心の底から愛してる

筆入優

【本編】視界

 クラス替え初日の教室では誰も言葉を発さず、何かをじっと待っているみたいに席を動こうとしない。隣のクラスは偶然にも一年時のクラスメイトが二年にほぼそのまま持ち上がったのか、騒がしかった。一方僕のクラスは物音が立てば皆一斉に音のしたほうを振り向くだろう。


 案の定、ドアの開閉音が聞こえてきた瞬間、クラス中が電光石火の勢いで振り向いた。


 ドアの前に全身真っ黒な人が立っている。その人は床につくほど長いスカートにジャケットという、怪しげな服装だった。ジャケットは上までジッパーが上がっているから、下に着ている服は見えない。


 黒いハットから薄い膜のようなものが垂れている。ヴェールだ。本人からはこちらが見えているのだろうが、目を伏せているのとヴェールのせいでその人の顔はよく見えない。


 その人はこちらに向かってくる。ふと隣の空席が目に入った。


 嫌な予感は良い予感よりも的中するもので、その人は僕の隣に座った。教室中の視線が僕に集まる。誰とも目を合わさないよう、前方に集中した。それでも横目に黒い人を捉えてしまう。


 黒い人について考えている間に世界史教諭兼担任のおかが入ってきた。


 自己紹介は基本的には省くが、やりたい奴はやれということになった。岡田が来て緊張がほぐれたのか、数人のお調子者が前に立って自己紹介を始めた。


 彼らの紹介が終わって次の段に移ると思いきや、岡田が『転校生のヒカリはまだ誰も知らないだろ、自己紹介よろしく』とヒカリさんを指名した。誰かと思っていたら隣から椅子の引かれる音がした。以前は私服の高校にいたのだろうか。この辺りでそんな高校の存在は聞いたこともないけれど。


 ヒカリさんが前に立つ。


 教室中が静まり返る。


どこからか唾を飲む音が聞こえた。先程の自己紹介では視線が明後日の方を向いていた生徒もいたのに、ヒカリさんには人を引き付ける力があるのか、全員が前を向いていた。


 ヒカリさんは自己紹介を始めた。彼女の声は割れたガラスと床が触れ合うような危うい透明感を孕んでいた。けど、よく通る声だった。声質に負けないように精一杯喉を震わせているような力強い声だった。


たてまち高校出身です。趣味はないです。ああ、でも、読書はちょっとだけ」


 何人かがざわめき出した。立町高校といえば、隣の街にある進学校だ。ここから通うには遠いが、その名を知らない者は少ない。


「色々あってこんな見た目ですが、できるだけ仲良くしたいと思ってます」


 ヴェール越しに日花里さんが口元を曲げた。へにゃりとしていて、可愛らしかった。


 拍手が鳴り止むと日花里さんは隣に戻ってきた。岡田が諸連絡を始める。


しのみやくんで合ってる? よろしくね」


 日花里さんが顔を寄せてきて小声で囁く。優しいガラスが僕の鼓膜をなぞる。鼓膜を切らないよう、角ではなく表面でなぞる。


「よろしく……」


 日花里さんは満足げに前に向き直った。


 僕の声は日花里さんのささやき声よりも小さかった。人付き合いを避けてきたことがたった今一人の女の子に露呈した。正確にはバレたと決まったわけではないが、無駄な自意識は根拠のない確信を運んでくるからどうしようもなかった。


