第15話

「私はこれから出かけて、この女たちができないことをやらなくちゃならない」

 それで人形は、その女の代わりにたくさんのことをした。はじめは代わりのつもりだったが、それが楽しくなったから、次の場所でも同じようにそうした。壊すように祈られたから、壊すことが快楽になるのは当然だった。


 その頃、地上の人間たちの、そのまた一部の地域で、誰もが崇めた信仰があった。恵、百合華、理美、夏希と母親は、より効率を求める社会のために、家を離れてそこで働かなければならなかった。

百人も入る食堂、風呂場が共用で、五人は同じ一室をあてがわれた。

 はじめはそれでも良かったのだ。食事も十分で、布団も用意されていた。家に帰りたいと子どもたちは泣いたが、そこでも笑って暮らすようになった。

仕事の用意があって、まっさらな皿やシャツに絵を描いた。特に恵と百合華は、人形の顔を描く仕事を好んだ。理美は手先が不器用で、夏希はまだ小さくて、じっと座っていられない。

 その夏希がようやく筆を持って、そして三十分も座っていられるようになった頃、手が震えるとか、痛みのせいで腰かけられないような、体調不良の人々が、散歩に出られない仕組みになった。

 仕事を休むくらいだから部屋で養生すべきというし、言われた方もたしかにそうだと思って、横になっているようにした。


 船を海に出すことや、飛行機に積んで送るということが難しくなっていた。細分化された種類同士で人間は嫌い合って、それが誰のものでも、何でも邪魔をするようになっていたのだった。

 五人の住んでいたところは集められた人たちがたくさん住んでいたから、おかわりするほどの食料はない。

 より働く人に、より食事をさせるため、その地域の人たちの食事量は、これまでの九割五分と決められた。


 恵、百合華、理美、夏希、この四人の子どもたちは大人になって、どこかで元気に暮らしているのだと思って、その女は絵を描いていた。体は丈夫で、食事が最初の六割になっても、痩せるだけで済んでいた。

 ある時、規則が変わって、少し大きくなった四人の娘は別の建物に移ったのだった。面会はできるが仕事をしなくてはいけないし、子どもたちを呼びつけてしまえば、その分の労働時間が四人からも差し引かれる。久しぶりに会っては、体力のなさそうな頬の肉付きを見る。特にたくさん食べたがる、下の二人の理美と夏希のこと、少しでも多く働いて、少しでも高い生産量を目指して、少しでも食べてほしかった。


 女は突然、理由も分からず外に出された。女だけではない。同じ服を着た三十人の仲間たちとは知り合いだが、その中には歩くのがつらい者もいる。建物の中には粗末ながら私物もあるし、しばらくそこで待ってみたが、入れてもらえる気配がない。

元気な者が十人ばかり、一緒になって街を歩いてみることにした。足腰の丈夫な女は、そこへ加わって、街を見物した。むかしよりも人が減っていて、たまに人を見かけても、ぎょっとした顔をして、避けていってしまう。

 お揃いの服の軍団の中には、字を知っている人がいた。青い顔で、彼女は悲痛に言った。

「私たちは、働けなくなったから外に出されたみたい。同じことが他の施設でも起きている」

 人形の顔がよく見えないと思うことはあった。それでも仕事をしていたし、働けないとは心外だ。


 三十人のおばあさんたちは、どこかで夜を過ごさなくてはならなかった。ゆっくり、ケンカもしながら歩いた。みんな泣きたかったし、泣いた人もいたが、女は泣かなかった。

 石を投げられることはない。ただ人が避けていく。なんとか屋根のある場所を見つけて、そこで群れて座り込む。

わりあい元気のある者たちが束になって、食料品店に追い返されに行く。そうして見つけた食べ物を、分けるために持ち帰らず、ここで食べてしまおうと言う者もいる。

 仕事をしている者だけが食事にありつける。欲しければそのぶん、頑張らねばならない。


 八法塞がりに見えた状況は、実際に八方塞がりだった。女がそのような中で、以前に娘たちと暮らした家がそのままになっているのを発見したのは、悲喜こもごもであったが、助けにはならなかった。

 残っていた家財道具を売り、食事に充てるつもりでいた。しかしどうしても、思いのこもった人形だけは手元に置いておきたくて、手にすれば思い出が多くて、女はやがて祈り始めた。すると日に日に少なくなる仲間までやってきて、一緒に祈る。


「どうか、平気で生きている人間たちを、みんな、みんな、壊してください」


 崩れていく自分と同じに、崩した人間を道連れに願うのは、何も愚かなことではない。珍しいことでもない。祈りが強烈になるほど手を合わせて泣く女たちは団結して、ますます祈った。更地にされた人生史に残る物は、この人形だけだった。


 人形は願いに似た呪いを受けて、人の家に入り込んでは壊してきた。なによりそれが楽しい。またそれがやりたい。その気持ちが一番であるし、女や娘たち、その仲間たちの記憶は二の次である。


 透明な糸が沈んできた。鉛の重りを先頭に、魚肉をつけた銀色の針も一緒である。それらは音もなく、まるで人形めがけたようにやってきて、針が衣装の胸元をしっかりと捉えた。

 人形が違和感に目を開ける。けだものたちは喜んでいるし、女たちはこれまでになく陽気でいる。誰も人形にかかった透明な糸や針に気付いてはいない。

 住民たちが驚きに声をあげた頃には、人形は釣られて海中に躍り上がり、海面へまっしぐらに進んでいくところだった。はるか下にいる住民たちに向けて、釣り上げられていると察した人形は歓喜の声をあげる。

「あはは、ざまあみろ! ばいばーい! さよなら!」

 人形のけばけばしい高笑いに、住民たちが答えた。

「さよなら、人形さん!」

「さよなら、元気でね!」

「バイバイ!」

「今までありがとう!」

 視界の外に完全に消えてもなお、残った住民たちは別れの挨拶を叫んでいた。人形が地上の人類を苦しめたがっていることを、入居者の誰もが知っていた。知っているが、それも仕方がないと思うのだ。何を嫌って、何を愛するかは、微かな者の世界では、それぞれが決めることなのだ。罵倒に復讐するも良し、黙って去るも良しである。


 こうして海底アパートに、空き部屋が一室できた。

 赤い爪の姿をした女性はダイヤモンドを纏ってご満悦でいるし、一頭の犬と猫は回遊する魚を追いかけ、じゃれて騒々しい。二頭は、めいめいの調べものに夢中になりながら、時々、お互いの顔を見合わせる。そして安心すると、また自分の探求心を満たす作業に取り掛かるのだった。肉体的な身体の重さは、タローにもジローにも、もうない。一番元気だった日の、二頭で部屋を駆けずり回った日の精神のままである。

 だから、そろって昼寝をするのが見られるのは、二頭がすっかり疲れてからになるだろう。墨の女性はいくぶん薄くなった姿で、心穏やかに、海に包まれている。歌を思い出したから、海中に不思議で麗しい旋律を流している。


 このアパートは海の底に、いつまであるか知れない。いつまでもあるかもしれない。

 

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海底アパートの入居希望者 谷 亜里砂 @TaniArisa

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