クロスプレイ!

骨太の生存術

「クロスプレイ!」

 バックネットに回転の掛かった打球が音を立てて食いこみ、燃えるような日射しの中でロージンの白い粉がぱっと煙った。

「ファウル!」

 スタンドのどよめきを割って、主審の声がグラウンドに轟いた。

「バッターへばってる! 堂本、次で抑えるぞ!」

 女房役のキャッチャーの掛け声に気をよくしたか、長身痩躯の若いピッチャーは真っ黒い日焼け顔に真っ白な八重歯をこぼした。

「パパ、ホームラン打って! シャチョーなんかにまけるな!」

 アブラゼミの大合唱を掻き消さんばかりの足踏みと声援の轟きの中から、幼い女の子の甲高い声が飛んだ。キャッチャーはその声を耳さとく聞きつけたか、慌ててマスクを取り、スタンドの女の子に向かって深々と英国紳士気取りの大仰なお辞儀を返した。途端にスタンドでどっと笑い声が上がり、次いで拍手が湧いた。

 キャッチャーはマスクを被りなおすと、観客にウケを取ったときの表情とは打って変わって、面格子の隙間からバッターボックスの男をどうというほどのものでもないという目で見つめた。

 村上達也は急にいたたまれなくなってタイムを取った。

 鷹丘桂一郎の冷めた目は、どうにも村上には辛かった。猛禽が獲物を見定めるような鷹丘のその眼差しも、かつては自分に対して常に温かで、常に期待が込められていて、高卒の新入社員と社長の垣根を越えた、村上が子供の頃から思い描いていた父親のもの、まさにそのものだった頃があったのだ。

 まあしかたないよな、と村上は思い直した。この自分が輝けるプラチナスターズ期待の星だったのはもう過去のことで、いまや泥まみれのワン公――その名にふさわしい、それ相応の連中が集うマッドドッグスの一員となって御大に牙を剥いているのだから。

 村上は念入りに素振りを繰り返した。クイックモーションながらゆうに百五〇キロを超えてくる堂本の球をどうにか七球連続でファウルにしてきたが、しかし、前には一つも飛んでいない。

 さすがに生きた球はピッチングマシーンから放たれるものとはちがった。一球一球、伸びも重みも揺れもちがう。ボールは雄叫びあげて野獣のように襲いかかってくる。復帰を決めてからのこの短い一ヶ月で、そんなものに対応する勘など取り戻せるはずがなかった。現に、前の打席では手も足も出なかったのだ。

 村上の視界の隅にスコアボードが映り込んだ。

(同じだ――)

 二対三。矢継ぎ早に繰り出されるプラチナスターズのリリーフ陣に必死に食い下がり、助っ人出稼ぎブラジル人――得意なスポーツはむしろサッカー――の活躍もあってどうにか一点を追いかける九回裏、ツーアウト、ランナー二塁。村上の一打でセカンドランナーをホームに帰すことができれば同点である。

(くそ、やっぱり同じじゃねえか!)

「ムラ、いけるぞ! 俺に回せよ!」

 ネクストバッターズサークルから、マッドドッグス主将田畑郁夫の声が飛んでくる。しかしこの男、これまでまったくタイミングの合っていない三振を三つ重ねてきている。繋いだところで絶望的だ。

(それも同じだ――あの夏と! それに――)

 たとえ延長戦になったとしても、マッドドッグスにはもう替えのピッチャーがいない。主将の田畑はついさっき、捨て身も同然、後先考えずに、最後のピッチャーに代打――それも三球三振――を送り込んでしまったからだ。

 そもそも、まともにやりあって敵う相手ではなかった。同じ会社内の草野球チームだが、プラチナスターズは鷹丘社長自ら陣頭指揮を執る大本営直轄、精鋭揃いの集団で、それにひきかえマッドドッグスは落ちこぼれの掃き溜めのような烏合の衆なのだ。しかも、鷹丘社長の秘蔵っ子である堂本は、この九回にはじめて四球でランナーを出しはしたが、七回に村上の前打席からマウンドに立つと、それを皮切りに、これまで八人をぴしゃり三振八つで抑え込んでいる。

 いま村上が放つのは、たんなる同点打ではダメ、逆転勝利の一打でなくてはならない――あの夏と、なにもかもが同じなのだった。

 村上は観客まばらな外野スタンドにさりげなく視線を配った。その存在には試合開始のときから気付いていた。

 つばの広い帽子を目深に被って、その狭い影の中に身を縮めるようにして女が一人座っている。

 藤野志織だ。

 彼女は胸の前で手を組んでいた。この自分のために、こっそりと祈ってくれているとでもいうのだろうか。

(あの夏もそうだったんだろうな。それを俺は――)

 村上は志織の姿から視線を引き剥がした。そして迷いを振り払うように両手で頬を叩き、もう一度だけ鋭く素振りをした。

 村上がバッターボックスに戻ったとき、声援と足踏みは渾然一体、球場を揺るがす地鳴りとなっていっそうの昂ぶりをみせた。誰もが無意識に感じているのだ――次の一球で、必ず試合が動く、と。

 村上は打席の土をざっと足でならすと、肩を揺すってバットを担ぎ、そしてその先端で空をひと突きして大きく構えた。

「プレイ!」

 審判が高々と宣言した。

 次の瞬間、ピッチャーマウンドから放たれた白球に向かって、村上は鋭く踏み込んだ。


 1


「グッモーニンッ、ハッワァユー!」

「ぐっどぉ、もーにんぐ! はう! あー! ゆー!」

 スーパータカキュウ金菊根島店副店長袴田悠人のいささか流暢さを誇張しすぎた甲高い声は、クスクス笑い混じりのパート主婦連合軍の大合唱に、孤軍奮闘むなしくすべて台無しにされてしまう。それでもめげずに袴田はビールケースの壇上で背伸びして続ける。

「メアィ、ヘゥプユー?」

「めい! あい! へェるぷぅゆー!」

 「ぷぅ」のところで誰か一人――おそらく袴田の天敵にしてパート主婦連合最強のボス、大島幸代女史だろう――が頓狂な声を上げたせいで、一瞬でケラケラ笑いが伝播していく。

 さすがの袴田もついには非難の目を大島女史に向けるが、その効果はまるでない。袴田は後ろに立つ店長の村上を恨めしげに振り返った。無論、店長のこれまでの従業員教育を責めているのだ。

 ただ、店長から返ってくるのはいつものように苦笑いだけ。それどころか、ほらほらと先を促されてしまう。袴田は露骨に渋面を作り、とりあえずの意思表示をしてみせる。あとは店長が今後どう改善してくれるかだ。いや、店長が動かないなら、村上の頭を飛び越してエリアマネージャーに告げ口したっていいのだ。そう一つ踏ん切りをつけると、袴田副店長はいっそう声を張り上げた。

「ジャスタッモーメンッ、プリィーズ!」

「じゃすと、あ、もーめんとォゥ、ぷりっぷりぃーず!」

 笑いがどっと渦巻く中で袴田はげんなりした。

 二十年来、この地に定住し、増え続けるブラジル、フィリピン、中国などの出稼ぎ外国人労働者たちを相手に、身振り手振りのジェスチャーと、カタコト風だが紛れもない純日本語のみでコミュニケーションを押し通してきた彼女たちは、そもそもが東京発の「お・も・て・な・し」風潮などどこ吹く風なのである。

 たしかに彼女たちは、そんないい加減さでもこれまで外国人客相手に上手にやってきてはいる。そんな現場にいまさらマニュアル化された接客英語を浸透させようという本部通達は、少なくともこの店舗では馬耳東風、馬の耳に念仏――あるいは釈迦に説法? まさか! ――も当然のことなのかもしれない。

 ただ、袴田の苛立ちは彼女らだけに向けられているわけではない。

 本部通達――すなわち社員にとって絶対的な命令が下達されているというのに、従業員を指導すべき立場にいる店長の村上が、現場の自主性に任せようなどと暢気なことを言っているのには、この春から副店長を拝命した袴田悠人には到底納得できないことだった。

(店長にやる気がないのなら、私に一任してもらえますか)

 自分がまだ体にしみこんだ本部研修所の新築ビル臭をプンプン撒き散らしているために、鼻をつまんで臭がられていることを袴田は知っている。しかしこの店の評定が下がれば、その責任は村上店長一人が負うものではなく、副店長の自分にものしかかってくるのだ。