 その日は諸連絡を聞いて解散となった。


 ロッカーに荷物を置いて戻ってくると、僕の机が名前も知らない男子に占拠されていた。


 皆が日花里さんに寄って集って質問やら何やらをしている。あの見た目でここまで皆と打ち解けられるのは彼女の才能だろう。


 机の横に引っ掛けていた鞄を取りに行きたかったが、いきなり会話に割り込んで雰囲気を壊す勇気を僕は持ち合わせておらず、皆から五歩引いたところで静観を決め込んだ。


  *


 あれから三十分が経過しても盛り上がりが落ち着く気配はなかった。諦めて一度帰宅し、時間を改めて鞄を取りに行くことにした。


 午後七時。春の夜は日没が早く、外は薄暗かった。夜闇のせいで色の落ちたように見える桜の木の横を通り過ぎ、校舎に入る。職員室に鍵を借りに行った。


「失礼します。二年四組の四宮です。忘れ物をしたので鍵を取りに来たんですが……」


 職員室の奥の方から岡田の「初日から忘れもんかよ!」が聞こえてきた。彼は目の前に来ると再び弄り始めたので、僕は苦笑を浮かべ続ける他なかった。


「あの、先生、そろそろいいですか?」


 僕は耐えかねて岡田のどうでもいい話を遮る。


 彼は思い出したように鍵のロッカーを覗いた。


「あれ、ないな。誰かが持っていったのかなあ」


 岡田は後頭部を軽く掻いた。


「どうかした?」


 突然背後から聞こえてきた声に振り返ると、他クラスの担任の水島が立っていた。僕の胸ほどの高さから、岡田を見上げている。


「二年四組の鍵がないんだ。水島ちゃん、知らない?」


「ああ! 鍵なら岡田先生が消費期限切れの刺し身のせいでトイレに籠もってる間に変な子が取りに来たよ」


 岡田……。


「変な子?」


 岡田はあくまで平静を保ったまま尋ねる。その声には若干の怒気が感じられた。


「ごめんごめん。変な、は失礼だった。うん、全身真っ黒な女の子が取りに来たよ。忘れ物って言ってたけど……もう十五分ぐらい経ってる」


 全身真っ黒な生徒といえば、思い当たるのは一人しかいない。


「ああ、日花里か……」


 岡田は声のトーンを落として言った。


「どうかしました?」


「いや、前の学校でも似たようなことがあったらしい。週に三回ぐらい、日花里が夜の教室にいるんだ。警備担当が理由を尋ねても本人は答えてくれない」


 僕は全身黒ずくめの女が夜の教室に一人でいるところを想像してみる。歯が震えだしたので、頭を振って思考を追い出した。


「じゃあ、日花里さんが真っ黒な理由も知らないんですか? それであの服装を許したんですか?」


「好き好んであの格好で登校してくる奴もそういるもんじゃないし、事情があるのは本当だと思う。だから学校側もあいつのことを許したんだ」


「それ、かなりグレーですね」


「責任は校長にある。俺の知ったことじゃないさ。ところで四宮、悪いけど日花里の様子を見てきてくれないか? 大人が行っても日花里は口利いてくれないだろうし」


 断りたかったが、ここで逃げたら鞄の回収は明日までお預けになってしまう。僕が四組まで行かざるを得ない状況を前に、岡田は口元を歪めていた。


「行きますよ、行かなきゃ荷物も取れないし」


「本当は女の子と二人きりになれるのが嬉しいんじゃないか?」


 岡田は半笑いで肩を小突いてくる。


 目線で水島に助けを求める。笑いを必死に我慢するように唇を噛む表情を見て、僕は呆れた。


「……失礼しました」


 僕は足早に職員室を出て教室へ向かった。


 肌寒い渡り廊下を歩いた先に四組が見えた。


 前まで来て、教室の中を覗いてみる。教室内に浮かぶ夜を追い払うように窓から月光が差し込んでいるが、中はほとんど見えなかった。


 人影すら見えない。日花里さんは本当にいるのだろうか……。


 いようがいまいが、荷物は取らねばならない。僕は建付けの悪いドアをスライドさせた。


「開いた……」


「だ、だれ!」


 教室の中心のほうから悲鳴のような声がした。日花里さんだ。


「四宮だよ。電気点けても良い?」


 手は既にスイッチに伸びていた。


「え、あの、ちょっと待って!」


 彼女の静止を聞くよりも先に軽快な音と共に白い照明が灯った。数回の明滅を繰り返し、照明は完全に点いた。


「絶対にこっち見ないで」


 日花里さんは怒ったように言ったが、手遅れだった。僕の視線は照明の点灯時から彼女に釘付けだった。黒い服を脱ぎ、制服姿になった日花里奈緒に。


 僕は彼女のヴェールの向こう側を目にした瞬間、胸の奥に熱を覚えた。それはきっと、“恋”だった。


 彼女の制服姿は夜の向こう側のような美しさを兼ね備えている。まだ、誰も見たことのないような時間。朝でもなければ夜でもない、暗闇を捲った先にあるもの。誰だって闇に内在する光を見れば惚れ惚れとするだろう。一所懸命に手を伸ばして、その輝きを掴み取ろうとするだろう。その光が、輝きが、日花里さんだった。黒いヴェールの向こう側に僕は恋をしてしまった。闇の中の光がこの世で最も美しい。


