崩壊

 至る所でカメラが回り、競技場の大型ビジョンでは各選手の紹介が行われている。

 優勝候補は4レーン、成城高校の吉岡だった。今日の午前中に行われた予選と準決勝ではそれぞれ自己ベストを更新していた。


 今も自信たっぷりの表情で入念に体をほぐしている。余裕の表情を浮かべながら観客席に手を振ると、吉岡の学校の陸上部員たちから大きな歓声が上がった。


 しかし、8人で走るはずなのに1人足りないことに審判団が気付く。

 第8レーン、日本高校の塩谷沙来兎だった。予選も準決勝もギリギリ通過した選手で、過去に実績も無い注目度の薄い選手だったが、細身の体ながらやっとの思いで決勝進出を決めたときには全身で喜びを表現するほどで、中には沙来兎の健闘を願う者もいた。


 観客席もその異変を察知して、会場には次第にざわざわとした雰囲気が生まれてくる。それは日本高校の選手団も同じであった。体調不良や怪我でもあったのだろうかとスマホで連絡を取ろうとしている者もいた。


 審判の1人が日本高校の関係者に話を聞きに行こうとしたその時、日本高校の陸上部のコーチが姿を現した。その後ろから、沙来兎も付いてきている。

 ほっとした審判団だったが、沙来兎の様子を見て怪訝な表情を浮かべた。


 ユニフォームから覗く両腕はドス黒く変色しており、元の腕が分からない程に膨張していた。

 胸や背筋も異様に発達していて、準決勝のときまで余裕のあったユニフォームがはちきれそうになっている。

 太ももは丸太のような太さになり、ぴっちりとしたパンツが、内側からの圧力に負けて亀裂を起こしていた。


 沙来兎は手をわきわきとさせ、口元から「キャッキャ」と動物のような鳴き声を出していた。むき出しになった目はあらゆるものを獲物として捕えるかのようにギョロギョロと動き回っている。


 会場は一層激しいざわめきに包まれていた。選手たちもその姿に呆然と立ち尽くしており、異形の化物を見るように、目には恐怖が宿っていた。


 その場で固まる審判団に、コーチは軽く会釈する。

「どうも、お待たせしたようで」

「あぁ、いえ……。塩谷選手……ですよね?」

 その言葉が聞いた沙来兎は、「オデオデオデ、シャフハァ!」と叫んで、両腕を何度も突き上げていた。

「えぇ、すいません。初めての決勝で興奮しているもので。確か8レーンでしたね」

 審判団の心配を振り切り、自由に振る舞う沙来兎を何とか8レーンに連れて行くと、コーチは離れていき、遠くから見守った。

 

 これまでの努力は全て終わりを告げた。

 けれどコーチは沙来兎の行く末を見守ろうと決めた。何があっても目を逸らさず、見届けようと思った。


 8レーンに着いた沙来兎は顎を突き出し、小刻みに体を横に振っている。それに飽きると、今度は自らの腕を噛み、「ンフフフフフ」と声を出した。それを気味悪そうに見ていた7レーンの選手に片方の腕を差し出し、「ゲラハ!イッチャイ!」と謎の叫びを上げた。


 観客席からどよめきが起きる中、日本高校の関係者が集まっている中に、沙来兎の両親が合流した。二人が現れたことで近くにいた人たちは頭を下げ、前の席を譲った。

 二人は礼も言わず、一番前に陣取った。

 アナウンスが流れ、100m決勝の始まりを告げると、観客席から大きな拍手が巻き起こった。二人はそれが自分の息子に注がれているものだと信じ切り、満足げな表情を浮かべた。

 日傘を取り出した母親が選手たちに目を向けると、心配そうに呟いた。

「さきとちゃん大丈夫かしら。あの後コーチが連れて行ったから、様子が分からないけれど」

 その心配を取り払うように、父親が肩に手を回した。

「心配いらないさ、あれくらいで参るような鍛え方はしていないはずだ。見事1着、優勝をもぎ取って来るさ。なんたって俺たちの子供なんだからな」

 温かく聞こえた言葉に、母親は「そうね。何も心配することは無かったわね。あの子は優しい子だもの」

 と、父親に体を預け、スタートのときを待った。


 審判が8レーンの沙来兎の所まで歩いて行き、声を掛けた。

「塩谷君。……大丈夫かい?」

 腕を噛むのを止めた沙来兎は審判に向けて首だけをぐるりと回すと、次に口をだらしなく開けて、空を見た。釣られて空を見た審判だったが、何も見つけられずに沙来兎に向き直ると、歯をカチカチとさせて近づいて来たのに驚き、後ずさりを始めた。

 その様子を見た沙来兎は「ベッ、ベベッ」と笑ったかと思うと、急に真面目な顔になって

「さぁ、始めましょう」

 と小躍りしながらスタート位置に着いた。

 唖然とした審判だったが、最後の言葉を聞いて問題無しと判断した。他の審判にそのことを告げると、選手たちに位置に着くように指示を出した。


 選手たちがスタートラインに着くと、会場は一際湧いた。各選手がスターティングブロックと呼ばれる器具に足を掛け、100m先のゴールに向かって呼吸を整える。

 最後にセットをしたのは沙来兎だった。スタート位置に着き、スターティングブロックに足を掛けたが、その感触が気に入ったのか何度も蹴り上げた。辺りにガンガンと鳴り響く音など気にしなかった。

