河童

夢月七海

河童


 ドッペルゲンガーに会ったことがある。


 大川で釣りをしている時だった。夕立に降られてしまい、どうしようかと周囲に首を巡らせる。すると、自分の隣にも、釣りをしている男がいた。

 今まで全く気付かなかったのにも驚いたが、大きなつばの麦わら帽子を被ったまま、雨に煙る彼の姿が、一瞬だけ、河童に見えた。戸惑いつつ、彼にも声を掛けようと近寄った。


 すみません、と言ってみると、彼が顔を挙げた。そして、また驚いた。麦わら帽子の下の顔は、目つきに鼻筋、口元から輪郭まで、自分と瓜二つだった。

 衝撃に固まっている自分を見上げた彼は、今更気付いたかのように、「ああ、雨」と呟いた。そして、自分の真後ろにある河川敷の東屋を指差し、「あそこで雨宿りしましょうか」と言い切った。


 決して切れない蜘蛛の糸で引っ張られるかのように、自分は彼とその東屋に入った。屋根の下から雨雲を眺める彼は、「激しいですが、すぐに止むでしょう」と尋ねてきた。

 まるで、自分にそっくりな男が目の前にいるとは思えない立ち振る舞いだ。自分は、この男は鏡で自分の顔を見たことないのだろうかなどと、ありえないことまで考えた。


 「雨が止むまで、思考実験でもしましょうか」と、彼が言う。自分は、はあ、返しつつ、多少は面白そうだと感じていた。

 「思考実験というと、あれですか、トロッコ問題のような」と私が訪ねると、彼は笑って首を振った。「そこまで堅苦しいものではありませんよ。私がいつも考えていることです。例えば……」と、彼は例を口にした。


 「もしも、自分の鼻が視界に入るほど大きければ、それはコンプレックスになっていたのか」「最愛の娘を犠牲にして、最高の芸術品を完成させた男が自殺した。その原因は、娘の死か、芸術を極めたからなのか」「周囲も羨む大金持ちになるのと、悠々自適な仙人になるのと、どちらが幸せなのか」……彼は、自分がこれまで聞いたことのない思考実験を、次々に繰り出した。

 自分は、これに対する意見を述べながら、その思考実験は自分が心の底で無意識に考えていたことのようだと思っていた。顔が同じだから、頭の中も同じになるのだろうか。


 途中、彼は懐から煙草を一本取りだして、厳重に取り出したマッチ箱の中身で、これに火をつけた。雨の中でも、湿っていないマッチ箱は優秀だと思い、自分も煙草が吸いたくなった。彼の「煙草がこんなに旨いのは、悪魔が人間を堕落させるためにもたらせたからだ」という一言にも頷いてしまうほど、自分も愛煙家だった。

 彼が、「吸いますか?」と一本差し出してくれたので、自分もご相伴に預かることにした。それをもらう時、彼の指先から、なぜか新鮮な蜜柑の香りが一瞬した。


 彼とは長く話し込んでいたはずなのに、中々夕立が止む気配がない。この時点では、自分は彼に対する恐れを全く抱いていなかった。例えば、ずっと自分に付き従っていた影と初めて会話を交わしたかのような、親しみすら彼に覚えていた。

 ふいに、彼がこちらを見て、「最後の思考実験としましょうか」と言った。まだ雨が降っているのに? とも思ったが、彼の一言で、その疑念は喪失した——「もしも運命の歯車が狂ったら、あなたはどうなってしまいますか?」


 自分が思考実験に対象になるとは思ってもいなかったので、大いに戸惑いつつ、「分かりません」と正直に答えた。すると彼は、無邪気な瞳で笑って、こう言い切った「小説家になっていましたよ」……。

 ぞくっとした自分は初めて、彼と話し込むのは危険だと気付いた。ここから立ち去らねばと思った瞬間、自分の鞄の奥に、レインコートを入れたままにしていたことを思い出した。


 鞄の中を探って見つけたそれに、腕を通しているのを、彼は洟を啜りつつも黙って見ていた。ただ一言だけ、「いいレインコートですね」と言った。どこにでも売っている、作業用のレインコートなのだが。

 帰ります——と口の中でもごもご言って、私は東屋を出た。雨がレインコートを叩く音を聞きつつ大分進んでから、一度だけ振り返った。左方向へ体を向け、肩に釣竿を背負い、顔だけはこちらを見つめている彼のシルエットは、やはり、河童に似ていた。


 彼の行方は、誰も知らない。

















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

河童 夢月七海 @yumetuki-773

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