はをやする

脳幹 まこと

幼き日の過ち


 子どもの頃、自分の歯がコンプレックスだった。


 年子としごの兄弟や友達と比べて明らかに長い、ねずみのような前歯。話が盛り上がっても、ふとした拍子に前歯が気になって一人だけ萎えることもあった。

 なんとかしたくて、子ども用のハサミで切ろうとしたことがあった。だが、鏡を見ながら真っすぐに切る自信がなかったのでやめた。

 DIYが趣味だった父の工具箱から、使えそうな道具を探そうともした。ペンチ、ニッパー、ドライバー、クランプ、ハンマーと色々あったが、どれもきちんと使える自信がなかった。

 結局何も出来ず、居間に着く。自分以外の誰も、ねずみの歯ではない。

 誰も表に出さないけれど、きっとこの前歯を見て笑っているのだ。こいつさえなければ、自分の顔に自信が持てるのに。


 そんな私はある日、図工で紙やすりに出会った。

 木にあてて擦ってやると、角が丸くなる。私はすぐに悟った。


 これなら、いける。


 その日の帰り道の高揚感は、今でも良く覚えている。

 空っ風が吹く長い帰り道は嫌いだったが、この時ばかりはむしろ幾らでも長くなってほしいくらいだった。

 自宅に着くと、ランドセルから紙やすりを取り出して、さっそく歯に当ててみた。

 思った通り、他の工具と違ってきちんとフィットする。当時の私は、成功を確信していた。

 横っ腹を削らないように、人差し指と親指ではさんだ紙やすりを前歯の先端につける。親指を動かせば擦れて削れるはずだ。

 最初はなぞる程度に。ゆっくり、ゆっくり。

 ジャリジャリという音が歯から骨に伝わって鼻から抜けていく感じがした。

 無心でやすりを何往復かさせていると、口からよだれが垂れてきたのに気づいた。

 さあどうだろう、と母の手鏡で自分の顔を見てみるも、全然変わったように見えない。


 より強く力を込める必要があると思った。


 大丈夫だ、失敗しても大したことにはならない。私はやすりの使い勝手を熟知していた。 

 やすりを持った親指を口にくわえてから、左右に目一杯動かした。

 ジャリジャリという音が、随分低くなったのを感じた。冬なのにはっきり汗ばんだ。

 ゆっくりと口を開いてみると、やすりに白い粉末が付いていた。

 やった、と思った。

 このまま続けていけば、みんなと同じ長さになるはずだ。

 すっかり有頂天になった私は、再びやすりを咥えて左右に動かし始めた。


 何回目かで、カッターで指を切った時のような、鋭い感覚がした。 

 舌を前歯の先端に当ててみると、場所によって波があるものの、じんじんと痛い。

 手鏡で歯を見てみる。ほんのちょっとだけ削れただけだった。やすりに付いている白いのは前歯ではないのか。まだ足りない。

 しかし、夕飯の時間になってしまったので、作業を一時中止して居間に着いた。


 忘れもしない。その日の夕飯は白米、焼き魚、豚汁だった。

 豚汁を口に含んだ瞬間、ぎゃあああと叫んだ。比喩でもなんでもなく、飛び跳ねた。

 悶絶するくらい痛い。しみるなんてレベルじゃない。

 家族が全員呆然としていたが、そんなことを見ていられる余裕もない。


 歯が痛い、歯が痛い、と大泣きする私。


 口を見た母がこぼした言葉もまた、忘れられないものだった。


「穴ぁ開いてる」


 後日、発言の意味を何度か尋ねてみたが、母は「忘れた」と返すだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はをやする 脳幹 まこと @ReviveSoul

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