 日花里さんは端正な顔立ちをしていた。世間一般で言う美人には程遠く、どちらかと言えば可愛げのある顔だった。


「お願い、見ないで!」


「わ、わかった。見ない」


 僕は目を瞑る。


「……やっぱりごめん。強く言い過ぎた」


 日花里さんは言った。


「服着るからちょっと待ってて」


 黒服のことだろう。


 数分後、日花里さんの合図があった。


 目を開ける。そこにいたのは、真っ黒な日花里さんだった。


「ごめん、本当に。別に怒ってるわけじゃないんだ。私は四宮くんのことが心配で……」


 日花里さんは僕の眼の前まで来て頭を下げた。言葉のチョイスのせいで僕が悪者みたいになってしまっている。


「いや、いいけど……。こんな時間に教室で何してたの?」


 日花里さんは顔を上げた。


「色々あって、これは一人の時しか脱げないことになってるの」


 彼女は言いながらハットと服をつまんだ。


「私が制服で教室に入れるのは誰もいない時間だけ」


 その色々が知りたかったけれど、本人が自ら語らないなら聞かないほうがいい。


「で、四宮くんは何しに来たの?」


「日花里さんの様子……じゃなくて、忘れ物」


 僕は鞄を取った。


「じゃあ、僕はこれで」


 颯爽と教室を出る。


「あの!」


 背中に日花里さんの声が飛んできた。

 振り返ると、ドアの前に日花里さんが立っていた。


「あ、鍵?」


「窓、全部開けちゃってさ……閉めるの手伝ってくれない?」


 教室に引き返した。


「さっき日花里さんが言ってたことなんだけど」


 窓を閉めながら尋ねた。


「誰もいないところでしか黒い服脱げないのに、僕が見て大丈夫だった?」


 日花里さんも反対側の窓を閉めながら答えた。


「正直、よくわからない」


「そっか」


 消灯と戸締まりを終えて再び廊下に出る。


「鍵は僕が持っていくよ」


「いやいや、さすがに悪いよ」


「制服姿見ちゃったし。これでおあいこだよ」


 僕がそう言うと、日花里さんは納得したように三回頷いた。


「そっか。じゃあ鍵よろしくね」


 日花里さんはそう告げて廊下を足早に抜けていった。


 鍵を返しに職員室に戻ると、岡田が待ち構えていた。鍵のロッカーの前に陣取っている。


「……なんですか?」


 僕は怪訝な眼差しを向ける。


「日花里奈緒のことに決まってるだろ。何かわかったか?」


 今日の僕が聞いたことはきっと、日花里奈緒の全てではない。当たり障りのない話だったが、それを他人に喋るのは違う気がした。


「何も聞けなかったです」


 岡田の体越しにロッカーを開ける。なんとか鍵を中に滑り込ませて職員室を出ようとした。


「他に何か話したか? 服装のこと以外で」


 岡田の質問の意図が見えなかった。


 無視をするのも悪いと思い、適当に肯定してみた。


「そうか」


 何か冗談を言うでもなく、岡田は職員室の奥へ戻っていった。「気をつけて帰れよ」


 さっきの質問の意図がわからず、僕はその場でしばらく立ち尽くしていた。理解しようと試みたが実を結ばなかった。職員室に居座り続けても仕方がないので、靴箱で靴を履き替えて外に出る。歩きながら考えるうちに、前後が線で繋がった。岡田は僕の交友関係を僕が一年だった頃から気にしていた。日花里さんと喋ったことで僕に友達ができると考えていたのかもしれない。


  *


 その日は驚くほど疲労していた。目を中心に遠足の後のような倦怠感が体中を這っていた。僕は風呂も入らずに床についた。

 

  *


  翌日から僕の隣の席に数人の女子が集うようになった。座ったままの日花里さんを主に写真部が囲っている。会話を聞かずとも、内容は容易に想像できた。全身真っ黒でヴェールを垂らした女の子は良い被写体になる。


 一方、僕はじっとしていた。誰かが席に来てくれることもなく、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。


 時折、写真部女子の隙間から日花里さんと視線が触れ合った。でもそれだけだ。それ以降に良い展開があったわけではない。


 放課後の教室は休み時間以上に騒がしかった。一人でいるのがより一層惨めに思えてくるので早く帰ろうとしたところ、岡田が近づいてきた。


 嫌な予感がする。


「ちょっといいか」


 この手の「いいか」は『よくないとは言わせないぞ』の雰囲気を纏っている。断れず、岡田に促されるがままに着いて行った。


 職員室にでも連れて行かれるのかと思いきや、彼が止まったのは教室前の廊下だった。通り過ぎていく生徒の視線が痛い。悪事を働いたわけではないのに、後ろめたい気持ちになった。


「今度はなんですか?」


「お前、帰宅部だろ?」


 僕は頷いた。


「日花里が写真部に入るそうだ」


 ……脳内で警鐘が鳴り響いている。これ以上は聞いてはいけないと直感した。


「だからお前も──」


「無理無理、無理です。というか嫌です」


「どうしてぇ」


 岡田はわざとらしく悲しんだ。


「今更入ったところで、無理ですよ。人との距離感とかわからないし」


「でも俺とは楽しそうに話してくれるじゃないか」


 楽しくない。


「敬語って、明確な距離感を示してくれるから話しやすいんですよ」


「じゃあ敬語キャラで通せばいいじゃないか」


「それこそ無理に決まっている……」


 岡田は「冗談だよ」と言って笑った。この会話の全てがそうであればいいと思った。


 僕みたいな奴が今更入部したところで、友達はできない。僕は奇抜な見た目すらも武器にできる日花里奈緒とは違うのだ。


「僕に友達は作れませんよ。既に写真部内でコミュニティ出来上がってるだろうし」


 僕はふてくされたように言った。すると岡田はニヤリと笑い、僕の肩を強い力で掴んだ。そのまま、ぎゅっと握られる。


「でも、日花里がいるじゃないか」


「僕の話聞いてました?」


 友達は欲しいとは思う。人との関わりを避けているとたまに勘違いされがちだが、僕は好きで独りでいるわけではないのだ。自分自身のあまりの未熟さに、上手く構築できない人間関係に辟易としてしまった結果がこれなのだ。要は人との交流から逃げているだけなのだ。