 本社ビルが建つ県庁所在地でも西部支部を構える第二都市でもない県中西部――しかも市の中心部から山間部へ十キロも入った僻地――に、この金菊根島店はある。この街を形容するとすれば、山々の皺の溝の日陰にこびりついたコケのようなというのが的を射ているといえる。だから、この店舗に配属されたときの屈辱感といったらなかった。同期の連中は「こんなのは研修の一環さ」と慰めてくれたが、その目は明らかに、この自分、袴田悠人をコケにしていた。

 袴田はしかし、こんなところで埋もれるつもりはなかった。必ずや社長や幹部連中たちの目に留まるような――従業員教育というただ一点だけでも――めざましい成果を挙げるつもりでいる。

 いや、それだけではおさまらない。この自分、袴田悠人は、ゆくゆくは図体ばかりばかでかいだけの村上を、頃合いの踏み台とばかりに踏んづけて飛び越え、村上のような鈍くさい店長連中を統括するエリアマネージャーの座に――いやいや、果ては本社幹部の椅子に君臨してやろうという野望を抱いている。それゆえこの野心家袴田悠人は、村上流の屁理屈ともいえる「積極的消極性」など決して容認できるはずもないのである!

「さんきゅー、べりべりまっちょ! はばないすでぇーい!」

 袴田悠人は急に絶望感に襲われた。

 子供の頃、元気なのは良いことだと両親が口癖のように言っていた。しかしそれは子供だから許されることだ。いい歳になって、ああも元気すぎるのはどうかと思う。オバサン連中の下品な笑い声が頭にガンガン響いて、イライラを通り越してフラフラしてくる。

 それもこれもあんたの教育が間違ってるからだよ――袴田はビールケースから降りて、露骨にムスッとして村上に壇上を譲った。

「それではみなさん、本日もよろしくお願いしまーす!」

 本日最初にして最後の店長の「お言葉」でしめくくられ、一同は持ち場に戻っていった。袴田は村上にぴったりと張り付くように並んでバックヤードに向かった。

「店長、我々はなめられてるんですよ」

 とくにあんたが、というイヤミはどうにか飲み込んだ。

 あの老獪なパート主婦たちの結束は鉄よりもかたい。彼女たちは、袴田の配属当初からすでに白旗を振り振りしていた村上はもちろん、エリアマネージャー、果ては社長の威厳までもどこ吹く風だ。

 それではダメだ、俺がここに来たのはこの状況を是正するためだと意気込んだ副店長袴田は、以前、村上に代わってパート主婦連の中ボス級のひとりの些細なミスを取り上げて、日頃のたるみのせいだと朝礼でパート全員を一列に並び立たせて一喝したことがある。

 すると――ああ、嫌な思い出だ――その全員がいきなり一斉に辞めると宣いはじめたのである。

 大島女史が号令をかけたことは明らかだ。ただ、だからといってどうしようもなかった。そのときは土下座一歩手前の丁重な――半べそかきながらの――謝罪で事なきを得たが、だからといって袴田は敗北宣言をしたつもりはなく、手綱をゆるめるつもりもなかった。

「ほらオカマダちゃん、シャキッとしなさい! ほら店長、あんたも! なによ、大の男がそろいもそろって背中丸めてッ」

 大島女史による毎朝恒例のババハラ――ババアパワー全開で背中をバンバン叩いてくるハラスメント――を歯を食いしばって乗り切ったはいいが、目の奥はもうすでに湿ってツーンとしていた。

「こんな状況を本部に知られたら、我々の管理責任能力が――あ!」

 袴田は急に、泣き言よりももっとずっと大事なことを思い出した。

「店長、本日十三時からSTK! 絶対に遅れないでください! 今日は社長がわざわざ西部支部にお越しになる日なんですから」

 そう言いながら、昨晩、寝る前に考えていたこの店のアピールポイントを思い出そうとしたが、現状の惨めさが目の前にちらついてきてどうにもダメだった。夢うつつの中で一つ二つはひねり出せたはずだったのに。些細なことすぎたせいだろうか、それともはたして本当にアピールするに値するものなどあったのだろうか、少なくともこの不肖袴田悠人だけは本当に必死に頑張っているのだから、村上店長には是が非でも社長にアピールしてきてもらいたい――。

「ところで、袴田君は何かスポーツやってた?」

 何を暢気なことをと思いながら、袴田はつっけんどんに答えた。

「テニスですよ。こう見えても僕、インターハイの県代表だったんですから。まあ大学じゃ、ちょっと軟派なテニサー(テニス・サークル)でしたけど」

 そのとき袴田ははっと気付いた。

(そうだ、俺にはこれがあるじゃないか!)

 たしか、社長はスポーツが大好きだと聞いたことがある。とくに何だったかは忘れたが、現に社内にはいくつも運動部があり、袴田の得意とする硬式テニス部もある。ただ、我が社のテニス部が活躍したなどまるで聞いたことがなかった。だが、なに、この袴田悠人きっと名門テニス部にしてみせる。なぜなら自分はインターハイ県代表の実力の持ち主なのだから!

 袴田は村上のムダに広い背中と、ケラケラ笑いを店中に響かせているパート連中を交互にこっそり睨み付け、ようし、いまに見てろと心に固く決意した。


 2


 STK。

 スーパー店長会議。

 人口密集地にあるわけでもない店舗の売り上げ報告はさして目立つこともなく、下降線を辿らない限りはエリアマネージャーからの特段の叱咤も激励もない。

 村上は一通り早口で報告を終えると、早々に席に着き、居並ぶ他店舗の店長連中に隠れるようにして身をちぢこめた。その理由は無論、部屋の隅にいる御大の視界に入らないようにである。

 鷹丘桂一郎はもう飽き飽きとばかりに数字と棒線ばかりの手元の会議資料から目を背けると、おもむろに避暑地スタイル風の麻混シャツの袖を几帳面にまくり上げて真っ黒く日焼けした腕を組み、さらにこれまた麻混の、齢六十にしてはカジュアルすぎる薄いブルーのカラーパンツの長い足を絡めるように組み替えて、そのつま先で眩しいほど白いスリッポンをブラブラと遊ばせはじめた。その後ろの大箱には、町一つ分の門松をかき集めてきたかのように、筒状に丸めたポスターが無数に突き立っている。店頭掲示用の特大ポスターだが、ここにいる誰もがその内容が何かはすでにわかっている。

 「横這い」と、この世で二番目に恐れている一言で要約できる西部地区全店舗の報告が終わり、当然緊張の面持ちが解けないでいるエリアマネージャーは、おそるおそる鷹丘社長を振り返った。

 鷹丘はエリアマネージャーのそんな気も知らず、それどころか鼻歌交じりに、御自ら特大ポスターをホワイトボードに貼りはじめた。

「さて――いや、もうわかってるだろうが、こういうことだ」

 鷹丘は一同を振り返って、四隅を留めたポスターをバンと叩いた。

 どこまでも突き抜ける高い空、青々とした芝生のグラウンド、真っ黒な土と真っ白いホームベース、一目でプラチナスターズとわかるゴールドストライプの純白ユニフォームに黒々と日焼けた身を包んだ若者が、必死の形相でヘッドスライディングするクロスプレイの一瞬をおさめたポスター――そして「スーパータカキュウ夏期野球大会 開催のお知らせ」と賑々しくタイトルが入っている。

 普段は西部支部のSTKなど部下任せである鷹丘が、年に一回、この時期に自ら出張ってくる理由がコレである。

 株式会社タカキュウ商事社長鷹丘桂一郎は、脱サラしてS県の田舎にこじんまりと構えていた父親の個人商店を受け継ぐと、それまで秘めていた商才を存分に発揮し、瞬く間にスーパーマーケット「スーパータカキュウ」を県下に四十七店舗展開し、さらにはファミレスや外資系に負けず劣らずオシャレなカフェチェーンを他を駆逐する勢いで展開、またスーパーの店頭に並べるあらゆる商品に関して、安全安価な自社ブランド商品を企画開発し、いまや年商一千億円を誇るS県きっての大企業へと成長させた大人物であった。そして誰もが口を揃えるのが、鷹丘桂一郎は大の野球好き――それも高校野球――だということである。無論、テニスなどではない。

