モーセ

海月沢 庵

モーセ



 もう顔も思い出せないシスターの少し毛羽立った修道着は、甘い日光の中で、どこか神聖に輝いていた。

「モーセさまは ひとびとを どれいのくるしみからかいほうしました」

 神の力を借りて海を割り、苦しむイスラエル人を助けた聖人モーセの絵本は今でも暗唱できる。

 私がまだあの家にいたとき、忙しいパパとママの代わりに、向かいの教会のシスターがよく絵本を読んでくれた。よく磨かれた青い屋根がすてきな教会。お年寄りのシスターに手をつないでもらうと、木の肌みたいに深い皺が私の柔らかい手になじんで、もともとひとつだったみたいに心まで密着するのを感じた。




 ゴン。

頭蓋骨に響いた鈍痛で目を覚ます。火かき棒で頭を叩かれた音だ。鼓動に合わせてズキンズキンと規則的に痛む頭が、膜のように身体に貼りついていた眠気を引き剥がしていく。

『店の人』はいつも、私たちを起こすときに火かき棒を使う。牢の中まで入るのは非効率だし、起床ラッパや声を使って大きい音を出すのはまずいから、鉄格子の隙間から入れた棒で小突くのが手っ取り早いのだ。


「起きろ。仕事だ」


 酒臭い小声が石造りの地下室に投げかけられた。木組みのベッドに藁を敷いただけの寝床から身を起こす。朝食の薄味なスープを飲み干し、渡されたパンは昼食にするのでズボンのポケットへ。足元の床からマッチを取って一本擦り、煤けたランプの中へ入れる。


 地上に出ると、涼しい風が私の脂ぎった髪を撫でた。まだ太陽の気配も見えない早朝、爪先のような三日月の光が空の黒さを引き立てている。

 出入口に積まれたブリキのバケツを二十個ほど、重ねて抱きかかえながら運ぶ。両手がふさがるので、ランプは右の小指だけに吊るす。

 砂利の多い河川敷に着くと、仕事仲間の数名の子どもたちがもう来ていた。足元に置いたランプを頼りに、鈍く光るバケツで川の水を掬っている。 彼らは言葉が話せない。物心ついたときからここに居たのだ。ボロ服の上からでも浮き上がった肋骨が分かり、腹部だけは不健康に膨れている。私の体型も、日ごとにそうなりつつある。

 こんな仕事を昔は信頼していたのが悔しかった。



 水売りは、町の人々の生活に関わる仕事だ。そこらの川の水の見た目は綺麗だけど、飲むには汚れている。井戸から汲んだ水も、厄介な伝染病の原因になることがある。飲んだり料理に使ったりする安全な水を売るために水売りがいる。表向きには。

 残念ながら、私たちの雇い主は仕事に一片の誇りも持ち合わせていない。馬車で五日もかかる澄んだ泉の水はほとんど自分たちで使ってしまって、売っているのは私たちが汲んだあと少し濾しただけの川の水だ。



「なんにも分からないふりをしなさい」

 初めてここに買われてきたとき、同じ部屋に居た先輩の少女はこう言った。まだ七歳の私が、こんな仕事は間違っていると泣いたときだった。

 彼女は私と二人だけのときはいつもピンと背筋が伸びていて、服や髪は汚れていても品のある顔つきをしていた。雇い主たちが来ると途端にその背中は丸まって、緩んだ表情もまるで別人だった。

 当時、詳しいことは理解できなかったけれど、先輩がしていることはきっと、生きていくのに大事なことなんだと思った。その後彼女は居なくなったので、いまの私は一人部屋だ。

 水汲みの作業は、町の人たちに知られないように、陽が昇る前に完了される。何も知らない住民たち。当然、毎日夜まで寝床に閉じ込められている私の存在も知らない。 もっともこんな姿、知られない方が幸福かもしれないけれど。



 満杯のバケツを両手に持って、店の外の大きな水瓶まで運んでいく。 水を落とすとぶたれるから気は抜けない。

 最後の2つを運び終えたとき、隣の家の前から寝息が聞こえた。酔っぱらいにしては幼い寝息だ。そっと近寄ってみる。裕福そうではないけれど清潔な白いシャツを着た、五歳くらいの子供だ。目の周りが赤く腫れている。なにかで親に叱られて締め出されたんだろう。


「……」


 丸まって浅い寝息を立てる子供の傍に、そっと半分に千切ったパンを置いた。自己満足だ。無駄なこと、お節介もいいところ、と頭の中の私が笑う。きっとこの子はもうじき家に入れてもらえて、もっと柔らかいパンを当然のように食べる。


 私も、そっちがよかったなあ。


 昔聞いたモーセみたいな救世主を想像してみる。

足も伸ばせないような狭い寝床に帰ったら、知らない優しい誰かがいて、あたしを連れ出してくれる。冷たくて野菜くずしか具のないスープや、口の中でゆっくり湿らせないと噛めないような固いパンはもう食べなくていい。まるで子供のころみたいに……なんて。


