第14話

「もう、ずっとずっと、前の話よ」

 墨の女性は言いながら、どれほどむかしの話なのか、ここがどこなのかも分からないでいる。それでも海は不思議なもので、前々からここにいたような、そんな愛着さえある。だからダイヤモンドは、アパートが沈んでしばらくすると、もう泣くのをやめた。代わりに、女性の形をして集まったり、拡散したりしながら、一つひとつの粒は自由に海中で凪ぐことにした。


 人形に墨の女性が勝るのは、数と団結の力ゆえである。人形には一つの魂があるが、墨の女性は大勢である。それで記憶も受け答えも、やんわりしていたりはっきりしていたり、女性という姿ひとつとっても、粒の揺らぎがあるのだ。

「ねえ、あなた」

 墨の女性は濃い姿になって、爪の女に言った。

「おしゃれさんだったでしょう。指輪を付けたら、きっと素敵よ」


 爪の女が照れながら、嬉しそうに、宝石箱の台座にするりと滑り込む。墨の女性はうんと力を合わせて、一剥ぎの赤い爪を運んだのだった。一粒のダイヤモンドを体に飾って、まばゆい光を纏う女は、これまでにない至福のときを過ごすことになった。


「これでいいんだわ」

 墨の女性は呟くと、いくつかの黒い粒がひとつひとつ、海に溶けるように消えていった。ずいぶん薄くなった墨の女性は瓦礫に腰かけ、泳ぐ魚の優雅なヒレに目をやる。

「おばあちゃん、消えちゃうのかと思った」

 タローが人懐っこい目をして、墨の女性にすり寄った。

「海を見ていたい人もいる」

 なでられたタローを見ると、ジローもすっとんできた。二頭はなでてほしいのだった。


 ばばあ、消えないのか。

 人形はむくれた。この人形に人生というものがあるのなら、人生最悪の日だった。墨の女性に守ってもらったが、酷く嫌な思いをした。彼女がいると守ってもらえていいが、誰のことも罵倒できない。また黒い帯になって飛んできて、自分のこともなでて静かにさせるからだ。

 なでるというと、頭の中がまだぐるぐると、不穏な余韻に侵される。かといって吹き飛ばされていたとしたら、今頃は魚につつかれ、カニに分解されるような海底にいただろう。

 このアパートに来てから、人形には良いことがない。良いことをしてこなかったが、それは人形の好みと、世間でいう善が一致しなかったためだ。混沌が良しとされる世界なら、人形は自分こそが祀られ、祈られる対象だと前々から思っていた。それだからといって、自分に降りかかるこの不幸に納得したことは一度もない。


「最悪だわ。人生最悪」

 人形は憎々しげに何度かそう呟き、夜が来るまで目を閉じることにした。これまでと変わらない過ごし方をするほかない。今が人生最悪なら、人生最高だったときはいつだったか。それはもちろん、人間を乱していたときである。

人形はなぜだか、一緒に過ごしたある人間の女のことも思い出していた。女には子どもが四人いた。


「恵、百合華、理美、夏希」


 四人の子どもたちの名前を、人形は覚えている。その子どもたちが自分を拾って、持ち帰ったからだった。

 一番目の恵が人形を洗い、二番目の百合華が人形遊びの服を着せた。三番目の理美が粘土で椅子を作り、四番目の夏希はよく人形を投げて叱られていた。にぎやかで、明るい家である。おもちゃ箱から毎日のように取り出され、紅茶を飲んだりデッサンの相手になったりした。

 その頃、人形には自我がなかったから、どうということもない。だいぶ後になってから、そういう遊びに付き合っていた日々のことが自前の記憶の箱に入っていると気付いたのだ。


 ある日の夕方、五人の家族が家にいた。人形は片付けられていたが、蓋の無いおもちゃ箱から顔だけがひょこりと飛び出たままになっていた。そこへ、土足のまま、お揃いの服を着た人間たちがやってきて五人を連れていったきり、人形の顔に、体に埃が積もっていった。


 顔を布で拭かれて視界が明らかになったとき、四人の子どもの母があった。年をとって、完全な白髪に黒い瞳の、皺の寄った哀しげな顔だ。女は友人をたくさん連れてやってきて、部屋のものをみんな持っていく。

 女は写真なんかと一緒に人形と、固い粘土の椅子を手元に置いた。薄い布を何枚も集めただけの寝床に、人形も寝かせた。


 四人の子どもたちはどこへ行ったのか。あれから何があったのか。それを女とその仲間たちの会話から知ってもなお、人形にはこころがない。


 女の皺は深く、白髪は腰まで伸びていた。ある日、女はハサミを持ってきて、髪をちょきんと切り取った。それから人形に手を伸ばし、自分の白い髪を一本ずつ植えたのだった。抜けないような工夫を凝らしていたから、何時間も、何日もかかった。仲間がやってきて、手伝ってくれるときもあったが、女は自分でやりたがった。


人形の目に映るのは、懇願する一人の女の姿である。その頃も、人形自身に自我はない。


 髪の支度はすっかり済んだ。器用に編み込まれた髪は、やわらかい銀色だ。新しい服が端切れで何着か縫われ、顔も爪も鮮やかに描き直された。固い粘土の椅子に腰かける人形に、女は一心不乱に祈る。手を合わせ、膝をつき、一生懸命に祈る。時には涙を、ぽと、ぽとと落とす。すっかり短くなった蝋燭が立てられ、ありあわせの物で祭壇が作られ、人形は日がな一日、請われる。そのうち、女の仲間も参加して、泣きながらお願いするようになった。

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