 二十年来、鷹丘は毎年、甲子園出場を決めたS県の代表校にポケットマネーで尋常でないほどの寄付をしてきただけでなく、春夏両大会の開催時期になると、スーパータカキュウ主催で、格安の県代表応援&美味いもの巡りバスツアーを企画してきた。そのため、S県代表の試合となると常に大応援団がかけつけ、決勝戦と同じくらいスタンドが埋め尽くされて大盛り上がりとなるのが、甲子園の春夏の風物詩とすらなっているほどである。

 鷹丘の野球好きはそれだけに留まらず、彼は十五年前に、本部および北部支部、東部支部、西部支部それぞれに草野球チームを起ち上げさせると、それぞれの地域の草野球リーグで切磋琢磨、腕を磨かせ、そして年一回、夏の高校野球大会の終了直後に社内対抗試合を催すことを会社の恒例行事としていた。

 その野球大会は市営球場――これも鷹丘の寄付金によって立派な設備が整えられ、年に数回プロの試合も開催される――を借り切って行われ、また野球の試合のみならず、敷地内ところ狭しと屋台が出店されたり、試合終了後に豪奢な花火が一万発以上打ち上げられたりするなど、いまや草野球に興味の有る無しに関わらず、県民市民、自治体、県内他企業をも巻き込むような地域振興を兼ねた、県下で一、二を争うビッグイベントに発展するまでになっていた。

 鷹丘の野球熱はそれでもまだなお冷めやらず、八年前に念願叶えて東海マウンテンホークスという社会人野球クラブチームを旗揚げした。その五年後には、三大大会の一つ、都市対抗野球大会で連勝を続け、全国的大企業の強豪チームを下してベスト8入りを果たし、その翌年にはついに二人の選手をプロ入りさせたのである。

 あたふたするエリアマネージャーに、資料を配らせるという大役をようやく与えた後、鷹丘は朗々と大会開催の趣旨説明をはじめた。

 今夏からさらなる集客をはかって、マウンテンホークスとプロ球団の二軍とのプロアマ交流戦を行うという宣言に、野球に関心のない者たちも思わずどよめきの声を上げたが、鷹丘がさらに続けた、

「交流戦はあくまで前座だ。対抗戦こそメインイベントだ」

 という勝ち気の言葉には満場の拍手すら沸き起こった。

 村上はさりげなくちらと後ろの方を振り返った。

 しなびたじゃがいものような顔をした田畑郁夫はかたく腕を組み、しなびたじゃがいもの皮に寄った皺のようなひん曲がった口をへの字に引き結んだまま、同じくしなびたじゃがいもの芽のようなぎょろついた目をいまはぎゅっと細めて鷹丘を見据えていた。

「何が『マウンテン』なんちゃらだよ――なあ?」

 会議が終わるなり、田畑が近づいてきて村上に耳打ちした。耳打ちにしては声がデカい。村上は胸の内でうめいた。

「プロ相手にボロ負けして、分相応、御大のお名前相応に、せいぜいちっちゃなお山の大将だったって事を思い知らされろってんだ」

 何人かが聞き咎めて振り返ったが、二人が村上と田畑だと気付くとみな一様にそそくさと離れていった。村上も他人のふりをしようとしたが、否応なしに肘をつかまれて引き寄せられた。

「ムラよ、この後いいかい? メシでも食いながらさ」

 しなびたジャガイモの皺が、さっきとは逆さまにぎゅっと歪んだ。


 3


 田畑は、体育会系学生しか食わないような特盛りオムライスをペロリとたいらげ、満足げにげっぷをひとつしたかと思えば、いきなり神妙な面持ちになり、突っ伏すように村上に頭を下げた。

「頼む! 俺たちは絶対勝たなきゃならんのだ。甲子園ベスト8バッテリーの俺たちが組めば――」

「バタよ、俺はもう野球はやめたんだ」

「志織ちゃんが会社を辞める――いや、辞めさせられるんだ」

 その名は、村上の胸の古傷に一ミリも外さずに正確に突き刺さった。古傷はいままたあっという間にじくじくとした膿を滲ませはじめ、しかしそれは、ほのかに甘く香り立った。

 志織――藤野志織が会社を辞める。

 辞める理由はわかりきっている。むしろ、タカキュウ商事の看板娘、マウンテンホークスのマスコットガールの座から引きずり下ろされてからのこの二年もの間、副社長の秘書として針のむしろの上で扱き使われながらも堪えてきたことが不思議なほどだ。

 村上の傷口がもう一捻りえぐられた。志織にとって致命的となったあの光景が――村上が見たままのまさにあの光景が脳裏にまざまざと甦ってきたのである。

「あの男の腹の底はわかってるだろ? 用が済みゃお払い箱なのさ」

 田畑は吐き捨てるように言った。

 村上はその言い草には同意できなかった。村上以上にこの田畑こそ、やけっぱちになって藤野志織をスキャンダラスに破滅させる端緒となった張本人なのだ。当の本人にその自覚がないのが村上には腹立たしかった。

「今度の試合は弔い合戦だ――俺たち全員の思いをぶっつける」

「『俺たち』って――」

「俺たちみんな、志織ちゃんが好きだった――いや俺は、あの夏からずっと、彼女に勝利を捧げるために戦ってきた」

 田畑は潤んだ目で天を仰いだ。村上の胸も急に湿っぽくなった。

「あの夏か――」

 だが、はっと気付いて、急にばかばかしくなってきた。

「だいたい、志織に関しちゃ、お前が――」

「バカヤロウ、お前だよ。お前がすべてのはじまりなんだよ。お前さえ、彼女の気持ちに応えてやっていればあんなことにはならなかったんだ。それに俺だって志織ちゃんのことを――」

 田畑は感極まってテーブルをドンと叩いたが、昼食どきの店内がしんとしたのに気付いてはじめて自分が興奮しすぎていると悟ったようだった。彼は声を落として続けた。

「あのエロジジイの鼻っ柱を折ってやる。勝利を我らの永遠の女神に捧げるんだ。そして、その暁には志織ちゃんに――」

 田畑は急に顔を赤くした。村上は呆れてはいたが何も言い返さなかった。入れ込みすぎるのが常である田畑が、これまでにないほどの入れ込みようだからだ。こんなときヘタに茶々を入れたりすると、この男、また二年前のときのようにヤケを起こすかもしれない。

 ただ、田畑は意外にもなぜかあっさりと身を引いた。

「お前はきっと、自分から進んで俺たちを助けに来てくれるさ」

 田畑は粘っこく微笑むと、村上の分も勘定をして店を出ていった。

 まだ二人前は残っていようかという特盛りオムライスとともに取り残されて、村上は何もかもが嫌になってげんなりしてきた。

 残ったオムライスも食い切れそうにない。田畑の勧誘に乗る気もない。藤野志織にももう関わり合いになりたくない。ましてやこの自分が田畑率いるマッドドッグスでプレイするなど、社長に反旗を翻すも同然だ。そんなことをして鷹丘に――あるいは鷹丘の正妻でもある嫉妬深い副社長に――睨まれたくはない。

(お前とちがって、俺には妻も娘もいるんだ)

 こんな最低な気分のときには、とっておきの良い方法がある。今日という一日をまるっきりなかったことにすればいい。

 田畑のしなびたジャガイモのような顔は、青果売り場の見切り品の棚に並べてやれ。自分でない誰かが目に留めてくれるだろう。鷹丘は泥つきゴボウだ。それに志織は――そして、あの夏の後悔は――ええい、ぜんぶ一緒くたにして廃棄処分にしてやれ!

