オレンジの光ー【公式自主企画】怖そうで怖くない少し怖いカクヨム百物語

六散人

 

製薬会社の研究所に勤めていた頃の実体験談です。

当時の私は、一日に200匹の実験用ラットを使った実験に従事していました。

200匹のグループを1日ずつずらして、月曜から金曜までの5日間、毎日同じ実験を繰り返すのです。


つまり私一人で1,000匹の実験用ラットを使っていたのですが、それだけの数となると、当然ですが飼育場所も相当とります。

ですので私は、動物飼育エリアの1室を丸々占拠して、1,000匹を飼育していました。


ご経験はないと思いますが、1,000匹のラットとなると壮観です。

ラット用のケージは、1ケージに10匹ずつのラットが入っていました。

それが飼育室の左右に50ケージずつ並んでいる光景を想像してみて下さい。

慣れないと、室内に入るのすら躊躇しますよね。


今だから笑って言えますが、当時の私は完全に実験マシーンと化していました。

実際の話、そうならないと、とてもやっていられなかったのだと思います。


そんなある日、事件は起こりました。

実験は実験エリアに動物を運び込んで行うことも出来たのですが、毎日100匹ずつ飼育エリアから出し入れするのが面倒だった私は、私専用の飼育室に測定機器を運び込んで、毎日1,000匹のラットに囲まれて、只管ひたすら実験を行っていました。


その日は月例の部門会議と重なって、実験の開始がいつもより、かなり遅くなってしまったのです。

午後3時頃に飼育室に入った私は、実験に没頭し始めました。

手技はシンプルで、ケージを一つ取り出して、中のラットに1匹ずつ薬を経口投与した後、腹腔内麻酔をかけてパラメータを測定するという単純作業の繰り返しです。


しかしその日の私は、致命的なミスを犯していたのです。

動物の飼育エリアは午後8時になると、飼育室内の照明が自動で落ちる設定になっていました。

ですので、8時以降も中で実験する場合は、事前にその設定を解除しておかなければならなかったのです。

その日私は、うっかりして設定を解除しないまま、飼育室に籠っていたのです。


そしてその時はやってきました。

8時になり、室内の照明が落ちたのです。

中は一瞬で暗闇になりました。


ご存じかも知れませんが、ラットの眼は暗闇の中では、鮮やかなオレンジ色に光るんです。

そのオレンジの小さな光2,000個に、左右からじっと見つめられる状況を想像してみて下さい。

いくら相手がケージの中にいると分かっていても、怖いでしょう?

さすがの実験マシーンの私も、一瞬で人間に戻って震えあがりました。


とにかく設定を解除しなければと立ち上がった私は、真っ暗な飼育室の中を手探りでドアに向かいました。

漸く辿り着いてドアを開けようとした私は、愕然としました。

ドアノブはちゃんと降りるのですが、ドアが開かないのです。


原因は飼育エリアの廊下と飼育室内の気圧差でした。

飼育エリア内は、外部からの微生物の進入を押さえるために、陽圧、つまり外部より気圧を高く設定しているのです。


そして通常ならエリアの廊下部分と飼育室内は等圧になっている筈なのですが、何故かその時に限って、飼育室内が廊下より陰圧、つまり気圧が低い状態になっていたのです。

何かの不具合が起きてせいでした。


当然ドアは、外の圧力に負けて開きません。

私は途方に暮れてしまいました。

そのままだと、翌朝8時に設定が自動解除されるまで、室内に閉じ込められてしまうからです。


そしてその時です。

背後で「キィ」という声がしました。

振り向くとパラメータ測定中だったラットの麻酔が切れて、起き上がったのです。


するとその鳴き声に刺激されたのか、1,000匹のラットが一斉にケージ内で暴れ出し、「キィ、キィ」と鳴き始めたのです。

私は暴れ回る2,000個のオレンジの光と、騒然と鳴り響くラットたちの鳴き声に囲まれて、呆然と立ち尽くしてしまいました。


その時突然、室内に灯りが点ったのです。

そして扉を押すと、ドアが開くではありませんか。

大袈裟な話でなく、私は九死に一生を得た思いでした。


慌てて外に出ると、私同様飼育エリアにいた同僚が、消灯設定を解除してくれたのでした。

ホッとした私は、取り敢えずその日のノルマを済ますために、実験マシーンに戻って実験を再開しました。

そしてその日以来、二度と設定解除を忘れることはなかったのです。


最後になりますが、2,000個のオレンジの光、怖かったですよ。

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