 そんな怠慢を脱ぎ捨てるチャンスが今後訪れるとも限らない。ここで腹を決めてしまおうと思った。


「入ります。写真部」


 岡田は目を見開いた。そして上機嫌に脇に挟んでいた入部届を差し出してくる。僕が生涯触れる機会はないだろうと思い込んでいた書類を今、触っている。そのことに対する現実感がまるでないけれど、多分それは僕が変わりきれていないだけだ。日花里さんを初めとして交友関係を広げていけば、今の自分からは遠く離れた存在になれる。というより、なれなかったら困る。


 今更入部するなんて言ったら、両親は反対するだろう。親のサインも自分の印鑑で済ませた。


 岡田に書類を手渡す。


「あ、ちょうどいい。四宮と一緒に部室まで行ってくれないか」


 岡田が急に言った。明らかに僕ではない人間に発せられた言葉だった。


 辺りを見回すと、斜め後ろに日花里さんが立っていた。これから教室を出るところだったのだろう。


「四宮くん、写真部に入るんですか?」


 日花里さんが岡田に尋ねる。


「入るって言いに来た時は俺もびっくりしたよ」


「誘ってきたのは先生のほうじゃないですか!」


「さあ」


 岡田はとぼけた後、日花里さんに今後のことを丸投げしてどこかへ行ってしまった。


「部室、行く?」


 日花里さんは首を傾げる。ヴェールが柔らかに揺れた。


 頷き、どちらからともなく歩き出す。


「日花里さん」


 沈黙に耐えきれず、階段を下りたところで口を開いた。


「何?」


「いや、やっぱりなんでもない」


「えー、気になるな」


 僕のことをどう思っているかと訊くのは野暮だと判断した。彼女が僕に良い印象を抱いていなかったとしても、気を遣って本心から話してはくれないだろうから。


 人間関係とは互いの認識で成り立つ関係性だ。僕は今、彼女のことを一方的に好いているからこうして一緒に行動している。まずはそれで良い。これから日花里さんの僕に対する認識を探っていくだけだ。


 探るといえば日花里さんのヴェールのことも気になるけれど。しかし、親しくもないのに他人のデリケートな部分に土足で踏み込むのは人間として間違っている。僕に友達同士と呼べる関係性の人はまだいないけれど、人との交流に関する常識くらいは頭に入っているのだ。


 化学室から廊下を挟んだ隣の教室が写真部室だ。


 ドアの前に立つ。握りしめていた拳の内側にじっとりと手汗をかいて落ち着かない。そうこうしているうちに日花里さんが平然とドアを開けた。


「先、どうぞ」


「日花里さんが先入っていいよ」


「びびってるの?」


 日花里さんはいたずらっぽく笑った。


 からかわれたが、悪い気はしなかった。むしろこういうのを望んでいたかのように心は浮遊している。


 昨夜、黒い服を脱いだ日花里さんを見なければ恋愛的に好きになることなんてなかっただろう。ろくに友達すら作ったことのないような人間が明確に恋の感情を自覚するのも不思議だが、抱いてしまったものは仕方がない。


「あの、部員なら中に入ってくれないかな。俺が入れないんだけど」


背後から聞こえてきた声に反射的に振り向く。短髪で長身の男子生徒が立っていた。胸ポケットの青色の刺繍が僕と同じ二年生であることを示している。


 慌てて部室に入る。内装は普通の教室と大差ない。机が並んでおり、黒板がある。唯一違うのは、後ろの掲示板に写真が所狭しと貼られていることぐらいだ。


「日花里ちゃんの入部は噂に聞いてたけど、その子は?」


 三年の名前も知らない先輩が僕を見る。


 緊張感の中、口をどうにか動かして説明を試みた。


「に、二年の四宮です。今日入部しました」


「日花里ちゃん、知り合い?」


 先輩が尋ねる。


「知り合いも何も、隣の席ですよ」


「へぇ」


 感情の籠もっていない「へぇ」を聞き、僕は誰にも興味を持たれていないような気分になった。


  *


 初日なのでカメラの使い方を習うことになった。さっきドアの前で遭遇した二年生ははたともで、三組だそうだ。いつか他クラスとの合同授業の際に名前を聞いた覚えがある。学年が同じということで、彼が僕の先生役となった。


 カメラについて説明してくれる秦野くんの目は爛々と輝いており、先程の虫でも見るような顔とは大違いだ。本当にカメラが好きなことが、明るく弾んだ口調と表情から伝わってくる。


 と、何かが引っかかった。説明そっちのけで考えたいほどの何かが。


 次の瞬間、そういうことか、と思う。本当に好きなものを話す人の表情は輝いていて、それは人間関係にも言えることではないかと考えた。秦野君も日花里さんも、僕のことを嫌っていたら良い顔で関わってくれやしないだろう。