 そして顔を地面に近づけ、その一部に舌を這わせたのを見て、再び審判が駆け寄ってきた。

 しかし駆け寄った審判は、もはや何と声を掛けてよいのか分からなかった。地面を舐めまわす行為を見つめていると、沙来兎は急に首を上下に振り始めた。今度は左右に動かし、「ジャビチャー、ウー、ヒュヒュヒュンガー」とうめき出すと、今まで集中していた選手たちも、とうとう吹き出してしまった。


「塩谷君。ふざけていないで、きちんと静止しなさい。これ以上騒ぐようなら、失格になりますよ!」

 失格という言葉に、沙来兎の動きが止まった。視線が観客席の、100mも離れた先の日本高校のいる場所に向けられる。そこで沙来兎の両親が目に映ると、沙来兎は急に怯え始めた。

「ゴアータイ、ゴアータイ、ゴウギガエ」

 そう言って、沙来兎は横を見た。他の選手たちと一瞬目が合ったが、すぐに逸らされる。しかし沙来兎が見ていたのは位置の付き方だった。何故かそれと同じことをしなくてはいけないと思い、ようやく8人の準備が整った。


 溜息を突いた審判団が、さっさと始めてしまおうとそれぞれ配置に付く。レーンの内側に立っていた審判が、合図のピストルを高く上げていくと、会場は沈黙に包まれた。皆がその一瞬に意識を集中していた。


 沙来兎を覗いた選手7人が、用意の掛け声と共にお尻を高く上げる。

 号砲が鳴るのとほぼ同時に、選手たちが飛び出した。大歓声に包まれる競技場に、少し混じる溜息。沙来兎のスタートは二秒も遅れてしまった。


 しかしその遅れは50mも行かずに取り返した。

「キャピャアアアアア」と奇声を上げながら前へ前へと突き進んでいく。

 膨れ上がった強靭な体がダイナミックに走る様は、まるで首を狩る為に走る死神のようだった。ありえないスピードに会場には叫び声が木霊する。あっという間に前を走る選手たちを置き去りにすると、70mほどで先頭に立った。

 走りながら、沙来兎の視線は両親に向けられていた。日傘の下で応援する両親の顔には笑顔があった。

 けれど沙来兎は言い知れぬ恐怖に身を包まれていた。そしてそれは両親から向けられているものだとハッキリ理解すると、沙来兎は声にならない叫びを上げ、全力でゴールを駆け抜けた。

 歓声が起こる会場の大型ビジョンに9秒13と表示される。しかしその歓声も長くは続かなかった。どよめきと悲鳴が起きる中、全員の視線が、今もなおトラックを走り続ける沙来兎に注がれていた。


 風を受けて抜け落ちていく髪の毛が、沙来兎の走って来た道に残っていく。禿げ散らかした頭を気にする素振りも無く、口から舌をだらりと下げて、唾液を流れるままにしている。

 コーナーを回ってバックストレートに入ると、胸元に手を掛け、ユニフォームを思い切り引きちぎった。その体はもはや膨れたというよりも、腫れ上がったという方が正しかった。その痛々しい姿はカメラを通して放送されてしまっている。

 その辺りで、審判団が沙来兎を囲むように追いついてきた。それに気づいた沙来兎は全力で駆け出した。ものすごい勢いでトラックを回る沙来兎に追いつくことは出来ず、審判団は追うのをやめて関係者に応援を求めた。

 もう追ってくるものがいないと分かると、今度は下のユニフォームを破り捨て、終いには靴下とシューズ以外は全裸となった。

 会場に悲鳴と怒号、そして大きな笑いが巻き起こる。沙来兎はそれを楽しむように観客席に向かって「マンオーガレツ、ニーキカヤ」と叫び、辺りに小便をまき散らしたところで、やってきた大会関係者に取り押さえられた。

 その間もヘラヘラ笑いながら「ジョーダ、チーヤ、マーガ」と叫ぶ沙来兎はトラックからその姿を消した。

 

 後から走ってきたコーチは、奥へと消えていく沙来兎を見送った。

 これが沙来兎の最後かと思うと、途端に涙が溢れてきた。


  日本高校の面々がいる観客席に顔を向ける。もうすでに沙来兎の両親はいない。おそらく息子の醜態を見て、その場にいられなくなったのだろう。

 

 遠くから大会関係者が数人近づいてくる。こうなった経緯を詳しく聞いてくるだろう。頭の中で、先程の控室で起こった出来事を再生させる。

 最初から、最後まで、その全てを話そう。

 せめて沙来兎のことだけは救ってあげたい。その気持ちを胸に抱きながら、やってくる大会関係者に頭を下げた。

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玩具息子 月峰 赤 @tukimine

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