第4話

 キスが終わって最初に感じたのは、口が疲れたってことだ。


(キスって、こんなに疲れるものなんだな)


 唾液に濡れた唇を腕でぬぐい、


「違うって、なにが?」


 おれは椎名を見つめた。


「……ずるいぞ」


 椎名は一瞬、視線をそらせたけど、すぐにおれの顔を見る。


(……やっぱり、なにも感じない)


 嫌だとか、嬉しいとか気持ち悪いとか幸せだとか、誰かとキスしたときはその相手によって色々な感情が湧き上がるものなんだろ?


 だけどおれは椎名とキスをしても、なにも感じていなかった。


 こいつはおれの友達で、いいヤツで、それだけ。

 でも、そうだな。なんだか昨日のわだかまりは、消えていた。

 すっきりはしたかな。


「彼氏とか彼女とか、そういうのはおれにはムリだ。そういう特別な誰かを作る気にはなれない」


 目の前に、男と逃げた母の姿がちらつく。

 母のことはあまり憶えていないし、そもそも逃げた母の姿を見ていたわけじゃない。

 母が急にいなくなって、姉さんがいったんだ。「お母さんはわたしたちを捨てた」って、「わたしの担任の先生と、どこかに消えた」って。


 もう……何年前だ? おれが小学2年生で、姉さんが5年生のときだ。

 だからおれは『特別な誰か』……そういうのはいらない。面倒くさそうだから。


「でも友達としてなら、たまにはこういうことしてもいいぞ?」


 おれは笑っていた。

 自分でもわかった。椎名に、笑顔を向けていることが。


「…………」


 おれは椎名の返事を待つ。

 セミの鳴き声がする。

 もう7月だ、夏だな。


 そうだ、夏休みにはプールに行こう。去年は勉強漬けで、なにもできなかっから。


 多分、2分くらいは無言の椎名を眺めてた。

 そして、


「若菜に、どんな得があるんだ?」


 探るような口調に、おれは目を見開いた。


「……得?」


 なんだそれ? 友達として、ときどきならキスしてやってもいいぞ。そういっただけだ。それ以上を許すとはいってないし……得ってなんだ?

 ただのキスだぞ? 損とか得とか、そういうものじゃないだろ。


 あれ? もしかして椎名とおれじゃ、キスの感想が思った以上に違ってるのか?


「椎名にはあるのか? 得」


「あるさ、めちゃくちゃある」


 そんな真面目な顔するなよ。「嘘だぞ?」とか、いいたくなるだろ。


「ふーん。椎名はそんなに、おれとキスしたいんだ?」


 こいつは正直なヤツだな。顔を赤くして、唇をかんだ。

 そうなのか、椎名にとっておれとキスするのは、めちゃくちゃお得なことなんだ。


 それはなんだろう? 少し嬉しいな。

 少しだけだけど。


 おれは椎名の手を取る。

 大きな手だ。それに、陽に焼けた太い腕。


 外で部活してるんだもんな、そりゃそうだ。

 おれだって陸上をしていたときは、夏は腕も脚も日に焼けていた。


 今みたいに、こんなに白い腕じゃなかったんだ。

 

 おれは椎名の手を握ったまま、顔を近づけていく。

 椎名がまぶたを閉じる。


(やっぱり、お前が彼女なのか?)


 いや、こういうのはなんていうんだっけ。聞いたことあるな。

 受けとか攻めとか?

 そういうのだった気がする。

 

 そうだな。

 彼氏彼女より、よっぽどいい。

 スポーツって感じだ。


 得とか損とか、そういうのじゃないんだ。

 自分でもわからないけど、嫌でもないし嬉しくもない。

 唇を重ねて、押し倒してやる。

 ソファーに横になる椎名の上に乗り、その唇を舐めながらこう思った。


(服ぬいでやったら、こいつどう思うんだろう。楽しんでくれるのか?)


 キスもそれ以上も同じだ。同じなのか、確かめてやろう。


 おれは椎名の上から降りて床に立つと、Tシャツを脱いで上半身裸になった。

 椎名が、すごく驚いた顔をする。

 そして恥ずかしそうな、嬉しそうな顔も。


「男の胸を見て、なにが嬉しいんだ」


 本当にわからない。

 おれの疑問に椎名は、


「お前の胸、だろ……」


 意味はわかる。男のじゃない、おれのだっていいたいんだ。

 おれの胸だから、見れて嬉しいと。

 それは理解できたが、でも……なぜそんなことを思うのか全然わからない。


「おれはお前の裸見ても、なにも思わないだろうな」


 椎名が、股間に手を当ててそこを隠そうとしている。


「おっきくなったのか? おれの胸見て」


 椎名の手の上から、股間を押さえつけてやる。

 あぁ、確かにおっきくなってる。椎名は、どうしていかわからない顔で目を閉じていた。


 もしかしてこれ、レイプなのか?

 おれ、椎名をレイプしようとしてるのか!?

 急に、気分が悪くなった。


「嫌ならやめる。ごめん」


「オレこそ、ごめん……気持ち悪いよな、ごめん」


「だからなんで、お前が謝るんだ。さそってるのはおれだろ」


「……違う、オレが誘わせてるんだ」


 これじゃ、昨日と同じだ。

 そしてここはおれの部屋で、これ以上逃げ場はない。

 そもそも、おれはなんで、こんなことをしてる?


 考えると、すぐに答えは出た。

 友達の椎名が、楽しんでくれると思ったからだ。


 だけどどうだ、椎名は楽しんでるか?

 どう見ても楽しんでないだろ、喜んでないだろ!

 こんなの、こいつを苦しめているだけだ。


 おれは上半身裸のまま、椎名が寝転がるのとは別のソファーに腰を落とした。

 椎名は両手で顔を覆って、年度も「ごめん」と繰り返す。

 まるで外で響く、セミの鳴き声と同じだ。


「……プール行こうか、椎名」


 返事はない。でもおれは続ける。


「おれ、泳ぐのも得意なんだ。でも去年は勉強漬けで、泳げなかったんだ。だからさ、一緒にプール行こう」


 椎名は顔から手をどけ、


「今からか?」


 おれに視線を向け、でもすぐにそらした。

 そうか、おれの胸は恥ずかしいか? そんなんじゃ、プールはムリじゃないのか? プールでおっきくはできないだろ。

 そう思って、ちょっと笑ってしまった。


 7月だ。室内プールだと営業してるのか?

 まだは高いけど、今から準備してだと遅くなるだろうし……。


「そうだな、夏休みなら時間あるだろ?」


 おれの提案に椎名は、


「ふたりでなら、行ってもいい」


 なんだそれ、デートしたいのか?

 まぁ、でも……そっか。


「じゃあ、ふたりで行こう。楽しみだな」


 椎名は泣きそうな顔をした。

 嬉しそうには見えなかった。

 でも、


「楽しみに、してる」


 その言葉に、おれは少しだけほっとした。


[End]

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白い腕の7月 小糸 こはく @koito_kohaku

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