(いつもやってることだ。もう慣れっこさ)

 そうして面倒ごとをひとまとめにしていっぺんに片を付けてやると、残すに忍びないオムライスも慈愛をもってもう半分くらいは食ってやれそうだった。だが、さっき鼻腔によみがえった、藤野志織のうなじの甘い香りだけはいつまでも消えそうになかった。


 4


 娘の自転車の練習にと、親子三人で日曜日の河川敷に来てはみたものの、初夏のまだ心地よい暑さの中、視界の隅々までグラウンドというグラウンドが、サッカー、野球、テニス、ラクロス、はたまたグラウンドゴルフやゲートボールといった球技という球技に興じている、ほんの少年少女から真っ黒に日に焼けた中学高校の球児、青年中年老年、後期および末期高齢者たちで埋め尽くされ、あちらこちらで球という球が羽虫のように飛び交っていた。

 元気いっぱいで土手を駆け上がっていった満奈美だが、いきなり眼下に広がったそんな光景に圧倒されたのと、自分がいつも練習している場所が腰の曲がりきったゲートボール老人たちに占拠されているせいもあってか、なんともいえない難しげな顔をしている。

「あーらら、どこもいっぱいだわねぇ」

 妻の美夏は広大な河川敷を見渡した。彼女には、娘の自転車の練習スペースを探すことよりも他に目的があるらしい。その視線は野球グラウンドにのみ注がれ、そしてやはり、ゴールドストライプのユニフォームに目を留めたときに嬉々として喚声を上げた。

「パパ、マーちゃん! あそこ、プラチナスターズよ!」

 不器量が刻み込まれそうなほど苦虫を噛み潰したようにふてくされている娘そっちのけで、母親が草野球の練習風景に夢中になって目をこらしていても、もはや村上家にとってはごくごく当たり前の光景であった。

 自身も高校のソフトボール部で主将を務めたこともある美夏は、野球はやるより観戦する方がいいときっぱり現役を退いたいまでも自他共に認める野球好きで通っていて、とくに地元に根ざした草野球や社会人野球に傾倒しきりで、そんな彼女がタカキュウ商事に就職したのも自然の成り行きだったといえる。のちに村上とくっつくことになったのも、入社したての頃の村上がプラチナスターズ投打の要、ゆくゆくは東海マウンテンホークスの大黒柱、さらにはS県が誇る星となり、プロを目指すであろう最有望株だったからだと臆面もなく公言すらしているほどだ。

 夫に関しては残念な結末となってしまったが、マウンテンホークスに関しては村上が在籍していないにもかかわらず、起ち上げ当初からファン第一号を自負しており、しかも彼女は、公式戦、練習試合問わず、マウンテンホークスの全試合を追っかけてはスコアブックを付けることを無上の喜びとさえしていた。また、マウンテンホークス出身のプロ選手がついに一軍スターティングメンバーとなる機会が訪れると聞くと、家事育児ほったらかしで札幌まで追っかけていったことすらあった。

 しかも、いつの間に話を取り付けたのか、今度の大会では本部のセントラルプラチナスターズ、北のノーザンブラッディベアーズ、東のイースタンディープシャークス、西のウェスタンマッドドッグスそれぞれの選手名鑑を観客に配布したいと鷹丘社長直々に依頼されたらしく、美夏はここのところ昼間は満奈美を自分の実家にあずけると、鷹丘社長直属の広報記者という肩書きをひっさげ、選手が所属している部署に突撃取材に走りまわり、夜は夜で昔取った杵柄、株式会社タカキュウ商事総務部広報課に在籍中、毎号毎号評価の高かった社内報担当主任編集員として培ったパソコンテクを駆使した編集作業にかかりきりになっていた。

 妻が、期待の新入社員にして甲子園ベスト16投手の堂本と、その伸びのいい球を弾けるようないい音で受けとめる鷹丘御大のところへと、嬉々として――夢見るような眼差しで――土手をほとんど転げるように駆け下りていくのを止める権利は村上にはなかった。

 ただ、満奈美の自転車の練習というのもここへ来る口実だったのかなとふと思い至ると、自分などはともかく、取り残された五歳児の表情ににじむ哀愁がどうにも胸に浸みて痛むのだった。

「マーちゃん、アイスキャンデーでも食べようか?」

 河川敷に下りると風がとまってじりじりと陽が肌を焦がそうとしてくる。急いでアイスキャンデー売りのパラソルに駆け込み、父娘はほっと息をついた。

「パパはもう野球しないの、どうして?」

 小さな前歯で黙々とアイスキャンデーをかじっていた娘が不意にそう訊いてきた。満奈美には自分のユニフォーム姿を見せたことはない。美夏が昔の写真をアルバムにしているから、それをいつか覗いたことがあるのだろう。

「パパはね、ケガしてボールを投げられなくなっちゃったんだ」

 それが事実だった頃もあるが、愛娘への返答としてはかなり不誠実だった。肩も肘も、甲子園準々決勝敗退の翌年には完治している。癒え切れていないのは、あの九回裏のホームベース上でのクロスプレイで負った傷だけだった。ただそれも、近頃は忘れられる時間が多くなってきている。

「ボールなんかバットで打ったらいいでしょ! バッターかわりまして、代打パパ!」

 恐るべし五歳児とぎょっとしたが、子供の成長とはそんなものかと思い直した。屁理屈ではもうごまかしがきかない。

 満奈美の視線の遠く先には美夏がいた。堂本の投球練習を中断させたようだが、御大にも臆することなく三人で談笑中だ。

 自分も満奈美も、ああも社交的にはなれない。ふと気付くと、こんなにもたくさんの人が犇めく中で、自分と娘だけは天涯孤独なのかもしれない。妻であり、母である人よりも、アイスキャンデー売りのおばさんのほうが近い存在に思えてきたりもする。

「野球なんかキライ」

 満奈美がぼそりと言った。村上は慌てて満奈美の顔を自分に向けさせた。まさか母親に対してではないだろうが、あの三人のうちの誰かを呪い殺すような目で睨んでいたからだ。

「パパ、自転車のうしろ持つの、ママじゃなきゃイヤだからね」

 今朝はパパじゃなきゃイヤと言ってぐずったのに――ともするとまたも目つきが悪くなってくる満奈美を有無を言わさず肩に乗せると、彼女はようやくキャッキャと声を立てて明るい顔をしてくれた。

「ほらマーちゃん、おっきな声でママを呼んで」

「ママァッ!」

 美夏が手を振り返してきたとき、村上は鷹丘と目が合った。

 談笑の笑みを残したままの口元は、村上を見ても何も変化はなかった。ただ、目だけは冷めている――そう思わせる原因は村上の側にこそあるのかもしれない。まさか、いまさらかつてのような温かな眼差しを期待するような歳でもあるまいと、村上は思い直した。そして鷹丘に軽く会釈した。他の社員なら許されないだろうが、村上と鷹丘の関係で、いまくらいの距離感――物理的にも精神的にも――なら、わざわざ行って、へりくだった挨拶をするまでもない。

 鷹丘の方でも、ただ小さく顎をつんと上げ、村上以上に軽く返してきた。そして興味などないといったように目を逸らすと、美夏と談笑を再開させた。それで村上はどこかほっとしたような気がした。

「野球なんか、なくなっちゃえばいいのに」

 満奈美はずるずると村上の肩から滑り降りると、ぼそりとつぶやいた。五歳児の捨て台詞は、ましてや我が子のものとなると、これは相当こたえるものだと村上ははじめて思い知らされた。


 5


 結局、一日中ご機嫌斜めだった満奈美も、ファミレスのお子様プレートに食べきれないほどの特大パフェを添えてやると、渋々ながら納得の笑顔を見せてくれ、こうして親子三人で川の字になって寝るまでには、どうにか母親との関係も修復できたようだった。

 ただ、その美夏は、満奈美が寝ついたとみると、おもむろに枕元のノートパソコンを開いて音高くキーをたたきはじめた。

「これも仕事よ」

 美夏は先回りして言い訳した。

「ご苦労なことですな」

 村上は二割ほど皮肉を込めて答えた。特大のクリームあんみつごときでは、五歳児のように懐柔されるはずもなかった。

 結局、雑草生い茂る河川敷の隅っこで、どことなく気まずい雰囲気の中、夕方まで満奈美の自転車の練習に付き合ったのは自分一人だけで、美夏は娘が遠くからちらちらと見咎めるのもまるで気付くそぶりも見せず、当然のようにプラチナスターズの練習に終始つきっきりだったのだ。

「堂本君、すぐにもマウンテンホークスに昇格させるかもだって。社長がね、自分のオモチャにしておくのはもったいないって――で、今度の対抗戦での登板が最終テストってわけ」

