貯水槽
多田いづみ
貯水槽
夜が長くなった。
気分がざわつき、足の裏がムズムズする。いてもたってもいられず、部屋のなかをいったり来たりして、なんとかなだめようとするのだけれど、じりじりと焦るばかりで、胸のうちのもやもやはいっこうに晴れない。そんな時期が、わたしにはたびたび訪れる。
しかたなく、わたしはあつまりにいった。あつまりというのは、なんと言ったらいいか――つまり人の集まりである。何人かであつまって、何かをする。ただそれだけのことだ。だから、あつまりに出たからといってどうなるわけでもないのだけれど、すくなくとも気晴らしにはなるし、どのみちひとりではいられないのだから、そうするよりほかない。
あつまりに出るのは久しぶりだった。
以前、湾岸にある、鼻の曲がるような化学臭のただよう工場地帯に連れていかれて以来のことだ。
そこはやたらとひらべったい殺風景な埋め立て地で、たくさんの工場が建っていた。工場は、むきだしの配管やら煙突やらでごちゃごちゃと入り組んでおり、煙突からは紫の煙が上がっていた。何を作っているのかは知らないが、とにかく、あの複雑な配管のなかを薬品が通過して、何らかの処理をほどこされ、社会に役立つ何かを生成しているのだろう。
そのうちわたしは、機械のはらわたを見ているような感じがしてきて、さらに気分が悪くなった。工場で働いているうちに頭がおかしくなり、歯車だらけの機械のなかに飛びこんだチャップリンの映画を思い出したりもした。
それから半年以上、わたしはあつまりには出ていなかった――。
集合場所は近くのコンビニエンスストアの駐車場で、すでに五、六人がいた。女が二人と、あとは男。だれもかれも、見たことのない顔ばかりだった。
はたしてここが正式な、わたしが所属するあつまりなのかどうかもはっきりしない。しかし他の人からは文句も出ず、排除もされなかった。
時間になると、銀ぶちのメガネをかけた、やけにおでこの広い男が、
「じゃあ、そろそろ行きましょう」といって先導し、皆でぞろぞろあとをついていった。
十五分ほど歩くと、大きな公園があった。公園は妙にひっそりとして、動くものの気配がなかった。はじめて来たところだから、いつもこんなふうなのか、今日だけがとくべつ静かなのかはよく分からない。
公園といっても、派手な色の遊具などは見当たらなかった。遊んでいる子ども、それを見守る親、ひなたぼっこする老人、そうしたものも見当たらなかった。
手入れのゆきとどいた芝生が目にここちよく、陽に照らされた青葉がまぶしいほどかがやいていた。
枝ぶりのよい木が砂利道まで大きく張り出して、木漏れ日が地面をまだらに染めた園内をずっと入ってゆくと、こんもりした小さな森があって、葉陰の奥に古いコンクリートの建てものが見えてきた。
建てものは二階建てほどの高さで、サイコロみたいに四角くのっぺりとして、窓がひとつもなかった。壁はコンクリートの地肌がむき出しで、サビだらけの配管が何本か這っていて、ところどころカビかなにかで黒ずんでいた。どこもかしこも気の沈むようなつくりのなか、壁のいちばん上のところだけが、明るい空色のペンキで帯のように塗られている。
メガネの男は頑丈そうな鉄のとびらを開けると、入って入ってとわたしたちに手招きした。男は入り口で薄っぺらなビニール製のカッパを手渡し、
「たぶん大丈夫だと思いますが、水がかかるかもしれませんから」
とそのカッパを着るようにいった。
外は汗ばむような陽気だったが、建てものの中はひんやりしていた。湿気も多かった。コンクリートの内壁はじっとりと汗をかいて、ときどき天井から、ぼとりと水がたれてきた。
窓がないので、中はひどく暗かった。電灯がいくつか点っていたけれど、足元すらよく見えない。やけに物音がひびいて、まるで洞くつのなかにいるようだった。
だんだん目が慣れてくると、建てものの底は数メートルほど掘りこまれていて、何かが溜まるようなしくみになっているのが分かった。細い足場が壁に沿って据えつけられ、鉄の手すりが回っている。
わたしはあまり手すりに触れたくなかった。というのも、こうした管理のゆきとどかないところの手すりをさわると、鉄さびの匂いがついてなかなか取れないからだ。
足場は人ひとり通るのがせいいっぱいで、わたしたちは横ならびでそこに陣取った。
どういうことだか分からないまま、真っ暗な底をしばらく眺めていると、
「そろそろはじまります」
とメガネの男がいった。
大きなケモノのうなるような音がした。と思ったら、暗い建てものの底がだんだん浮かび上がってきた。いや、底ではない。水だ。水が建てものに溜まって、それがせり上がってきているのだ。
水面はほとんど波立たず、大きな黒い鏡のように浮かんできた。
ひたひたと、わたしたちの立っている足場のすぐ下までせり上がってくると、ケモノのうなり声は止まり、水面の上昇も止まった。
しばらくすると、水はだんだん引いていって、また空になった。
上がっては引き、上がっては引きをくり返し、わたしたちは、だれもなにも言わず、それを見ていた。しかしなかには、しきりにペンを動かし、真剣そうにノートに書きつけている者もいた。
そうして、水の上昇と下降を五回くり返したところで、