「よし、せっかく被写体向きの部員が入ったことだし、撮ってみよっか」


 先輩が手を二度叩いて合図した。一瞬、その部員というのは僕なのではないかと思ったが、勘違いもいいところだった。すぐに日花里さんのことだと気づく。


「四宮、撮ってみろよ」


 秦野君に言われ、デジカメよりもゴツゴツとしたカメラを手に取る。教えてもらった操作方法を思い出しながら、先輩に連れられて廊下に出た。


 三メートルほど離れたところに日花里さんが立っている。廊下の壁に手をかけて、中庭を見下ろしている。


 ファインダーを覗き込む。日花里さんを捉える。ファインダー越しに見ても美しいと思う。


 見惚れつつピントを合わせて、先輩の合図でシャッターをきった。


 僕の周りに続々と部員が集まってくる。一様に僕の手元のカメラを覗き込むから、人の熱気にやられそうになった。正気を保ちながらアルバムを開く。今までに部員が撮ってきた写真が画面の中にずらりと並んでいる。


 その中から日花里さんの写真を選択し、拡大する。画面の中のボブカットの黒髪は校舎の頭上を彩る空や廊下を歩く生徒のように、あって然るべきのようだった。春の日差しを受けて煌めくヴェールが眩しかった。


「やるね、四宮くん。初めてにしては上出来だよ。二枚目も頼むね」


 先輩はそう言い、離れていった。


「今のってお世辞?」


 我ながら失礼なことを口走ってしまった。僕の横に付きっぱなしの秦野君が苦笑して答えた。「三浦先輩は思ったことしか言わないよ。自信持って」


 褒められ慣れていない僕は不気味な笑みを浮かべた。あわてて真顔を取り繕いつつ、次の指示を待った。


 三枚撮る予定のはずだが、なかなかシャッターの合図が出ない。不思議に思って三浦先輩のほうを見れば、何やら日花里さんと深刻そうな表情で話をしていた。近寄ってはだめだと思い、離れたところで聞き耳を立てる。二人が不穏な表情をしているのは見えたが、肝心の内容までは聞こえてこない。


 不意に、日花里さんのほうが叫んだ。


「絶対に嫌です! 嫌というか、先輩たちの身の安全を思って言っているんです」


 その台詞で会話の内容がピンときた。先日、夜の教室で彼女を見た時、僕も似たようなことを言われたのだ。


 耳が今まで以上に敏感になる。至って冷静な三浦先輩の声もよく聞こえてきた。


「いいじゃない。顔綺麗だし、制服姿でも様になるよ」


 三浦先輩が日花里さんに手を伸ばす。


 いや、違う──その手は人ではなくハットに伸びている。


 急いで日花里さんに駆け寄り、その手を払い除けた。


「日花里さん嫌がってますよ」


「いいよ四宮くん。私もう帰るから、本当にごめんね」


 三浦先輩と真顔で向き合う。彼女は罰が悪そうな顔で「ごめん」と短く言った。僕の後ろを早足で抜ける気配は日花里さん以外の何物でもなく、背後を振り向くいたが誰もいなかった。


 もう何をいう気にもなれず、踵を返した。所在なげに佇む秦野君を素通りし、靴箱に向かう。


「日花里さん」


 僕が靴箱に着くと同時に日花里さんの手から靴が滑り落ちた。


「四宮くんは私を見た時、大丈夫だった?」


 日花里さんは不安げな声色で尋ねてきた。僕は小さく頷く。


「三浦先輩、謝ってた。先輩はきっと悪い人じゃないんだ。先輩は写真部の部長だからね、良い被写体を見つけたら興奮するのも無理はない。日花里さんの服を強引に脱がそうとしていたのは良くなかったけど」


「私だってこんな服脱いでやりたい。暑いし、重いし、なんだか体だけが夏になったみたいで、気持ち悪い。みんなは四月を生きてるのに、私という夏が異物として混ざっているみたいで気持ち悪い」


 日花里さんのことを、僕はよくは知らない。

 その美しくも醜い真っ黒な服を人前で脱げないことだけが彼女と僕の両方が保有している知識で、それは学校の他の人間も同じだ。僕と彼らの間に決定的な境界は存在していない。


 それでも僕が彼女を助けたいと思うのは。


 体がひとりでに走り出したのは。


 彼女が好きだから。


 好きな人を好きなままでいるために、日花里さんが深刻な状況に陥るよりも前に救わなければいけない。彼女が幸せの底に落ちてしまい、幸せを支配して自由に謳歌することができなくなったら、僕は救うことに必死になって恋も見失ってしまうだろうから。


 幸せを感じるには自分が幸せの身体の上にいる必要がある。幸せの底に落ちてしまえば、幸せを見上げるだけの亡霊になってしまうのだ。日花里さんが死んでしまわないように、僕が恋を見失わないように、救いたい。


 それが傲慢な願いだとしても。


「日花里さん」


 日花里さんの隣に歩み寄り、靴を拾う。


「何?」


「僕は君の制服姿を見ても大丈夫だった」


「今はそうかもしれないけど」


「僕と二人きりでいる時は黒い服、脱いでもいいよ」


 あの日、僕は一目惚れをしてしまったのだ。友達になるより前に日花里さんに惹かれたのだ。まずは友達、という過程を飛ばしてまで恋をしてしまった女の子を傍で支えたいと思うのは当然だった。


