ふたりの温度

真花

ふたりの温度

 二人の間に据えられたカマンベールチーズは何も言わずに六つ切りで、僕達は手を伸ばさないまま、言葉を発しないまま、もう随分座り続けている。智香ともかは視線を斜めに落として、ときおり緩慢な瞬きを、まるで一度眠って戻って来るような瞼の動きを繰り返している。僕は智香の顔を見て、チーズを見て、それからどこに目を向ければいいのか分からなくなって部屋の中をさっと眺めた。散乱した部屋は生活の痕跡と言うよりも生活の残渣で、それはきっと智香の怠慢さからではなくそこに気が回らなくなる程に追い詰められていた結果だ。僕は智香の横顔を見る。智香の瞼が落ちる。僕達は酔ってはいないし、深夜でもない。だから、僕は待つ。

 僕は智香に触れたことはない。触れてみたいと思ったことは高校生の頃にはあったが、一緒に年を重ねて、それぞれに恋人が出来たり別れたりを繰り返す内にまるでカンナで削られるみたいに色気を感じることがなくなった。必要なときに会い、不必要なときにも会う。今も、その頬に触れたいとは思わない。今日は必要で呼び出された。智香の部屋に初めて入った。智香の部屋なのに、智香ではない匂いがした。ダイニングテーブルに通されて、カマンベールチーズが置かれた。智香は僕を見ない。

 蝉の声が聞こえる。ミンミン言う奴のミーンの回数を数える。最後の方は鳴く限界に挑戦しているように息切れするから、小さく応援する。智香に向けるべき応援を少し拝借するのに気持ちに百円玉くらいの影が出来るが、ミーンが終わって戻せばその影も消える。鳴き声に合わせて影を差させたり、引っ込めたりする――

「私がいけないのかな」

 智香は斜め下を向いたまま呟く。その音波は小さいが、着実に部屋全体まで浸透して、空間の全部が智香になって俯いた。発生した引力が僕の胸の中まで至って、ため息の種が生まれた。だが、僕は種をぐっと飲み込む。揺れかけた視線を智香の目に固定する。

「何があったの?」

 智香は答えずに、首をゆっくりと振る。昔はすぐに泣いていた。悲しみ方も歳を取る。だが僕達は成熟したと言うには若過ぎる。もしかしたら思春期よりも不安定な時期なのかも知れない。智香は再び一点を凝視して、そこにはサボテンの鉢があって、床に置いて蹴らないのだろうか、サボテンも何も言わない。僕もサボテンを見る。僕と、智香と、サボテンの三角形にチーズが介入出来ずにいる。智香の中のものが醸成されるまで待つしかない。

 長期戦を覚悟した途端に、智香が口を開いた。

「彼が女を作って、私を捨てた。以上」

 吐いた言葉がサボテンを経由して僕に届く。言い終えたら、智香は僕を見た。青くて黒い顔をしていた。目が細かく揺れて、痛い。僕は退かずに智香の顔を受け止める。目に見えないくらいの汗が体から噴き出した。

「もう少し詳しく、聞かせてよ」

 智香は唇に力を入れて、肩を怒らせる。まるで僕は威嚇されている獲物のようだ。だがそれが違うとすぐに分かった。智香は自分の中にいる彼と、自分に対して戦闘態勢を取っている。いや、既に戦いは始まっている。その余波が僕を打ち据える。智香はふうふうと息を荒くして、涙は出ていない、顔に赤のニュアンスが混じる。

「彼は私のことを好きだと、ずっと好きだと言っていた。私、このまま結婚するんじゃないかって思っていた」

 震える言葉を切って、また智香は自分の内部で戦う。僕は、そっか、と言って待つ。他の何にも注意を向けず、智香だけを見ながら待つ。

「それが突然、『好きな人が出来たから別れたい』って、何よ! 私は抵抗した。だけど、全然ダメで、強引に別れさせられた。そして今日を迎えた」

 智香は言い切ったら体から力が半分抜けた。その落差は落胆の分のようだった。僕は頭の中で状況を整理する。整理するまでもない内容だが、精査する。多分、ただの失恋ではない。結婚を意識していた。きっと具体的に、現実的に、智香の中では準備が進んでいた。

「彼だけじゃなくて、予定していた未来を失ったんだよね」

 智香は錆びた動きで頷く。認めたさと認めたくなさが同居しているような動きだった。智香は大きく息を吸って、ひと息に吐き出す。僕はため息の種を隠し続ける。

「その通りだよ。涙も出ないんだ」

 智香の声の角が少しだけ丸くなっている。僕は声を拾って、指で確かめる。何度か頷いてから、智香に記すみたいに声をかける。

「失ったものがデカ過ぎるから、当然だと思う」

 智香は額を小突かれたみたいに身を縮めて、また息を吐く。吐かれた息は全部カマンベールチーズにかかっている。今やサボテンは僕達の輪から弾き出されている。だが何も言わない。吐き出された分だけ、智香が元の智香に近付く。

「私の将来とか未来が消し飛んだ。失恋とは味が違う」

 智香は自分に言い聞かせるように言って、咀嚼するように黙り、僕が頷くのを確かめてから息を、今度はちゃんとしたため息を吐く。その息は智香の顔の青さを写し取ったような色をしていて、吐き切ったら顔の青がその分だけ薄くなった。だがまだ黒くて赤くて、少し青い。ため息が掻き消えるように空間に馴染む。