 夢を見すぎてしまう日は、早く眠ってしまうに限る。幸せな幻想や記憶を追う時間があると、骨に根を張る冷たいものが、虫歯みたいに痛むから。

 背を丸め、目線を落として地下に入る。石造りの地下牢は、この時期とくに冷える。

 早く寝ようと寝床に座った――そのとき、


「こんにちは」


 お日様の下で干した洗濯物みたいな匂い。傷ひとつなくほっそりと長い手足。水銀みたいな光沢のある長い髪。朝陽のように美しいひとが、ベッドの上に現れた。







 昔住んでいた家と両親のことに関して、覚えていることは多くない。ただ、体調を悪くして骨が目立ってきた父の手の冷たさだとか、だんだん私を抱きしめることより追い払うことのほうが増えてきた母のドレスの袖のほつれだとか、そういう些細なことだけはよく覚えている。ある朝、起きたら両親は家から消えていて、鏡を見ると頬に赤い模様があった。母が使っていた口紅と同じ色だった。

 その後私を引き取っていてくれた教会に大人が来て、この場所に連れてこられた。





 寝床の牢は水を売る店から床一枚隔てた地下にあって、店の人たちの足音や会話がよく聞こえる。だから、外に出られない昼間はそれを聞いて過ごす。

 さっき突然現れた美しい誰かさんは、「こんにちは」の挨拶をしたきり、特に何を言うでもなく上の音を聞いていた。

 私は話がしたかった。あなたは誰なの、どうしてここに居るの、私を知ってる?ずっと馬鹿のふりをしてきて、本当に馬鹿になってしまいそうな自分の話だって聞いて欲しかった。だけど、人より花や星に近いようなその目を見ると、私の望みが全部どうでもいいものに思えて、結局お互いなにも言わずに地上の音を聞いていた。不思議なことに、それだけで十分、なにもかも伝わっている気がした。


 その日から私は、この狭くて汚い寝床に帰るのが何よりも楽しみになった。帰ればあのひとが居る。私のことを見て、一緒に居てくれる。 鶏の骨みたいに空洞だらけだった私の心は、いとも簡単にあのひとで満たされた。




 町で病気が流行っていると聞いたのは、町に雪が積もりだしたころだった。

 店に来る人たちの声や足音は落ち着きのない速さを帯び始めた。もう何人死んだ、自分の家族も死ぬかもしれない、と震えた声で囁きあう。 隣の牢に居た数人の仲間たちも病で死んだ。その間私は、地下に響く吐瀉物の音と汚臭に震えながら眠った。あのひとは、笑いも泣きもせずにそこにいた。


 川の上流に大きな工場ができたことを私は知っている。そこの排水を川に流していることも、この地下で聞いていた。私だけが理解していた。

 でも、私に何ができるというんだろう。反抗したって、馬鹿のふりをやめたって、死体がひとつ川辺に埋まるだけ。燃えなくなった灰は、火かき棒で集めて捨てられるのだから。私は馬鹿だから、奴らが悪いから。


 今日も私はわからないふり。汚い川の水を汲む。


 翌日の水汲みの帰り、隣の家のドアがきしむ音がした。以前その家の前に置いたパンは、鳥たちが食い尽くしていた。こんな早朝に外出だろうか。路地に潜んで目を凝らす。

 開いた扉から出てきたのは老人と、成人の男女ふたりと、それから、5歳くらいの子供がぴったり入るくらいの、小さな黒い棺だった。


 気がつくと寝床の上に座っていた。鼓動が身体を揺らす。腹の底は蛇がうねっているみたいに気持ち悪くて、口と喉が渇いて仕方ない。脇の水差しを手に取って、直接そこから飲もうとする。

 流れ出た水を見た瞬間、私はそれを格子戸に叩きつけていた。もともとヒビが入っていた白い水差しは、卵のように簡単に割れた。 ぶつかった扉の方もがくがく揺れて、鍵が壊れたのか少し開いた。水差しの破片で切れた脚から、ビーズの玉のような美しい血が出た。

 扉の向こうにはあのひとが立っている。花のほころぶような微笑みが、こちらを見ている。

「行こう」

 そうだね、行こう。


 藁の寝床にはマッチで火をつけた。じきに全部、炎の中で灰になるだろう。火の先が鉄格子を舐める様子は、これまでに見たどんな景色より綺麗だった。


 朝陽が真っ赤に照らす街を、手をつないで駆けていく。硬い木靴の足音は、やけに軽くて頼りない。それでも、久しぶりの明るさが心を誘う。



 行き着いた川岸で流れる大量の水を見ると吐き気がした。

 あなたは静かに手を挙げた。


 するとどうだろう。幅四十メートルはある川の水がさっと割れ、川底の道ができた。 川のまんなかで、先に行ったあなたは手を差し伸べている。


 靴を脱ぎ捨て、裸足の指をきゅっとすくめる。陽の光が背中を炙っている。湿った砂利の道に、そっと爪先を乗せた。冷たさがかんかんと足に響いた。     

 ああ、神様、私きっと、赦されないことをしたでしょう。もう、知らないふりは終わり。


 醜い川の綺麗な道を、二人ひとりで歩いていく。

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