第2話

 結局一睡もできぬまま、仕事の支度を整えて部屋を出て階段を降りると、戸村さんがいつものように玄関前を掃き清めていた。


 「あら、おはよう、伊藤さん。……大丈夫? ひどい顔色だけれど……。ちゃんと寝てる?」


 あなたのせいで寝れていないんです、そう言いたかったが、僕はこらえた。

 ちょっと夜更かししてしまって……でも大丈夫です、行ってきます。長話をするといらいらが口をついて出てしまいそうだ。


 何よりも、平然と普段通りの柔和な顔で僕に話しかけてくる戸村さんが、僕の背筋を冷たくした。——この人は、どこか怖い。

 挨拶もそこそこに戸村さんに背を向け足早に駅に向かった。


 その日は疲労がひどく、帰宅してシャワーを浴びると食事も摂らずに布団へ倒れ込んだ。今日はこのまま寝る。泥のような眠りにつくんだ。昨日は徹夜しているのだから、すぐに眠れるはずだ。

 だが意識の片隅には昨日聞こえてきた戸村さんのお経の声がこびりついて離れない。疲れているはずなのに、妙に目が冴えている。


 そのときだった。


 ……まさか。今日もなのか。

 床から這うように聞こえる低い音の波。よせばいいのに耳を澄ましてしまう。


 昨日と同じ。お経を唱える声だった。

 おそらくだけれど、この声は毎夜続いているのかもしれない。——いつも疲れ切って寝ていた、あるいは出掛けて家を空けていた僕は気がつかなかったけれど。


 聞くまいとしても勝手に鼓膜に注がれるその低い音は、否応なしに僕の意識を釘付けにした。うつ伏せになり毛布を被る。

 戸村さんの低音の声を呪いたい気分だった。低い音は残響が強い。鈍く緩やかに直接脳が揺さぶられているように感じる。

 心なしか昨夜よりも長くお経が続けられているような気がしたが、唐突にそれが途絶えた。

 ——あの声が来るのか。昨日の記憶が蘇り身構えようとしたが、間に合わなかった。



「……ねえ、成仏できた?

早く成仏してよ。

早く。

早く。早く。

ねえ、早く。


いつ成仏するの?」


夜が明けるまで寝つくことなどできなかった。



 それからも毎晩戸村さんのお経は続いた。毎晩少しずつ長くなっているようだ。

 体力には自信のあった僕でも、連日の睡眠不足に心身共に限界だった。会社の同僚にも、週末顔を合わせる友人にも心配された。


 一ヶ月我慢を重ねた末、僕は戸村さんに文句を言うことを心に決めた。



 いつもよりも少し早く家を出た僕は、玄関前で掃き掃除をする戸村さんと顔を合わせた。

 角が立たないように。読経を辞めさせたいわけじゃない。声を小さくするとか、深夜の読経を避けてもらうとか、歩み寄りの相談をするのだ。

 きちんと頭の中を整理しなければ。

 平然とした戸村さんの顔を見た瞬間に殴りかかってしまいそうな自分に恐怖していた。


「おはよう。……ねえ、本当に大丈夫? もう病院に行ったほうがいいわよ? いい病院を知ってるから、紹介させて」

 いかにも心配そうな顔でそう言う戸村さんを正面から見据え、僕は深呼吸した。飛びかかってしまいそうな自分をなんとか抑える。


「戸村さん、少し相談なんですけど。毎晩毎晩、深夜にやられている、読経、あるじゃないですか。あれ、例えば時間をずらすとか、もっと声を小さくするとかお願いできませんかね? 戸村さんの部屋から響くあの声で、僕はずっと眠れてないんです」


 大丈夫だ。僕の声は平静だ。伝えたいことを端的に伝えられたはずだ。


 戸村さんは突然、顔中の皺を眉間に集めたような顔で、絶叫した。


「何なのよ、あなた! 私がいったい何をしたって言うの! 何で私ばかりそんなことを言われなきゃならないの。ふざけるのも大概にしなさいよ!」


 普段の品のいい戸村さんの姿はそこにはなかった。そこにいたのは、目の前の僕を罵倒し、憎しみに震えるひとりの老婆だった。


 あまりの剣幕に僕は話す言葉を失くし、その場から走って逃げた。背中に僕を罵る悪辣な言葉を浴びながら。


 何なんだ? あの人は狂ってる。いや、僕がおかしいのか? 


 その日はまともに仕事にならなかった。


 それ以来、戸村さんと顔を合わせても会話することはなくなった。まるで汚いものを見るかのような一瞥を浴びせられ、戸村さんはすぐに自分の部屋に入っていくのだ。


 かと言って深夜の読経が収まるわけではなく、まるで嫌がらせのように読経の時間は長くなり、声は更に大きくなっていった。


 疲労が原因で職場で倒れたことをきっかけに、僕はすぐに引越しすることに決めた。



***


 家賃は予算よりもかなり上がってしまったが、別な路線の駅近くに比較的新しいマンションが見つかり、早々に引越しを済ませた。前のアパートよりも防音はしっかりしている。家賃なんかよりも自分の精神的な安定が最優先だった。


 最後に見かけた戸村さんは、黒々とした髪はほとんど白くなり、肌艶は消えて濃いシミが顔から首筋、腕に浮き出ていた。掃き掃除をするわけでもなく、玄関横の地べたに座り、向かいの通りをぼんやり眺めているだけの老人だった。

 僕を見かけた時だけ、目に狂気じみた光を帯びていた。


 戸村さんとはもう二度と会うことはないだろう。それでいい。世の中には決して関わってはいけない人がいることを、僕は身をもって経験した。


 思い出したくもない。



 新しい部屋へ荷物を運び終えると、荷解きは後回しにして布団と枕を床に広げた。

 食事も今晩は摂らない。

 テレビも冷蔵後も洗濯機も、電源を挿すのは明日以降だ。スマートフォンの電源も切る。エアコンの電源も抜いた。余計な音を出すものは全て排除した。


 とにかく、静かな環境で思う存分眠りにつきたかった。


 うつ伏せになって枕に顔を沈める。

 静かだ。どれくらいぶりだろう、夜の静寂を身体で感じることができるのは。


 このまま。

 このまま、この静けさが

 永遠に続くといいのに……。




 ——全身が総毛立った。


 聞こえる。


 粒の荒い音の粒子。

 脳を揺さぶる低音。


 くぐもった声で響くお経が、布団を鈍く震わせる。


 体の震えが抑えられない。

 枕に顔を強く押し付ける。

 声がより鮮明になる。


 お経の声が止まった。


 ——来る。



「……成仏してよ、ねえ。成仏して。


こんなにお願いしてるのに、なんであなたはまだ生きているの?


成仏して。


ねえ?……伊藤さん」



僕は布団からは跳ね起き、玄関を開けて裸足のまま部屋から飛び出した。



部屋からできるだけ遠くへ行きたかった。

すぐにでも。


もうあの部屋には二度と入れないと思う。



お経を唱え、僕の成仏を懇願していたのは、



僕の枕だったのだ。




(了)

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