階下の住人

空野わん

第1話

 僕が都内の安アパートの201号室に越してきたのは3ヶ月前。


 それなりに使い勝手のいい駅から徒歩5分の物件。その割に相場よりも2万円ほど家賃は安かった。築40年は経っているからだろう。


 外観はそれなりに古いが、入居前に部屋のリフォームが入っていて壁紙も真っ白だ。床のクッションフロアにも傷ひとつない。エアコンも最新のものが備え付けられていて、居心地は悪くなかった。


 6畳の1Kで手狭だが、もともと物を多く持たない僕には十分だった。シングルの布団が敷ければそれでよかった。


 どうせ寝に帰ってくるだけの部屋だ。


 平日は早朝から深夜まで仕事で家にはいない。疲れて帰宅したらシャワーを浴びて倒れ込むように寝る。

 週末は金曜も土曜も繁華街で飲み歩き、朝帰りすると昼間過ぎまで寝て過ごす。


 日曜の夜だけが、僕がこの部屋できちんと起きて過ごす時間だった。昼過ぎまで寝ている不摂生で、日曜の夜は寝つくまでかなりの時間がかかるのだけれど。


 この部屋の欠点らしい欠点を挙げるとするならば、どこにでも溢れている「騒音問題」くらいだろうか。問題というほど大したことではないのだが。


 僕の部屋の真下に住んでいる戸村さんが、寝付けない日曜の深夜にぶつぶつと何か呟く声が2階の僕の部屋に響いてくるのだ。


 戸村さんに初めて会ったのは引越しの日だった。引越し業者を手伝いながら部屋へ荷物を運んでいると、


「あらあら、今度越してこられた方?」


 と、話しかけて来たのが、僕の部屋の階下の101号室に住む戸村さんだった。

 自室の玄関前の掃き掃除の手を止めて僕に声をかけてきた。


 70代くらい? あるいは80歳を超えているかもしれない。枯れ木をイメージさせるほど痩せ細った彼女は、その身体に似合わず低くて太い声だった。だが口調はハキハキとして快活で、感じの良さが伝わってくる。明るい人だな、という印象を持った。


「はい、今度201号室に越してきた伊藤と言います。バタバタお騒がせして申し訳ありません」

 僕がそう型通りの挨拶をすると、


「この辺りは初めて? そんなに気を使わなくてもいいわよ。同じアパートに住む者同士ですもの。この近所でわからないことがあったらいつでもなんでも聞いてくださいね。私はこの辺りに住んでもう長いから。あ、無理にご近所付き合いしなくてもいいですからね、私、たまに出しゃばり過ぎてしまうから」


 と、気さくに話しかけてくれた。気を遣いながら示してくれた適度な距離感に僕は少し安心した。

 僕の出社前や帰宅時に玄関前の掃き掃除をしている戸村さんを見かけると、ほんの少しの時間だが挨拶を兼ねて世間話をするような間がらだった。


 戸村さんはいたってまともな人だった。いや、少し違う。「まとも過ぎる」のだ。


 黒々とした艶やかな髪はいつもきれいに束ねられ、派手な装飾やロゴはないものの上質なものと分かるシンプルな服を着ていた。年齢にそぐわず皺の少ない白肌はときおり艶かしさみたいなものを感じさせ、僕は動揺させられた。

 この安アパートには似つかわしくない、凛とした「品」のようなものがあるのだ。高級住宅街の一軒家で目覚めの花に水を撒いているのが似合いそうだ。

 いつも折り目正しく清潔感に溢れ、きちんとしているのが戸村さんだった。


 だからなおさら、その戸村さんが深夜に騒音を出すことが意外だった。


 日曜の夜。時間は深夜1時。

 寝つけずに布団の上で目を閉じ、眠りが降りてくることを祈っていると、微かに「音」が耳についた。冷蔵庫の音だと思い気にせずにいると、少ししてその音は消えた。再び眠る努力をしていると、また同じ音。


 粒の荒い低い音の粒子たちが擦れ合ったような音。スマートフォンのマナーモードの振動音に似ていた。枕元のスマートフォンを引き寄せ画面を見る。何も着信していなかった。現に音は今も鳴り続けている。

 僕は浅くため息をついた。ダッシュ明日も早起きしなきゃならないのに。いったい何なんだ。

 うつ伏せになり、枕に顔を埋めて毛布を頭まで被った。

 すると、音は先ほどよりも大きな音で耳に響いてきた。ダッシュお経?

信心深くなんかない僕にはお経の宗派なんかわからない。だが、どうやら階下から響いている声は確かにお経のようだった。


 戸村さんが唱えているのか。くぐもった音だが、低く太い声。

 あのご年齢だ、旦那さんに先立たれて供養のためにお経を唱えることもあるのだろう。その声もかすかなもので、眠る努力を実らせようと必死になっている今でなければおそらく気付くことはなかった。


 戸村さんなのであれば、我慢しようか。だが、この時間に響き渡るかすかなお経の声はやはり気分のいいものではなかった。とはいえ、最近越してきたばかりの僕が戸村さんに注意をできるほどの勇気はない。辛抱していればそのうち終わるだろう。

 そう思って枕に顔を埋めていると、10分ほどでお経は聞こえなくなった。

 胸を撫で下ろし、眠りにつくために意識を集中しようとしたとき、床を通して太い声が響いた。


「……ねえ、成仏できた?」


 突然耳に飛び込んできた、お経とは違って意味がわかる言葉に、僕の全身は鳥肌に包まれた。

 その夜はもう、眠りにつくことはできなかった。





 

 

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