「マッドドッグスなんか惨敗だろうな」

 村上は適当に相槌を打った。美夏はキーを叩きながら続けた。

「甲子園ベスト16投手だもの、当然よ」

「俺はベスト8だ」

 村上ははっとまどろみから醒めた。無意識に口走ってしまっていた。キーボードの音が止んでいた。

「そう、高校通算防御率一.五四、奪三振数二五八。それにくわえて、通算打率三割九分五厘、本塁打四十六本の県最強四番バッター」

 キーボードが再び――やや乱暴に音をたてはじめた。

「過去の数字なんて意味ないんだけどね」

 意味がないのは「過去」なのか「数字」なのかと、村上は考えてみた。不意に、村上本人がそれらの意味を失わせたということに、美夏の真意があるのだと気付いた。

「満奈美に言われちゃったよ。パパは野球しないのかって」

 キーボードがまた静かになった。美夏の手が伸びてきて、村上の肩を優しくさすった。美夏はすまなそうに微笑んでいた。

「パパはいまのパパのままでいいんだからね」

 村上はうんと応えると目を閉じた。満奈美の言葉、そして美夏の言葉を反芻しているうちに、まどろみがぶりかえしてきた。その中で、村上はやはり妻と娘に負い目を感じていた。

 かつて美夏は、村上達也という野球人に夢を抱いてくれていた一人だった。美夏はとくに、夏の甲子園の土煙るホームベース上で折れた心もひっくるめて、出会った頃から村上という人間を理解しようと、真の再起の支えになろうとしてくれていた。

 それなのに村上はずっと、自分は野球への情熱を取り戻すことがもう微塵もないことを隠していた。ただ野球をやるしか能のない男だったから、ただ一人、心変わりすることなくあこがれの眼差しを向けてくる美夏の手前、漫然と野球を続けてきたにすぎなかった。

 美夏が妊娠したのを機に、村上は野球を辞めると宣言した。

 その頃にはもう、美夏と田畑を除いて、野球選手としての村上に期待する者は誰もいなかった。だから村上もまた、引退宣言することに抵抗がなかった。少なくとも美夏がどう思うかが気がかりでなかなか言い出せなかっただけだった。だが、いつまでも真意を隠して嘘をつき続けるのは姑息だし、美夏と彼女の腹の中の子に対して誠実ではなかった。卑怯ですらあった。そのことを将来、我が子に知られたらきっと失望されるかもしれないという恐れもあった。

 ただ、美夏もやはり村上に掛ける期待は薄れていたのかもしれない。彼女は夫の考えをすんなりと受け入れた。そのとき、「夢ばかり追ってはいられないものね」と、自分の膨らみかけた腹を見つめてつぶやいたのを、村上は忘れられないでいる。

 近頃また、美夏は村上に気遣うことなく、目を輝かしながら野球のことを語るようになった。彼女は彼女なりに新たな夢を抱いているのだ。彼女には、堂本の社会人野球クラブマウンテンホークス入団、そしてその先にはプロ転向という希望も見えているのだろう。

 ただ、あの若者はあくまで他人だ。美夏のこのところの張り切りようを、村上は少し寂しく感じていた。


 6


 藤野志織という女に、それが初見であろうが毎日職場で見慣れていようが、はたまた既婚者であろうが新婚であろうが、その顔や立ち姿が視界に入ったときにはっと息をのんでしまう男は、男として正常であり、すこぶる健全である証といえよう。

 かつてはその要因が、彼女の大きな目と形のよい唇、相対する男を見上げないくらいのほどよい背丈ながらも八頭身を決定づける小さな顔、誰が見ても真実、笑顔の華やかさと健やかさ、それにグラマラスすぎない可憐なプロポーション等々にあると男たちは口々に夢見心地に語ったものだが、ほんとうはそんな表面的なものではなく、彼女が醸しだす、ほのかに脆く儚げな空気感にこそあるのだと村上は確信している。そしてそれは実は、彼女の危険な一面の顕れでもあった。他の男たちがその点に気付かないのは仕方なく、それは村上だからこそわかることだった。

 ただ、その危険な一面はのちに男たち全員に知れわたり、かなり誇張した、それでいて冷ややかな、酷な揶揄をもって受け止められることとなる。藤野志織は魔性の女、そして社長のオンナだと。

 村上は志織が悪魔的な性質をもっているとは思わない。中学、高校の六年間を通して野球部のマネージャーだった志織のことは誰よりも知っている。彼女は自分にも他人にもどんなときでもど真ん中直球勝負をしているだけで、それが純粋なストレートに見えるか魔球に見えるかは打席に立つ者の気持ちの有り様によるのだ。

 ただ、直球と見切って真っ向勝負したところで誰もかすりもできない。ならば魔球にちがいあるまいと勘繰った者は、はなから手が出ない。かと思えば、試合終了を告げられた後でもいまだに幻の球筋に空振りを続けている田畑のような輩もいる。村上はといえば、バットに当てることができたはずの唯一の男でありながらも、最後の最後に直球ど真ん中を見送った。

 そんな中、志織のボールを悠然と打ち返すことができたのは、鷹丘桂一郎御大ただ一人だったというわけである。


 この流刑地然とした辺境に突如現れた志織は、もはやかつて男たちに崇められてきた女神ではなくなっていた。

 この昼下がりの晴天の太陽より神々しく放っていたはずの後光はいまや陰りをみせ、少し頬が痩せ、それを昔より短くした髪の毛で隠すように俯きがちなのは、この二年間、針のむしろの上で積み重ねてきた憔悴からくるものにちがいなかった。

 そんな姿に、村上は思わず弁当の箸を止め、胸の内でうめいた。

 志織はやっと表情を緩め、小さな胸の横で小さく手を振った。

「お邪魔かな、村上君?」

「いや、いいんだ。すぐ片付けるから」

 村上はそう言うと急いで――ちらちらと志織をこっそり覗き見ながら――仕出し弁当の残りをかきこんだ。

 志織は所在なげにぶらぶらして、堆肥香り立つ田んぼや、迫る山並みを見渡したりしていた。その立ち姿や歩き方からして、少なくとも体までは壊してはいないようで、村上はいくらか安堵した。

 村上は空の弁当箱を片付けて、副店長にちょっと出てくると告げると、志織に声を掛けて車に乗り込んだ。袴田が訝しげに村上たちを見送っていることに気付いたが、構うものかと村上は開き直った。何も知らない袴田にいまさら不倫だ何だと噂を立てられようが、もはや真偽お構いなしの泥沼メロドラマのようなお話が、社員のみならずパート主婦連にまで浸透してしまっているのだ。

 村上と志織は中学生からの恋仲だった。それを鷹丘御大が横取りした。それを恨んで、あるいは恋人を取り戻すため、村上は鷹丘の不倫を暴露した。しかし二人はよりいっそう引き離されることとなった――噂など、真相の上っ面を撫でる程度のものでしかない。

 マッドドッグスが普段練習している河川敷のグラウンドでは、いまは中学生たちが練習に励んでいた。梅雨の長雨の時期には「沼」と呼ばれる外野の土も、雨を忘れて夏を先走らせる好天続きのおかげで乾ききっていた。舞い上がった土埃が風に流され、軟球の鈍い打音や少年たちのかけ声と一緒に土手の上にも届いてくる。

「来るとき、電車からここが見えたの」

 志織は嬉しそうに言った。

 村上はとても同じ気持ちにはなれそうになかった。村上は一度ならず、二度も彼女から野球を奪ってしまった負い目があった。

「まだ、野球は好きでいるのかい」

「当たり前じゃない」

 志織は振り返って驚いた顔をした。

「野球って、プレイする人たちだけのものじゃないのよ」

 志織は言った。かつて、その後に続いた言葉を村上は憶えている。

(そこに達也君がいなくっても、あたしはそこで夢を追い続けていたいの)

 志織はそんな言葉を残して村上から離れていった。村上がもはや野球への情熱をすっかり失っていたことを、彼女は誰よりも早く、しかも的確に――情熱を取り戻す術もその気もないことを――見抜いていたのである。

 村上は、後を追いかけて引き留めなかったことを後悔していた。かといって、去って行く志織を引き留められるだけの理由も資格も、そのときも、そしていままでも一度も持ち合わせたことはなかった。

「最近はどうしてたんだい?」

 話題を変えようとしてみたが、あまりうまくはいかなかった。二年前まで、グラウンド上で尽きることのない愛くるしさを振りまいていたマスコットガールの横顔が、途端に十も老けたようにみえた。

「あたし、会社辞めるんだ」

「それは聞いた――バタのやつからね」

 志織が恥ずかしそうに顔を伏せたのは、あの騒動のこと――いや、あの瞬間のことを思い出しているのだろう。村上にとっても、ラブホテルの駐車場から助手席に志織を乗せた鷹丘の車が出てくる光景など、もっとも掘り起こしたくない記憶だった。

