夕焼けが覆う

並木空

第1話 出会い01

 サファイアは夕焼けを覆う。

 佳華国かかこくの古い魔術師の遺した言葉だ。

 より正確さを求め、魔術師はさらに言った。

 『サファイアグラスを蒔いたような美しい夕焼けではないか。サファイアグラスの中には夕焼けという事象の全てを閉じこめても、なお可能性が輝いている』

 学院の研究生である少年――葉誦ようしょうはふいに思い出した。

 大時計を背後に大階段から見下ろした夕焼けは、ブルー、オレンジ、ピンク、ヴァイオレット、サファイアが持つ色彩を全てで世界を彩っていた。図書館から大階段まで続く木立から聞こえる蝉の鳴き声も情景に深みを与えているようだった。

 夕方が美しく去っていこうとしている。

 今日が炎天の月、王者の日でなければ、葉誦も素直に感じ入ったかもしれない。

 が、どう考えても、16年間という短い人生の中であっても、最低から数えて二番目ぐらいの日だったので無理だった。一番目は思い出したくない。

 佳華国では一般的に『戦勝祭』と呼ばれる夏の一大イベントが今日までだったというのに、この三日間レポートに追われ続けた。睡眠時間もろくに確保できず、朦朧としながらペンを走らせた日々。その甲斐あってか、レポートは再提出しなくてすむ仕上がりであったようだが、嬉しくはない。

 級友たちは『戦勝祭』で可愛い女の子たちと楽しくデートをしているのかと思うとやりきれない。はっきり言ってしまえば羨ましい。

 学園都市である夕凪ゆうなぎを離れて、一足早く夏を満喫している輩も妬ましい。

「はあ」

 葉誦は涼風の呪が施されたコートを脱ぐ。

 カラッ

 石と石がぶつかって鳴り合う音が耳に響く。足元の石を無意識に蹴飛ばしたのだろうか。

 コートを脱ぐと魔法の風とは違う、生ぬるい風が肌を撫でていく。それが不思議と気持ちがいい。大きな開放感があった。

静柊せいとう先生も悪い人じゃないんだけどな」

 レポート提出を済ませて自由の身になったところで、史学科の静柊先生につかまった。これも、今日が最低から数えて二番目ぐらいの日になった原因の一つである。

 見るからに温厚そうな外見と「お茶でも飲んでいかないか」の一言からは想像できないが、霧悟国むごこく出身の先生お得意の特別講義は、佳華国育ちの葉誦には苦痛に感じるようなことが多々ある。考え方はそれぞれであり、多数を脅かすような理念でなければ受け入れる「夕凪」にあっても、静柊先生のそれは少々攻撃的なスタイルなのだ。

 静柊先生曰く「敗戦記念日」は、静かに過ごすべき日であり『戦勝祭』という言葉は禁じるべきだというような話から始まり、民族間の微妙な感情、わずか二百年しか経っていないというのに、昨今の各国の政治状況はどうなのだ。また新しい犠牲者を出すのではないのだろうか。犠牲になるのはいつでも決まって、力なき国民だ。……というような講義である。学生で知識の少ない葉誦はまったく口を挟めない。悪いのはいつでも佳華国だ。少なくとも静柊先生の中ではそういうルールができあがっている。

 静柊先生の話は部分部分では納得ができる。が、戦争自体は二百年前に終結している。歴史上の大きな戦争だった。犠牲者がたくさん出た。二度とくりかえすべきではない。といった認識しか、葉誦には持ちようがない。それなのに長命種の種族やこだわり屋が多い霧悟人は、まるで昨日のことのように語る。

 それが感情を逆なでする。

「戦争かー」

 葉誦は階段に腰かけ、眼下を見やる。

 歪ながらも同心円状に広がる学園都市――戦後の正式名称は「誓丘」は、そもそも佳華国の最前線の補給地であった。戦火が降りかかったのは一度や二度ではない。佳華国が戦ったのは霧悟国だけではなかったが、最後まで屈しなかったのと隣接国であったことから霧悟国との因縁は深い。

 霧悟国との国境近い補給地を学園都市として生まれ変わらせたのは、佳華国政府だという。国内だけではなく広く人材を求め、門地を問わず優秀な教員を集め、敵国だったという理由だけで差別を受けないようにと法律を改正し、学園都市完成に力を尽くしたという。その甲斐あって、「誓丘」は多種多様な国籍を持った人物が集まる巨大都市となった。

 「誓丘」は内陸の地であるのに、誰がいうでもなく「夕凪」と呼ばれるようになった。

 佳華国では一般的な「戦勝記念日」という呼び方が、ここでは「終戦記念日」となったのと同じ理由だろう。

 このまま永久に平穏を。

 波風立たずに、静かに眠りにつく夜が来ますように。

 詩人が歌う詩のように、たくさんの人が思ったからだろう、と葉誦は考えた。

「このまま永久に」

 葉誦は立ち上がる。

 サファイアグラスの夕焼けも終わろうとしている。

「――」

 ふいに名前を呼ばれたような気がして、葉誦は振り返る。

 大時計台の文字盤が目に入る。

 そのまま体が斜めにかしぐ。

 不思議な浮遊感の中で、アンバーの光を見た。

 サファイアにはない柔らかな光。

 樹から生まれる石ゆえのあたたかさが好きで、葉誦は夕焼けを覆うのはアンバーだと思っていた。

 色数こそサファイアに劣るけれども、沈む太陽の色に一番近いと……。

 だから、去年の『戦勝祭』で襟飾りを見つけたときは…………。

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