第7話 大団円

 朝倉青年の書いた小説は、この、

「フランケンシュタイン症候群」

 と、

「ジキルとハイド」

 のような、

「多重人格性」

 の話を書いた。

 その中で、精神疾患の話を絡めてみたのだが、フランケンシュタインの話に何を結び付けるかということを考えてみた。

 そんな中で、一つ考えたのが、

「タイムリープ」

 の話であった。

「遺伝子のタイムリープ」

 という考え方をしてみたのだが、遺伝子にタイムリープを絡めてみると、

「タイムリープというのは、自分のやり直したい時代にいって、自分に憑依する」

 という形のもので、

 つまりは、

「自分の生存しているところにしか行くことができない」

 ということになる。

 しかし、自分が生存していた時代というものを、普通は、そんなに覚えているものだろうか?

 それを考えると、

「タイムマシン」

 であったり、

「ワームホール」

 などという、

「タイムスリップ系」

 のアイテムであれば、普通に考えて、

「タイムスリップで飛び立った場所の、時間差でしか出現することができない」

 ということになる。

 下手に、

「どこに現れるか分からない」

 ということになると、うかつなことはできないというものだ。

 しかし、

「実際に、同じ場所に行けるとしても、時間が違うその場所に、何があるかということを正確に認知できる人はいない」

 といえるだろう。

 それこそ、

「タイムカメラ」

 のようなものがあり、

「時代を超えたその場所が大丈夫なのかどうかを、ナビのようなもので検索し、大丈夫であれば、タイムスリップする」

 ということでもなければ、できることではない。

 これは、ワープという発想でも同じことで。

「同じ時間に、瞬時にして、まったく違う場所に飛び出す」

 というもので、

「理論的には、タイムマシンと似たものだ」

 ということではないだろうか。

 だからであるが、

「同じ時間に別の場所に飛び出すというワープ」

 さらに、

「同じ場所に、時間を超えて飛び出すタイムマシン」

 と根本は同じ発想から生まれたものだといえるのではないだろうか。

 そういう意味で、小説の中に、

「ワープ」

 という発想も組み込んでみた。

 すると、そのワープというものが、

「裏の世界を覗ける」

 というものであるとすれば、

「ジキル博士とハイド氏」

 というのは、表裏の世界の存在ではないか?」

 ということになる。

 この発想は、たぶん、普通に考えると、そこに行きつくのだろうが、その発想は、

「誰にでも思いつくことだ」

 といえるのではないだろうか?

 しかし、朝倉青年の発想は、

「一周回って、そこに行きついた」

 という発想である。

 そのために、タイムリープの発想が役に立ったといってもいいだろうが、タイムリープというものは、ある意味、

「都合のいい発想だ」

 といってもいいだろう。

 人間誰しも、

「その時代に戻ってやり直したい」

 と考えるものだが、実際に、そこに戻ってやり直すためには、

「未来の記憶をもって、しかも、自分でなければいけない」

 ということになると、

「過去にいる自分に憑依する」

 という考えになってしまう。

 だから、

「元々いた自分がどうなってしまうのか?」

 という発想は、憑依した自分にはないのだ。

 しかし、元々いた人間としては、

「自分でありながら、まったく違う性格を持った自分が現れた」

 ということになる。

 それは、その後、

「人生の転機」

 というものを迎える自分なのだから、その後に、何かが劇的に変わるはずなので、それは当然のことである。

 それを思うと、

「元からいた自分が、ジキル博士で、あとからやってきた自分というのが、ハイド氏」

 ということになるだろう。

 ハイド氏は、自分の間違いが分かっているのだから、

「ジキル博士を正す」

 というつもりでいるのだが、実際には、そうではなく、ジキル博士からすれば、

「もう一人の潜在していた、悪魔のような自分が、覚醒した」

 としか思わないことだろう。

 つまり、

「タイムリープが、ハイド氏から見た自分で、ジキルとハイドの話の中の主人公であるジキル博士が見た自分とは、まったく正反対になるわけだから、それも、理屈とすれば当たり前のことである」

 といえる。

 ということで考えると、

「ジキルとハイド」

 という話と、

「フランケンシュタイン」

 の話を総合することで新しい話を作ることができ。そこに、タイムリープの考えをはめ込むと、SF小説としては、実に、

「都合のいい話」

 というものが出来上がるのではないだろうか?

 朝倉青年は、大学時代にそのような小説を書いた。

 舞台は大学の研究室。

 そこで、一人の科学者が、

「ジキルとハイド」

 そして、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものを研究していた。

 間違っても、

「ハイド氏」

 であったり、

「フランケンシュタインの怪物」

 を作ってはいけないということを考えたのだが、そのうちに、

「ハイド氏」

 というのは、本当にそんなにひどいものなのか?

 と感じるのだった。

 そもそも、

「ジキル博士の中に潜んでいる潜在意識が、ハイド氏を作っているのではないか?」

 と思うと、

「ハイド氏とジキル博士が、本当に正反対の性格なのだろうか?」

 と考えるようになった。

 そこで、

「一周回って戻ってくる」

 という発想になったのだ。

 これは、

「マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる」

 という発想、

 さらに、

「同じものを引くと、ゼロになる」

 という発想であった。

「合わせ鏡」

 の発想というのは、

「絶対にゼロになることはない」

 という、

「限りなくゼロに近い」

 という存在のものではないか。

 それを考えると、

「減算という別の考え方をすれば、どんなに無限を尽くしても、ゼロにならるはずのないことも簡単になる」

 ということであり、逆に

「無限」

 という発想が、

「絶対にゼロにさせない」

 というものだといえるのではないだろうか。

 そういう意味では、

「加減法」

 というのは、

「乗除法」

 というものを、補填する考えであり、

「乗除法も、加算法を補填する」

 という考えにも至るというものだ。

 その発想が、

「都合のいい発想」

 ということに結びついて、次元の違いや、場所の違いというものを、いかに証明するかということで、できた発想として、

「無限」

 という発想があり、それをさらに証明するものとして、

「限界」

 というものが存在するという、

「相対的なものというのは、最終的に無限というもの」

 を考えさせるということで、

「合わせ鏡」

 という、発想を作り出したのかも知れない。

 それも、あくまでも、

「都合のいい発想」

 ということになるのだが、そのためには、たくさんの証明が絡み合うことで、一つの答えを結び付けるのであろうが、そのためには、

「一周回って、戻ってくる」

 ということに結びついてくるのかも知れない。

 朝倉少年の小説は、一部の人からは賞賛されたが、大多数からは、

「難しすぎる」

 あるいは、

「理解不能だ」

 と言われていたが、それでもよかった。

「どうせ、だれも一蹴回って、都合のいいところに戻ってくるなどという発想を思い浮かべる人などいないのだから」

 という発想になるのだった……。


                 (  完  )

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都合のいい「一周の夢」 森本 晃次 @kakku

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