「あいつはいまでも君のことを想ってるようだよ。いや、責任を感じているというか――いや、俺さえ黙っていれば――」

 こうはならなかった、と言いかけたが、言ったところで振り出しに戻せるわけではない。

 村上は、酔いに任せて同僚の一人に明かした秘密があれほど瞬く間に広がっていくとは思いもしなかった。

 その秘密は無論、田畑の耳にも届いた。田畑は志織が鷹丘に手籠めにされたと思い込み、青臭く潔癖すぎる正義感をもって猪突猛進――否、これまた酔った勢いで報復に出たのである。そのときの酩酊状態の鈍った思考からしてみれば最高の舞台と効果的な演出だったのだろうが、引き起こした結果は最悪だった。

 その頃には、村上が目撃した真実は、下世話な噂の性(さが)か、社内の隅々に広まる過程で余計で過激な尾ひれをいくつもぶら下げるようになってほとんど都市伝説化し、藤野志織という女は社長をもオトす魔性の女であるという、志織にとっては不名誉な噂に変貌して社員、従業員の間で広く周知されていた――ある一人を除いては。

 その事件は、年一度の熱海への社員旅行の、社長麾下、役員から末端のパート従業員まで全員揃った無礼講の大宴席にて、上司の悪口を若手社員から一人一つずつ発表していくという鷹丘社長自ら提案したとびっきりスリリングな趣向のただ中で起きた。

 上司たちの顔色をうかがってばかりの若手たちのせいで当初の高揚も白けはじめてきたあたりで、いきなり田畑が立ち上がって妙に据わった目をすると、まるで労働争議の音頭を取るかのように拳を振り上げ、声高らかに鷹丘社長の不倫を暴露しはじめ、あろうことか社長退任まで迫ったのである。

 宴会場のどよめきは、その暴露への驚きではなかった。皆が一様に、鷹丘社長の隣にどっしりと鎮座している副社長――鷹丘の正妻――の顔色をうかがったのである。

 副社長はそのときはじめて、いままで自分だけが蚊帳の外に置かれていたことに気付いたのだった。

 深夜、田畑は副社長に呼び出された。その田畑が自分の亭主の相手の女が誰かを頑として喋らないとわかると、他に田畑周辺の何人かが呼びつけられ、そこからはさらに一人また一人と、まるで芋の蔓をたぐるように社員が呼び出されていった。

 明け方頃、ついに一睡もできずにいた村上のもとへ、息も絶え絶えの同僚が訪れた。

「副社長が――お呼びだ」

 その夜からあらためて用意された鷹丘夫人の一人部屋で、意外だったのは、村上はイエスかノーかで答えなさいとだけ静かに命じられたことだった。

 夜を徹した聞き取り調査の結果、村上すら知らなかった鷹丘と志織の不倫の証拠はすでに出そろっていた。つまり、いつも噂にくっついていたいくつもの尾ひれは、実は飾り物などではなく、他の社員たちがそれぞれ独自に見知った事実そのものだったのである。噂の端緒はたしかに村上だったが、この一夜のうちに、いまや騒動の中心は村上のほとんど与り知らぬところにあった。それゆえ、かつて師であり父であり恩人であった鷹丘桂一郎と一度は深く愛した恋人の両方をかばおうとして、嘘をついたりシラを切り通したりしてもまったくの無駄でしかなく、それでも彼らに義理を通すつもりなら、家族――娘さん、満奈美ちゃんっていったわね? たしか今年で三歳よね? かわいい盛りよね――を路頭に迷わす覚悟をしてからにしなさいと、村上は念を押された。

「あなたは三年前の十二月二十二日の夜九時過ぎ、ホテル・ラ・メールから出てきたウチのベンツを見たのね?」

「運転席にいたのはウチの亭主、鷹丘社長だったのは確かね?」

「助手席にいたのは広報課の藤野志織でまちがいないわね?」

 さすがに一晩中たった一人で聴取ならぬ精神的拷問請負人の任を負ってきた鷹丘夫人の目にも疲れの色が滲んでいたが、このときは再び残忍な光を放ちはじめていた。村上はぐっと怯えを飲み込んだ。

「ええと、暗かったのであまりよく見えなかったもので――さあどうだったか――私に聞かれましても――」

 ほんの一分前に脅迫そのものの警告を受けていたにもかかわらず、村上はなぜそう答えたのか憶えていない。鷹丘夫人の言うとおり、まったくの他人とはいえない関係を築いてきた鷹丘社長と志織の二人に義理を感じていたのかもしれない。あるいは、これ以上彼らに負い目を感じたくなかったからなのかもしれない。

 週明けには内示などないまま人事の辞令が下った。それは、本部勤務のエリアマネージャーだった村上と田畑がそれぞれ職位維持ながら僻地の店舗の店長へ異動というもので、いずれもやはり左遷された者が行き着く、流刑地というにふさわしい任地だった。

 志織はというと、彼女は広報課の一事務員から副社長秘書に大抜擢された。しかしそれは、彼女からマスコットガールをはじめ野球に携わる業務すべてを取り上げるためのものであることは誰の目にも明らかだった。

 それからの二年間、志織は副社長――鷹丘夫人に年中いびられ、扱き使われてきたという。ほどよくふっくらしていた頬が、いまでは頬骨から顎の先までそっくり削ぎ落とされているようだった。

 村上の視線を感じたのか、志織は痩せた頬を両手で覆い隠した。

「あたしね、後悔はしてないの。桂一郎さんは――鷹丘社長は夢を見せてくれる人だった。誰かさんとちがってね」

 志織はいたずらっぽい目をして村上を見上げた。ほんの冗談程度の皮肉のつもりだろうが、村上にはこたえるものだった。彼女は夢を叶えるどころか、夢から引き離される一方なのだ。

「これからどうするんだい?」

 そう訊くと、彼女は口元を引き結んで首を振った。村上は慌てた。

「夢を追うんだろ?」

「野球は好きよ――これからもずっと」

「いろんな形があるさ――」

 ウチのカミさんみたいにさ、と言いかけてやめた。

「そうね。諦めたわけじゃないわ。どこか別の土地でなら――」

 そのとき、志織の頬に涙が流れた。それは一瞬のうちに彼女の手の甲で拭われた。だが、そのあとを涙がふたすじ追いかけた。今度はそれを村上に隠そうともしなかった。

「ああ、やっぱり来なきゃよかった! 村上君なんかに会いに来なきゃよかった! だって! だって――達也君と一緒にいた頃がいちばん夢を身近に感じられたから――どうしたって思い出しちゃう、どうしたって忘れられない!」

 志織は両手で顔を覆うと、声を殺して泣きはじめた。

 村上は志織に歩み寄った。その胸に、細い体が飛び込んできた。出がけに洗った――そう、志織は出かける前には髪を洗うのだ――彼女の髪の匂いが鼻腔をつき、ああ、俺はいったいなんだってんだ、と村上は頭がくらくらしてきた。 


 7


 将来の夢は? 目標は? 大人になったら何になりたい?