「四宮くんはすごく優しいよ。でも、私の問題は誰かの優しさじゃ解決できない。逆に私がみんなに優しくしなきゃ、配慮しなきゃいけないの」


 日花里さんの濡れた瞳がヴェール越しに見えた。


 その時、僕は初めて誰かに対して怒りの感情を覚えた。それは叱るための気持ちではなく、僕が相手の論理に納得できないことから生まれた感情で、確かな僕の意志だった。


「日花里さんが一方的に優しくしなきゃいけない理由なんてどこにもない。日花里さんの考えは優しさじゃなくて遠慮だ。優しさは他人を不快にさせないためのものじゃないんだ」


 まるで突き刺すような言い方をしてしまった。僕はただ、彼女が少しでも幸せの底から這い上がれますようにと祈っているだけなのだ。

ただ、伝え方が不器用すぎた。きっと友達の多いクラスメイトが僕の立場にだったら、もっと上手に日花里さんを包みこんであげられたはずだ。僕の腕はひどく不器用で、包み込むことすらままならない。


 もっと穿った言い方をすれば──いや、『正しい言葉』で今の僕を表すのなら。


 包みこんであげる以外の優しさを知らない人。


 つまり、僕には優しさのレパートリーが少ない。今の彼女にあげたい優しさは包容ではないような気がしてきた。自分が不甲斐なく思えて、全身がむず痒かった。


「ごめん」


 三浦先輩と同じにならないように、ゆっくりと謝る。まるで言葉を熟成させるみたいに、可能な限り発音を遅らせた。


「なんで謝るの? 悪いのは私のほうなのに」

「悪者はいないよ。ただちょっと、状況がこじれているだけなんだ」


 返事はない。


 しばらく無言で突っ立っていると、不意に横からクスクスと笑う声が聞こえてきた。ガラス玉が緩やかに転がるような柔らかい夏の音だった。夏としての彼女は気持ち悪くなんかなかった。


「誰も悪くない。状況が悪い。その考え方好きかも」


 日花里さんはまたクスクスと笑いながら靴を履いた。涙に混ざった笑い声の成分が急速に彼女の涙を乾かしていった。


「夜七時。約束だよ」


 日花里さんは駆け足で玄関から出ていった。

 集合場所は訊くまでもなかった。


  *


 一応職員室に確認しに行くと、教室の鍵はまだ取られていなかった。現在は午後六時三十分。さすがに早すぎたか。

 職員会議が長引いているのか、職員室には事務の方だけが残っていた。彼らの目を盗んで鍵を取り、教室に向かった。


 建付けの悪い教室のドアは鍵も上手く回ってくれない。何度か試した末に開く音がした。


 教室の中は暗闇に包まれていた。電気を点けると誰かに見られるかもしれないので、懐中電灯の丸い光で自分の席を探して着いた。しかし、すぐ立ち上がり、窓を開けた。空気が濁っていた気がした。


 椅子に座ってぼうっとしていたところに突然ドアの開く音が聞こえてきた。僕は椅子ごと飛び上がった。懐中電灯の灯りを消していたため、ドアのほうがよく見えなかったのだ。 

 

 慌ててドアのほうに懐中電灯の光を向けると日花里さんがいた。昼間と同じ、真っ黒な服に身を包んで。


「……なんで懐中電灯? 電気は?」


 日花里さんは向けられた光を手で遮る。


「鍵、先生に黙って取ってきたから」


「どうしてそんなことを……」


「二回も忘れ物をするのはどうかと思って」


「でもありがと。私だったら取れなかったかも」


「どうして?」


「前の学校での私の話、知ってる?」


 問われて、思い出す。


 夜の教室に一人でいる。岡田がそんなことを教えてくれた。


 僕は頷いた。


「それがだんだん広まってるみたいなの」


 だから岡田以外の人物にも目をつけられているかもしれないということか。


 僕はおもむろに立ち上がり、窓を閉めた。外から風に乗って吹き込んできた春の夜が教室内にこもる。


「もしかして、教室に入るための手段として僕を使った?」


 窓際に立ったまま尋ねる。答えはイエスだった。


「でも。一人じゃ寂しいからってのもあるよ。

私は四宮くんと話している時が楽しい」


 直球な言葉に赤面する。


「それは、どうも……」


 日花里さんの表情が見てみたい。彼女も顔を赤らめているのだろうか。


 明かりの点いていないこの部屋では、相手の顔に影がかかって見える。しかし、顔に懐中電灯を向けるわけにもいかない。


 もしかするとこれは僕の宿命なのかもしれない。明るい場所で日花里さんの照れた表情を見られる権利など、初めからなかったのかもしれない。今までろくに人付き合いをしてこなかった僕が異性として彼女に惚れてしまった罰なのだ。


「四宮くん、見える?」


 聞こえてきた声に顔を上げる。目の前に制服姿の日花里さんが立っていた。


 至近距離だから顔も鮮明に映る。長袖のセーラー服は暗闇の中でもその白さを僕に見せつけるようだ。日花里さんの僕を試すような上目遣いはセーラー服が淫らに脱ぎ捨てられる想像を掻き立てた。


