだけだった。


「あのさ、公園、が」


 山を越え、車がふたりの住む町へ戻ってくる。あいかわらずアニメソングの流れていない車内で、ずっと押し黙っていたスケロクはおもむろに口を開いた。

「公園あっただろ。ほら、今越えてきた山の裏の」

「ああ、あるね」

「そこでさ、小学生のときによくお菓子の箱拾っただろ。ベンチの下とか植え込みとかに落ちてて」

「うわ、懐かし。あったね」

「だよね、懐かしいよな」

「でもあれ、けっきょくなんだったんだろうね。おままごとの忘れ物だったのかな。花とかどんぐりとかいっぱい入っててたし」

「たしかに。謎だよなー」


 そこからスケロクはうまく話題をずらしていった。笑い声や弾んだ調子の声が車内を満たし、やがてそこにはアニメソングも混ざり始めた。車を停めたら、なにをおいてもすぐキーチの手を握りたい。スケロクはそう思った。新生活のこともアニメグッズのことも今だけは考えず、ただひたすらにそうしたかった。そうでもしないと進めない。どこにも、歩き出せないような気がした。




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払う獣 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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