 野球少年だった頃の村上は、チームメイトたちがもちろんプロ野球選手だなどと暢気に夢のまた夢を語っているところで、ひとり生真面目に「甲子園で優勝することです」と答えていた。

 超高校級の者だけがプロ野球選手になれるのだと子供ながらに悟っていた村上は、自分には野球の才能があるわけではない、だから高校を卒業したら野球を辞めて、パート勤めの母の代わりに自分が稼ぎ頭になるのが当然だと考えていた。甲子園優勝はそんな村上のせめてもの最大最高の目標であり、夢だったのである。

 ボール半個の精度で自在にコントロールできる投球センスがあれば考え直しただろう。球速が常時一五〇キロを超える剛速球投手であれば持って生まれた才能を信じることができたはずだ。打席に立つたび、来る球すべてを見極められる目とバットコントロールがあれば、打者として身を立てていたかもしれない。

 しかし、村上は非凡ではなかった。

 打席に立てば常に迷ってばかりだった。背が高く、周囲から期待されるとおりの目の醒めるような剛速球を投げることはときおりできても、貧しい母子家庭の悲しい現実で、技術面・体力面での強化には金に糸目を付けない甲子園出場常連の県内強豪校への入学もできなかったし、高タンパク質摂取が必須の、連投に耐えられるような体格作りも満足にはできなかった。

 それでも村上は現実を受け入れ、甲子園に向かってできるかぎりの努力をした。その甲斐もあって、高校最後の夏には甲子園のマウンドに立つことができた――。


 準々決勝、一点を追う九回裏、先頭打者が死球で出塁、直後盗塁を決めて一打同点のランナー二塁。しかし二人続けて内野ゴロの凡打、二塁ランナーのさらなる進塁を許さないままあっという間にツーアウト。打順は四番村上に回ってきた。「あと一人!」と相手側応援席の歓喜の大合唱を背に受けて、村上は静かに打席に立った。

「ムラ! 俺に回せよ!」

 ネクストバッターズサークルで気合い十分の田畑だが、彼は地区予選でこそ爆発したが、本戦がはじまってからはまるで当たっていなかった。一方で村上は、予選からの打率でいえば四割強。ホームランもここ甲子園球場に来てからすでに三本打っている。ヒットでも同点には持ち込めるが、田畑が期待できない以上、自分のところで決めるしかなかった。

 逆転サヨナラホームラン。

 思えば、はじめて分を超えた夢を抱いた瞬間だった。

 しかし、その願望の元をたどれば、それはごくごく消極的な理由にすぎなかった。村上は延長戦を避けたかっただけだったのである。

 村上はそのとき、もげるような肩の痛みを必死でこらえていた。誰にも打ち明けられなかった。マウンド上では、女房役である田畑にも気付かれないように手加減せずに腕を振っていたが、もはや限界をとうに越えていた。延長戦になったら、敵軍のクリーンアップを抑えきれる代わりの投手はいなかった。だから、ここでホームランを決めて終わらせたかった。ただ、その実、根拠薄弱の夢想に背中を押されたというにすぎず、村上はすでに焦りと怯えの巨大な牙に頭から食い付かれていた。

 振り遅れのファールチップを五回も続けたあと、村上のバットは真芯で球を捉えた。しかしそれはホームランになるような打球ではなく、一塁線ギリギリを駆け抜ける低く鋭い打球となった。

 フェンスに当たったボールは思いがけない方向へ跳ね返り、ボールを追う右翼手から逃げていく。

 村上は二塁を蹴った。「滑れ!」と叫び、ジェスチャーでスライディングを指示していた三塁コーチが目を剥いて動きを止めた。同時に、ベース上で返球を待ち構える三塁手が大きく伸び上がった。

 悪送球だ――村上は猛然と三塁を蹴って回った。

 いける、と思った。なにをバカなことを、とも思った。

 ホームベースまであと五歩。キャッチャーがホームベースのちょうど真上にかがみこんだ。村上は頭から滑り込んだ。その瞬間、キャッチャーミットに白い球が吸い込まれた。

 村上の手は、ベースの五センチ手前ではたき落とされた。

 延長十回の表、三失点後の投手交代も頑として拒み、その後、肩がちぎれるほど投げてマウンド上で失神するまで、村上は九失点を喫した。その裏の回は、田畑をはじめ、涙のせいで打者三人ともボールにかすることすらできなかった。


(パパはどうして野球しないの?)

(パパはいまのパパのままでいればいいんだからね)

(達也君は、あそこに――あの甲子園でのクロスプレイに、すべてを置いてきてしまったのよ)

 村上ははっと我に返った。全身から汗が噴き出ていた。いつの間にか陽が落ちかけていて、黒々とした河川敷の真ん中で、川面が白く発光していた。車内には、志織の残り香がまだかすかにあった。

 村上は心を掻き乱す雑念を振り切ろうとして、車を降り、まだ暑気残る夕暮れの土手の上に立った。車の後ろに回ると、トランクにずっと積んだままのバットを引っ張り出した。

 べたつくバットのグリップをぎゅっと握ると、まざまざと、あのときの一塁線を駆け抜ける強烈なライナーの手応えを思い出した。村上は歯を食いしばってそのイメージを追い出そうとした。だが同時に、歯を食いしばってそのイメージを引き留めてもいた。

(くそッ!)

 思い出したくないのか、それともあのときの感情を呼び起こして打ちのめされたいのか、村上は自分の本心がわからなかった。

 村上は斜面を駆け下りていって、人気のなくなったグラウンドに立った。陽は向こう岸の土手に隠れ、土のグラウンドには闇が迫っていた。村上には、その闇にあの日あの瞬間の光景が見えていた。

 村上は滅茶苦茶にバットを振った。どんなにでたらめに振っていても、振るたびに寸分違わずあの真芯を食った最高の感触があった。しかしそのどれもが村上に挫折を思い起こさせた。そのうちに手の皮が破れた。それでも村上は振り続けた。やがてグリップがぬめりだし、ついにはぬるりと滑ってすっぽ抜け、バットがくるくる回転しながら空高く飛んでいった。

(どうかしてる――いったいなんだってんだ、俺は!)

 外野に落ちたバットを拾いに行こうとして、村上は不意に手の平に刺すような痛みを覚えた。手の平の皮がべろりと剥けて、肉を剥き出しにしていた。傷から血がにじみ、かっと熱くなってきた。

(俺にも、たぎる血がまだ残っているというわけか)

 村上はバットを拾うと、急におかしさがこみ上げてきた。残っているわけじゃない、あのクロスプレイで、俺はいまだ止まっているのだと気付いたのである。


「君のガッツは見せてもらった」

 校長室に呼び出された村上を待っていたのは、鷹丘桂一郎だった。彼は半年も先の、村上の卒業後の身の振り方についていくつか訊ねると、最後には一つしかない返事を迫った。それでも村上が返事に窮していると、鷹丘は否も応もなく言った。

「君が野球を続けることを、お母さんはとても喜んでいたよ」

 鷹丘は、村上にとってまちがいなく彼の味方であり、十回表の独善的九失点の数少ない支持者だった。

 それまでは、母親と田畑の二人以外、チームメイトをはじめ、周囲の者たちは村上を非難の目で見るか、そうでなければ――志織を筆頭にこちらがほとんど大多数だが――抜け殻のようになってしまった村上を憐憫の目で見るかのどちらかだった。

 ところが、野球好きで名を知られる地元の名士鷹丘桂一郎が、倒れるまで投げ抜いた村上のその心意気良しと、地元新聞の不定期コラム記事で支持を表明すると、村上をとりまく周囲の目は一変し、彼を伝説的英雄として賞賛するようになったのである。

 その翌春、村上と田畑は株式会社タカキュウ商事に入社し、その社内草野球チームであるプラチナスターズの一員として歓迎された。また村上たちのマネージャーだった志織も、入社二年目の美夏がすでに辣腕を振るっていた広報課のPR部門に迎えられることとなった。

 村上はじっくり肩を休め、その年の県央地区リーグ戦終盤ごろから投球練習を再開した。その頃から、鷹丘は社会人野球クラブチーム旗揚げ構想を形にしようと水面下で動きはじめていた。のちに情報通の美夏の聞くところによると、鷹丘の考えでは、村上の存在こそがその構想の要だったのだという。

 村上はその期待の重圧に耐えられなかった。自分の野球への熱意は、あの夏のホームベースの五センチ手前に置き去りにしてきたままだったからである。そしてそのことは、志織だけが見抜いていた。

 ただ、志織以外の者たちの目には、村上の熱意が失われたきっかけは母親の急逝のせいだと映っている。だからこそ鷹丘は自らが村上の父親代わりになると明言し、実際、物心両方の面から村上を我が子以上に我が子として尽くしてきた。村上は心底、その気持ちに応えたいと思って、再びあの夏の続きを取り戻そうと真剣に野球に打ち込んでみたりもした。だが、打ち込めば打ち込むほど、あの夏にあった熱はやはりどうしても取り戻せそうにないことを悟ってしまっていたのである。

 志織は村上から離れていった。やがて、鷹丘も気付いた。鷹丘は二年後には計画どおりクラブチームを起ち上げたが、最後通牒ともいえた入団の誘いを、村上は辞退した。

 それでも野球は惰性で続けていた。いつ辞めても良かったが、その頃、社内報のインタビュー取材を通して知り合った美夏の、

「とりあえず気楽に続けてみたら?」

 という勧めもあって、最終的な決断をしてこなかっただけだった。それでも美夏の妊娠をきっかけにして、村上は野球と決別した。

 

(決別だって?)