 瞳孔がより開く。興味深い発見をした科学者のような眼差しを日花里さんに向ける。僕はもう、それから離れられないような気がした。照れて目を逸らすと焦燥感が芽生えた。制服姿の日花里さんに視線を戻せば状態は持ち直す。


「ずっと見ていないと落ち着かない?」


 日花里さんは囁くように言う。


「変だな、昨日まではこんなことなかったんだ。僕はただ、制服姿の日花里さんが好きで、日花里さんが黒い服を脱げるようになってほしくて、救いたくて」


「私を救いたいだなんて、傲慢だね」


「きっと僕が弱いからだ。誰かを救って自分が救われるような錯覚を味わいたいだけなんだ」


「私も弱いよ」


「日花里さん、一つだけ訊きたいことがある」

 僕は喉が絞まるような苦しみの中、声を絞り出した。


「なに?」



 耐え難い目の痛みと頭痛に襲われた。前に倒れ、日花里さんにぶつかった。彼女が僕を受け止めたのが体の静止でわかった。


 プールの水に目を浸したような痛みに目を瞑っても耐えられなかった。今すぐにでもこの両眼を取り出したかった。頭は割れるように痛く、人付き合いを避けてきた記憶が針となって脳を襲撃しているみたいだった。


 濁流のような意識の中にガラス玉が入り込んできた。そんな幻を見た。ガラス玉は喋る。


「私に惚れて、私のために覚悟を決めた四宮くんにだってこの運命には抗えないんだ。これは黒い服を脱いだ私を見た時から決定していた運命なの」


 言葉はガラスで、意識の濁流に飲み込まれていく。言葉を咀嚼して理解するように、濁流はガラスを粉々にしていく。


「いずれこうなるなら、早いほうが良いと思った。だから、今日は四宮くんの目の前──ほんの数センチの距離で黒い服を脱いだ」


 口を動かすが、喉が鳴らない。濁流がひとりでに動き出し、波紋で言葉を形作ろうとする。けれど濁流に流されてしまう。濁流の思った言葉は、想いは、祈りは、彼女に届かない。


 カッ、という不健康な音と共に漏れた吐息が僕を濁流から現実へと引き戻した。呼吸が苦しくて意識を失いかけていたようだ。


 視界が霞んでいる。日花里さんの肩に顎が乗っている感触だけが僕を現実に留めていた。


 また、ガラスの声がする。「落ち着いた?」


 その声に悪意は感じられなかった。にも関わらず、僕は精一杯の力で日花里さんの肩を突き飛ばした。彼女は窓際の僕の席に後頭部をぶつけた。暗い教室には似つかわしくない衝撃音が響き渡った。日花里さんは短く呻き、こちらを見据えた。細められたその目は優しかった。


「日花里さんは、本当に日花里さんなのか? なあ、僕にはこれが現実とは思えない」


「私は何もしてない。さっき言った通り、この姿を四宮くんが見たときから運命は決まっていたんだ。こんな展開は私が仕組んだわけじゃない!」


「僕だって何もしていない! 運命なんて言葉で片付けられても困るんだ。説明してくれ、日花里さんの言う『運命』の構造を。僕と日花里さんの『運命』を定義してくれ」


 僕の目はもう、日花里さんなど見てはいなかった。廊下側の窓越しに隣の校舎を見据えていた。


 日花里さんはひとつ、笑ってから語りだした。諦めたような乾いた笑い声だった。


「四宮くんは初めてスマホを買ってもらったときのことは覚えてる? 初めてのスマホってさ、ワクワクしない? 世界の全てが詰まってて、この世の何よりも魅力的で。実際に使えばもっと楽しくなる。ゲームもできるし、遠く離れた人と話すことだってできる」


 日花里さんは一呼吸置いた。


「けど、電子画面はブルーライトを発する。それは見た人の目を痛める。さらに、スマホは脳内のいろんな物質を分泌させて人間をスマホに依存させる。これがいわゆるスマホ依存なんだ」


「スマホのことなんかじゃなくて日花里さんのことが知りたい」


 力なく言った。


「これこそが私なんだよ」


 耳がその台詞を受け取って脳に行ったが、『理解』が台詞に干渉しようとしない。台詞はずっと脳内に置いてあるだけでどれだけ時間が経っても意味が理解できなかった。


「何が言いたいんだ」


「四宮くん、私のこと好きでしょ? 恋愛的に」


「そうだ。僕は日花里さんのことを愛している。友達になるという過程を飛ばして、異性として好きになった。恋人になってほしいと思った。人付き合いは極力避けていたのに、日花里さんにはとても惹かれた。とにかく、僕は日花里さんが好きだ」


 反射的に答えていた。


 ここで嘘をついても僕にメリットはないだろう。僕は素直に想いをぶちまけた。こんな空気の中で告白なんてしたくなかったと落ち込みながら。


「たまらなく好きだ。もう一緒にいないと落ち着かない。こうして目を逸らしている今も、日花里さんを見つめたくてたまらない」


 僕の告白を聞いた日花里さんは、心底悲しそうな声で呟いた。「この会話が『運命』の構造だよ」


「だから何を言って──」


 言いかけて、口を閉じた。


 続いて溢れ出したのは絶え間ない嗚咽と、それに付随する言葉だった。


「いや、まさか、そんなわけないだろ。なあ、違うよ。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う! 君は間違っている。君は人間だ! こんな馬鹿げた話があるわけない。あるわけないんだ!」


