玩具息子
月峰 赤
準備完了
晴れ渡る空の下、全国高等学校陸上競技大会・東京予選も大詰めを迎えた。
間もなく男子100メートル決勝が始まるということもあって、観客席は満員。わずか10秒ほどの戦いを見届けようと多くの人が集まっている。
トラックにある8つのレーンに、続々と出場選手が集まってくる。胸に学校の名前が主張されたユニフォームを身にまとい、思い思いにレースに集中していた。
しかし第8レーンを走る日本高校の塩谷沙来兎(しおや さきと)はまだ控室に残っていた。
中には沙来兎の他に、陸上部のコーチと、両親も残っていた。
力なくベンチに座る沙来兎がポツリと声を漏らす。
「もう、こんなことしたくないよ」
空っぽになったドリンクボトルを置くと、沙来兎は身を縮こませた。
しかしその言葉は、両親の反感を買っただけだった。
側に立っていた父親が、その言葉をかき消すように声を荒げた。
「何言ってるんだ。そのままのお前じゃ他の選手に勝てる訳ないだろう。父さんたちに恥をかかせるつもりか。予選も準決勝もギリギリのボンクラが、どうしてここまで来れたと思っているんだ。父さんたちのお陰だろうが」
持っていたメガホンで沙来兎の頭を小突くと、ブランド品で身を固めた母親が息子の顔を覗き込むようにしゃがみこんだ。
「さきとちゃん。お父さんの言うことを聞いて。これは貴方の為でもあるのよ。ここで勝てれば、この先大きな自信になるんだから」
握られた手の冷たさに、沙来兎はぎょっとした。感じた薄気味悪さに、体がぞっとする。
助けを求めるように、沙来兎はコーチを仰ぎ見た。少し離れた場所で腕を組んでいた大柄なコーチは、小さく息を漏らした。しかし沙来兎の視線に気づいても、その口を開くことは無かった。
沙来兎の父は医者であり、学校に多大な寄付金を送っていた。教師とも関係が深く、学校関係者は沙来兎の両親に頭が上がらなかった。
今も、彼らの面目を保つために無茶な提案を受けた。コーチとしては極めて反対であったが、学校に指示を求めた結果、沙来兎の両親に従いなさいという結論となったことで、この場にいながらも置物同然の存在となっている。
そして今、この両親が息子に筋力増強のドーピングを施そうとしているのを、黙って見過ごすことしか出来ないでいた。
「聞いているのか。ほら、さっさと腕を出せ」
ふいに沙来兎の右腕が掴まれる。咄嗟に腕を引っ張った沙来兎だったが、父の力は強く、抵抗が出来なかった。強制的に腕の内側を向けられる。
「おい、早く打て」
その指示に従順だった母親は、カバンから小分けになった袋を取り出した。その中には1本ずつ注射が入っており、その一つを開けようとしたとき、沙来兎はコーチに助けを求めた。
「コ、コーチ!助けて下さい!」
しかし悲痛な叫びも、部屋の中に消えていくだけだった。それどころか父親に「アンタもこいつの体を抑えろよ」と命令され、沙来兎の体を拘束した。
「嫌だ!嫌だ!」と叫ぶ沙来兎の耳元で「スマン」という短い言葉が囁かれると、沙来兎の動きが一瞬止まった。そのとき、肘の辺りにチクリと痛みを感じた。
腕を見ると、母親が注射針を肉体に刺しこんでいた。指で押し込まれていく薬剤が体に巡る映像が頭の中に浮かび、体の震えが止まらなかった。
体が解放されてから、体が思うように動かせなかった。
腕や足が熱を持ち始める。
息が乱れ、ベンチに横たわってしまう。
意識も朦朧として、視界が狭まっていく。
その姿を見て、父親は舌打ちを漏らす。
「だらしねぇ奴だ。でもこれで優勝は間違いないだろう。今度の同窓会では自慢できるぞ!」
はははと父の笑い声が部屋に響くも、沙来兎は反応が出来なかった。
「えぇ、そうですね。私も明日開かれるお茶会で、堂々と自慢できるわぁ。うちの子が陸上競技で優勝しましたのって。他の奥様方をやっと見返せるの」
母親がそう言ってコーチを見る。ぐったりとした沙来兎を呆然と見下ろしていたが、その視線に気づいてハッと顔を上げた。
「ねぇ、貴方も嬉しいでしょう?教え子が優勝するんだから」
向けられた笑顔に、コーチはドキリとした。ここで賛成の意を示しておかなければ、あとで何と報告されるか分かったものではない。
コーチは何とか笑みを浮かべて、必死に言葉を探した。
「それはもちろんです。これは、えぇ……学校側としても、塩谷様たちの行動に感嘆しております……」
コーチの出まかせの言葉に、母親は「そうでしょう」と喜んだが、父親はフンと鼻を鳴らした。
「当り前だ。俺たちがどれだけアンタたちを助けていると思うんだ。このことだって、どんな思いでやっているのか分かっていないだろう」
「い、いえそんなことは……」
内心この二人から逃げ出してしまいたくなった。これまでにも練習方法や指導法に口を出され、大会の成績にもプレッシャーを掛けられてきた。
そして今、沙来兎の努力で手に入れたこの舞台を、こんな大人たちの思惑に潰されてしまうことが、何よりも悔しかった。
けれど反抗することは出来ない。そうすれば、自分はこの二人に難癖をつけられ、もしかしたら二度とコーチが出来なくなるかもしれないと思った。
それに、このことに関しては自分も共犯になってしまった。もし暴露したらとんでもないことになる。そのことを想像すると、ことの次第を成り行きに任せるしかなかった。
浅い呼吸を繰り返す沙来兎を見下ろした父親が、顎に拳を当てて何か考え事をしていた。それに気づいた母親は、首をかしげて尋ねた。
「あら、どうしましたの?」
「ん?あぁ、本当に大丈夫か心配になってな」
父親の言葉に、コーチも慌てて口を開く。
「やっぱり、予選のときから連続で打ってしまったのが体に……?」
コーチの言葉は不用意だった。父親が烈火のごとくコーチに食って掛かった。
「そんな訳ないだろうが!」
その言葉にコーチはすぐに謝ると、頭の中で、父親の言った大丈夫が、沙来兎の体を心配しているものではないと瞬時に判断した。
「おい、もう1本、こいつに打ち込め」
母親はそれを聞いて、すぐに行動した。迷いも何もない動きで、その準備をしていく。
コーチは何も言えなかった。そして目を逸らした。もう自分が出来ることは、決勝の開始時間まで待つことだけだった。
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