顔が変わって見える谷

坂本 光陽

顔が変わって見える谷


 サラリーマン時代の元同僚、Pから聞いた話である。Pは大学の山岳部出身であり、就職してからも、休みになれば山登りに明け暮れていた。


 Pによると、山に入ると、時折、奇妙なことが起こるという。一本道なのに道に迷ってしまったり、確かに声をかけられたのに誰の姿も見えなかったり、大木が倒れたような音がしたのに誰も作業していなかったりする。山男の間では、珍しい話ではないらしい。


 もっとも印象的だったのは、「顔が変わって見える谷」という話である。


 山の奥深くにあるJという谷では、なぜか、同行者の顔が変化してしまうという。顔が丸くなったり面長になったり、おでこや顎が大きくなったりするのである。

 科学的に分析を行ったわけではないが、どうやら、地形と気温の微妙な変化によって、大気と光が影響を受けて、このような現象が起こるらしい。


 Pも大学時代にJ谷を訪れて、この現象を体験している。

 面白いので仲間たちと楽しんでいたのだが、ある時、背筋が凍るような出来事があった。当時、付き合っていたQ子とJ谷を訪れたのだが、その時、Q子の顔がとても怖ろしいものに見えたのである。


 Q子はアルバイト先で知り合ったばかりだった。優しくて穏やかな性格なので、それまでに怒った顔など一度も見たことがない。それなのに、J谷に入ったとたん、両目が吊り上がり、口が耳元まで裂けて、獰猛な獣のような顔になったのだ。


 しかも、Q子は殺意のこもった眼で、Pを睨みつけてきたという。


 J谷を抜けると普段通りの顔に戻ったのだが、Pの脳裏にはQ子の怖ろしい顔が焼き付き、忘れられなくなった。その後、些細なことで喧嘩をするなど、二人の関係はギクシャクとしたものになり、ほどなく別れてしまった。


 PはQ子と別れたことを後悔していない。J谷で見たQ子の顔は、もしかしたら彼女の本性だったのかもしれない、と考えているからだ。


 付き合っている時には全然気づかなかったが、Q子はとても嫉妬深い性格だったらしい。別れてから半年後、Q子が新しい彼氏を包丁で刺したからである。彼氏の浮気を疑って、激しく責め立てた上に、思い余って刃傷沙汰にんじょうざたに及んだのだ。殺人に至らなかったのは不幸中の幸いだった。


 Q子とすんなり別れることができたのは、Pにとっては幸運だったのかもしれない。


                  了




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