「思えばあの男はやさしくなかった。ギャンブルもするし、借金だってある。結婚するという幻想がなければ別れるべき人間だった。私は、彼と結婚がしたいんじゃなくて、結婚がしたかったのかも知れない」

 声は黒かった。渦を巻いて僕と智香の間に漂った。僕はその渦を吸い込む。胸の底にすみやかに溜まって、鈍く痛い。絞り出すように、そうなんだ、と言うと、倒れ込む智香を抱き締めるイメージが浮かんだ。それはあり得る未来だが、きっとしない。それとも僕達の距離が、十年以上育てたこの距離がこのひと晩で変わってしまうのだろうか。

「私、惨めだよね?」

 智香がぐっと近くに来た、感じがした。僕はたじろぐことをせずに同じ場所に留まる。

「そうだね」

 智香は息を止めて目を瞬かせる。その瞬きの度に千切りの包丁が智香の現実に対する抵抗を刻むように、智香から力が強張りが抜けて行く。まるで空気を抜くように智香の気配が萎んでいく。だが、消えることはなく、ずっと萎み続けているという状態が維持される錯覚のようだった。

「やっぱ、そうだよね。惨めだよね」

 空っぽになる前に、智香は体を伸ばす。一気に広がった胸に新しい風を通すみたいだった。

「今は思いっ切り惨めでいいんじゃないかな。そして脱皮して、次の恋をすればいい」

 僕の言葉が確かに智香に届いた感覚があって、智香は顔を歪める。込み上げて来る涙を堪える顔だった。前は泣くことを我慢なんてしなかったから、不思議だった。僕の知っている智香は智香の一部だけだから、何かこうなるようなことが累積したのだ。僕は、だから、その我慢の膜を破る。

「智香、泣きなよ。泣いていいんだ。もちろん泣いていいんだ」

 智香は息を呑んで、僕を見て、サボテンを見て、チーズを見た。それからもう一回僕を見てから、大粒の涙をこぼし始めた。智香は静かに泣く。涙は流しっぱなしで、僕の顔を見たまま。僕は抱き締めるような気持ちでテーブルの向こう側の智香が泣くのを見ている。だが触れない。智香は触れられたいのだろうか。智香は泣き続ける。僕はその姿を見守っている。


 永遠に泣きそうであっても終わりは来て、智香の涙は痕になった。僕はずっとそうなるまで見ていた。智香がティッシュで顔を拭く。呼吸はもう整っていた。顔の黒も青も赤も涙と一緒に流れ出て、元に近い智香がここにいる。

「半分すっきりした」

 僕は頷く。智香の中身が排出された空間も色を吸収し切っていた。蝉の声が久し振りに聞こえた。智香は半ば無理矢理に笑顔を作る。不自然なその笑みには痛みがあった。

「もう半分は、きっと時間がかかると思う。でも、それに取り掛かるのに必要な土台は出来た。りゅうちゃん、ありがとう」

 僕も笑い返す。ほっとしたのか、嬉しいのか、よく分からないものが微笑みとして顔に出た。

「普通のことだよ」

 智香の笑みが一歩自然になる。智香がカマンベールチーズに視線を向けて、やわらかい息を吐いてから僕を見る。もう一歩自然な表情になっていた。

「龍ちゃんはやさしいね」

 僕はわずかに身構えた。だが、その必要はないと思い直して力を抜こうとする。僕もチーズを一瞬見てから智香の顔を見直す。その間に僕の緊張はまるで最初からないものだったかのように凪を取り戻していた。

「普通だよ」

 智香は、ふふ、と穏やかに笑う。急に華やかさが立ち現れる。

「やさしい人の普通は、やさしい。でもやさしさはときには罪になるよ」

 それがどんな罪かは訊いてはいけない。僕達が僕達のままであることが必要なことではないが、僕は壊したくない。僕の目が自然な動きでサボテンに向かった。部屋の片隅でサボテンはどんな気持ちで棘を立て続けるのだろう。僕がやさしいとして、僕が智香に突き立てるやさしさと、サボテンの棘は同じものなのかも知れない。視線を智香に戻すと、まだ華やかで、だが、それはさっきよりずっと落ち着いた、智香そのものが元から持つ華やかさになっていた。この部屋に来るまでと来た後の智香に欠けていたものが還って来ただけだろう。

「いつもの智香に戻ったね」

 智香は首を振る。僕の言葉を散り散りに砕くみたいに。その動きこそが智香のいつもがここにある証拠だと思ったら、僕の底から笑いが込み上げて来て、それを顔で控え目に表現する。それでも、笑い顔には違いがない。智香は、ちょっとびっくりして、呼応するように笑う。

「全然いつもの私じゃないよ」

 僕達は目を合わせて、さらに笑う。二人で共謀した何かが上手く行ったみたいに。

「分かってる」

 部屋中が僕達の二つの笑いがぶつかって生まれる火花のような、花のような光に埋め尽くされていって、僕達はテーブルという筏に乗ってその光の海を漂う。

「チーズ食べる?」

 智香がカマンベールチーズのひと切れをつまんで僕に差し出す。僕は、食べる、と受け取った。智香も同じようにひとつつまむ。チーズはとろとろに溶けていた。きっと元の温度に戻せばまた固くなる。だが、僕達は溶けたままのチーズを口に含んだ。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ふたりの温度 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