 スマホを初めて買ったときの喜び。誰だって便利な機械を目にすれば欲しくなる──それが、一目惚れ。全ての人間を惹きつける魅力に僕らは抗えない。


 ブルーライトは目を痛める。そのうえ、体に疲労を感じさせる。僕は思い出す。あの時、初めて日花里さんの制服姿を見た日、僕はとても疲れていた。


 そして、依存。スマホを使うと脳内で様々な物質が分泌される。人はそれによってスマホに依存してしまう。スマホから目を離すことが難しくなる。


 まさに今の僕だった。僕は日花里さんに依存している。


 けど、たった数日触っただけではスマホ依存にはならないだろう。もちろん例外もあるけど、少なくとも僕はそうではない。スマホを持って三年ほど経つが、使用時間は平均して二時間ほどだ。


「日花里さんはスマホそのものなのか、でも、だとしても、こんな数日で依存させられるのはおかしいだろ」


 努めて冷静に尋ねる。


「私は」


 日花里さんの呼吸が浅くなる。彼女は短い呼吸を繰り返して、言った。


「化物だよ、ごめんね。四宮くんの恋も私への依存も、化物産物なんだ」


 そのセリフだけは彼女の口からは聞きたくなかった。


 僕が、僕が彼女に抱いてきた、日花里奈緒に抱いてきた恋愛感情は、どうしようもない気持ちは、心のたかぶりは、彼女の全てを愛おしいと思ったのは。


 全部、虚構だったというのか。


 目の前の事実を否定するのは簡単だ。日花里さんが化物だというのはあくまで彼女の主観に過ぎず、僕から見ればただの人間で、僕の恋も全て本物だったのだと。しかし、そんな生ぬるい論理では駄目だ。


 吐き気がこみ上げてきた。僕は教室の床に泥のような液体を吐いた。


「日花里さんが、黒い服で自分のほぼ全てを覆っていたのは、つまり」


「誰も私に惚れないように」


 見た人を惚れさせる化物。


 そんな馬鹿な話があってたまるか。僕は咽び泣きながら嘔吐を繰り返した。


 足音が近づいてくる。


 背中に暖かい手が触れた。日花里さんは僕の背中をさすりながら、世界一残酷な言葉を口にした。


「私は四宮くんのことが好きだよ。


 僕の恋心はから。


 日花里さんはから。


 意味は同じだ。でも、僕は虚構の魔法にかかっている。心の底から日花里さんのことを愛そうと、それが本当の愛になることは決してない。


 全ては化物の見せた幻想。


 僕の恋は初めから終わっていた。


 写真部の秦野くんと僕は、化物がいなければ仲良くなることもなかった。


 全部全部、化物のせいで、化物のおかげだった。顔が紙にでもなってしまったみたいに、涙と鼻水でくしゃしゃになった。


「こんな私のことを好きになってくれた四宮くんが好きだよ」


「出会って一週間も経っていないんだ。その気持こそ、嘘だ」


 まだ、日花里さんの恋心を信じたくなかった。


「黒い服を脱いだ姿を見られたのは家族以外だと君が初めてなんだ。もう、運命だって信じたいんだ。私は化物の効果のせいで好きな人に近づけない。だから私の恋愛はこれが最初で最後かもしれないんだ」


 日花里奈緒は困ったように笑って、僕の頬に優しくキスをした。


 僕の恋が始まったことによって僕の恋は終わった。日花里さんにこんなに強く惹かれているのだから、もう、誰かを好きになるなんてことは考えられない。


 けど、僕は誰かと繋がることの楽しさを知ってしまった。恋による高揚感を知ってしまった。それを手放したくないと思った。僕の心の『本当』の部分でまだ誰かを好きになりたい。


誰かと友達になりたい。


 でも、そうするには。


 僕は日花里奈緒という化物をここでフるべきなのだ。


「僕にはまだ本当の恋がわからないんだ」


「知ってるよ」


「だから僕は」


「私をフるんでしょ?」


「ごめん」


「悪いことじゃないよ」


 日花里さんから視線を外す。


 これから先、僕は彼女を見たくてたまらなくなるだろう。それでも僕は本当の過程を経て友達を作り、本当の友達と遊び、本当の恋がしたい。


「さよなら、日花里さん」


 どうせ明日も僕と彼女は隣の席で、話して、笑い合う。


 でも、暗い教室で二人きりになるのはこれが最後だ。


「うん、さよなら」


 僕はふらつく足取りで教室の外へ出た。


 校舎を覆う深い夜の下を力なく歩く。


 虚構の捨てられたゴミ箱を見つめたまま、希望に向かって校舎を出た。


 日花里さんのすすり泣く声が聞こえた気がした。

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