「これで終わりです」
とメガネの男がいった。
帰り道、わたしはメガネの男に、さっきのはどういうことだったのか訊ねた。というのも、今日のあつまりが何を意味するのか、はじめから終わりまで、わたしにはまるっきり分からなかったからだ。
「そんなの当たり前じゃないですか――」と男は怒るようにいった。「あつまりってのは、前々回のあつまりがあって、前回のあつまりがあって、それで今回のあつまりがあるわけですから! そうやってずっとつながってるわけですから! それを今日だけいきなりぽつんと来たって、そんなもの、分かるわけがないでしょう。だいたいあなた、さいきん評判わるいですよ。なんで、もっとちゃんとあつまりに出てこないんですか」
こののっぺりとしたメガネの男の顔は、わたしの記憶になかった。が、男の方はわたしのことを知っているらしい。
「あいにく仕事がいそがしくてね」とわたしは弁解した。
ウソだ。べつにいそがしくなんかない。むしろひまを持て余している。ただ、何もやる気が起きないだけだ。
「さあ、どうですかね」と男はわたしのウソを見抜いたかのように鼻を鳴らし、先へ行ってしまった。
「大丈夫よ。わたしなんて最近ずっと出てるけど、何のことだかさっぱり」
横でやり取りをきいていた女が、口をはさんだ。建てものの中で、しきりに何か書いていた女だった。
「でもさっき君、いろいろメモをとってたよね」
とわたしがいうと、
「ああ、あれのこと」
と女は、照れくさそうに笑った。
よく見ると、女は鼻の横に、蝶が羽根を広げたような形のあざがあった。あざは大きかったけれど色は薄かったから、化粧でどうにかなりそうにも思えたが、そもそも隠すつもりはないらしかった。
「よかったら見てみる?」
と女はわたしにノートを差しだした。
べつに興味はなかったけれど、押しつけるように手渡されたので、受け取らないわけにはいかなかった。しかたなく、わたしは、ぱらぱらとページをめくった。最後に書かれた箇所を開き、妙に角ばったクセのある文字をひろうと、
コンクリートの壁に守られた 水の宮殿
太陽の光も届かない 静寂が支配する空間
水滴が落ちる音 それは地球の鼓動
雨の贈り物 命の源 あなたは街の心臓
人びとの渇きを潤し 緑を育み 花を咲かせる
「なんだい、これは?」
「まあ、詩みたいなものよ。あつまりとはぜんぜん関係ないんだけれど――。思いついたら書きとめて、あとでメロディをつけるの」
女はわたしから視線を逸らし、伏し目がちにいった。
「つまり君は作曲家というわけか。それに作詞家でもある」
「そんな大げさなものじゃないわ。ただの趣味よ」
と彼女はほとんどあさっての方を向いて、恥ずかしそうに手をひらひらさせた。
女が感想を求めてきたので、わたしにはあまりピンとこなかったけれど、
「うん、なかなかいいね」とあいまいに言葉を濁した。
わたしは女に、いつからあつまりに来ているのか訊ねた。
二か月ちょっと前だと彼女はいった。
「今日でちょうど十回目」
なるほど、それなら半年も休んでいたわたしが知っているはずがない。
「次のあつまりにも来るかい?」
「どうかしら――。もうやめようかと思ってたけど、来てもいいわ。どうせひまだし。あなたは?」
「たぶんしばらくは来ると思う。メガネにあんなこと言われたままじゃ癪にさわるし、このままやめたら、何がなんだか分からないからね」
「じゃあ前に来てたときは、何をやってるか分かってたの?」
「そう言われると、そのときも分からなかったな」
「何よ。いいかげんね」
と彼女は笑った。つられて、わたしも笑った。
いつの間にか、いっしょに歩いているのは、わたしと彼女の二人だけになっていた。
出発地点のコンビニエンスストアまで戻ってくると、わたしたちはコーヒーを買い、店の前でたむろする学生たちにまじって、ながながと話をつづけた。
今日のあつまりについて考察し、メガネの男の悪口をいい、ドーナツを買い、コーヒーをおかわりし、次のあつまりの予想を立てた。
次に会うときは、彼女のつくった曲をいくつかきかせてくれるらしい。楽しみだと言っておいたが、あの詩を読むかぎり、あまり期待できそうにない。
彼女と別れて家に戻ってくると、ざわついた気分はすっかり治っていた。足の裏のムズムズも、我慢しきれないほどではなくなっていた。もうあと二、三回、あつまりに通えば、もとの自分に戻れるかもしれない。
彼女には、あつまりのことを何がなんだか分からないと言ったけれど、じつは、わたしには分かっていた。すくなくとも、たぶんこうだろうという予測はついた。
つまり、いくら謎めいているように思えても、あつまりに謎はない。陰謀も、秘密もない。あつまって何を見るのか、何をするのかというのは、大して重要ではないのだ。それよりも、皆で体験を共有する、分かちあう、そのこと自体に意味があるのだと。
もしかするとメガネの男も、知らないでいるのかもしれない。でもそれはどうでもいいことだ。
けれども蝶のあざの彼女には、なんとしても、そのことを知ってほしいと思った。
(了)
貯水槽 多田いづみ @tadaidumi
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