 村上は我に返った。薄闇の中で、無我夢中でバットを振っていた。血まみれの手でまくった袖が、血と汗でぬめるたびに拭いたシャツの胸が、黒っぽく汚れていた。

(志織、俺だってそうだ。どうしたって思い出しちまうんだ! どうしたって忘れられないんだ!)

 村上はうずくまった。歯を食いしばって嗚咽をこらえた。腹に飲み込んだ熱い涙が、愚かだった自分への怒りの猛火で炙られ、これまで空しさでからっぽだった胸を満たして熱く沸騰しはじめた。

 村上は猛然と立ち上がり、藍色の天に高々とバットを突き上げた。そして、無心に振り続けた。それがあの夏を戦った全盛期の頃の鋭さ以上に研ぎ澄まされて、闇に一閃する金属光が寸分違わぬ軌道を描くようになるまで、村上の手の平の血はしとどに流れ続けた。

 

 8

 

「ほんとうに――ほんとうに信じていいんだよね?」

 村上の赤くズル剥けた手の平にワセリンを塗り込みながら、美夏はさっきから何度もおそるおそる訊いてくる。

「だって、だってさ!」

 血まみれのバットを手にし、返り血を浴びたようなシャツで帰ってきた夫を見るなり、美夏は卒倒してしまった。夫がどこかで人を殺してきたと思ったのだという。満奈美と二人で慌てて介抱し、目が醒めても顔面蒼白の美夏にどうにか事情をのみこませ、いまやっと治療してもらえている。

「美夏ちゃんの目から見て、いまのおれはどうだい?」

 包帯を厚く巻いてもらうと、村上は美夏を見上げて訊いた。

「人殺しみたい――というのは置いといてってことよね」

 美夏は専門のトレーナーのような目つきをして、シャツを脱いだ村上の体をしげしげと眺め回した。

「栄養管理をしてきた甲斐はあったようね。無駄な脂肪はついてないようだし。オーケー、一ヶ月後の大会にはかなり使えるモノにしてみせるわ。まったく、どういう風の吹き回しか知らないけど――」

 美夏はそう言いながら夫を自分の胸に抱きすくめた。満奈美も無言で駆け寄ってきて村上の首に手を回して抱きつき、村上は、ああ映画か何かで見たような光景だなと胸を熱くさせながら、じんじんと脈打つ両手で妻と娘をきつく抱きしめた。

「マーちゃん、パパ、明日から頑張るからね」

 そのとき美夏は村上を突き放して言った。

「何をのんきなこと言ってるの、いまからにきまってるでしょ!」


 9


 スーパータカキュウ金菊根島店副店長袴田悠人は、中学生の頃、社会見学で風力発電所を訪れたことがある。巨大な風車の羽根が空を駆け巡っては振り下ろされてくるたびに発生する鈍く太い、腹を圧する風切り音に、男ならわかるだろうが、まだ精神的にも経験的にも未熟だというのに思春期の頃になると唐突に男としての尊厳と誇りと存在意義を問われはじめる男子のみが有するある部分が、情けないほどにきゅっと縮みあがりどおしだったのを憶えている。

 あのときソコに刻み込まれた記憶が、いままた袴田にまざまざと甦ってきていた。

 ナニもかもすくみあがるようなその嫌な音は、どうもバックヤードをすぐ出たところで発生しているようだった。しかしそこではいま時分、村上店長が梱包の段ボールを片付けているはずだった。

 はじめのうちは何の音かと気になりながらも在庫データのチェックを続けていたが、記憶の奥底に閉じ込めたはずのトラウマの扉が一枚一枚と暴かれていくうちになんだか心までがあの頃に戻ってしまったようで、無性にみじめになってきた。ただ、こんな真っ昼間から大の大人が恐れるものなどあるものかと気を奮い立たせ、ひとつ股間を握りしめてから、袴田はついに席を立った。

 店の裏手へと通じるドアをおそるおそる開けると、不思議と音がぴたりと止んだ。外では、村上店長が段ボールを畳んでいるところだった。よく見るいつもの風景で、何も変わったところはない。

「袴田君、どうかした?」

「なんか妙な音がしてませんでした? ブォッ、ブォッって」

 店長は首をひねった。店長もいて心強いことだし、袴田は音の発生源を探して回った。結局何も見つけられず、見慣れないものといえば、妙な鉄の棒が立てかけてあったことだけだった。

 その鉄棒は一メートルほどの長さで、持ってみると鉛が詰まっているかというほどやたら重く、思わず取り落としてしまった。すると、なぜか慌てた村上が袴田の手からその鉄棒をサッと取り上げた。

「なんだろコレ? ついでだから片付けておくよ」

 狐につままれたような面持ちで事務所に戻ると、また音がしはじめた。袴田はぶるっと身震いした――そして案の定、袴田のソコはきゅっと小さくちぢみあがっている。

 考えるのはやめだ、気にするから気になるんだ、たぶんエアコンの不調かなにかで壁の中の配管かなにかが唸りやなにかを立てていて、それが反響かなにかしているだけかもしれない、明日にでも業者を呼んで調べてもらおう――そう考えて建物の施工業者の番号を調べて点検の依頼を取り付けると、不思議と恐怖心が薄れてくるようだった。ただ、この音は原因不明のままこの後も何週間も鳴り続けた。それゆえ、やはり袴田のアソコも心もみじめな状態が何週間も続いたのである。


 妙なことといえばもう一つあった。

 袴田悠人は勤勉な両親に育てられたこともあって、根は真面目だった。大学で男女の不純異性交遊が主目的といってもいい軟派なテニスサークルに入会したのは両親の厳格な教育方針に従順に従い続けてきたことの反動で、たびたび新入生の女子を泣かせることもあったが、それも学生のうちだけと割り切って、就職したら真面目になることを固く誓い、タカキュウ商事に勤めだしてからはその誓いを実践するように心がけていた。

 だから新人研修の頃は当然で、この店舗に配属になってからも少しもめげずに誰よりも早く出勤し、誰よりも早く仕事に取りかかり、誰よりも多く仕事をすることをモットーにしていた。

 ところが、このところどういうわけか、村上店長の方が自分より先に出勤しているらしいのだ。

 「らしい」というのは、どうも店長は朝一番に出勤しても仕事をしているわけではなく、どこかそのへんをぶらぶらしているだけらしく、袴田が始業前からたった一人で開店準備に取りかかっているところへ、ひょっこりとジョギングスーツ姿で「始業までまだ時間があったから、そのへんをひとっ走りしてきたよ」と言わんばかりの顔でやってくるのである。真面目、勤勉を我が誇りとする袴田は、自分が独り占めにしてきた「朝イチ出勤」という栄誉を村上に横からかっさらわれているようでどうも気に入らない。

 しかし、どうして店長はあんなにも早く出勤してくるようになったのだろうか。それを問いただそうと袴田悠人はついに心に決めた。

 翌朝、山から降りてくる深い霧の中で、おや、今日は自分が一番乗りかと喜んだのも束の間、どこからか足音が近づいてきた。

 靄から現れた村上は袴田に気付いて気恥ずかしそうにイヤホンをはずした。イヤホンから漏れ聞こえてくるトランペットか何かの音は、子供の頃、何かの古い映画で聴いた覚えがある。

「おはよう袴田君、今日も早いね」

「店長こそ今日も一番乗りですね」

 曲の前奏が終わると、そうだ、あの鼻の曲がったアクション俳優の、古典的なスポ根映画のテーマ曲だとすぐに思い出して、ふんと鼻で笑った。

「ボクシングでもはじめたんですか」

 そう言ってやると、村上はあっと慌てて、音漏れしているイヤホンを隠して照れ笑いを浮かべた。

「ああ、これは、まあその――」

「僕より先に来てるなら、開店準備に取りかかってくれてると少しは助かるんですけどね」

 なおもそうズケズケと皮肉ると、村上はキョトンとした顔をした。

「僕はたったいま着いたばかりだけど」

「というと――いつ引っ越しされたんです?」

「引っ越し? いや、引っ越しなんてしてないよ」

 バカな、と袴田は内心で腹が立った。村上の住まいは、二年前まで本部勤めをしていた二つ隣の市だと聞いたことがある。

「ああ、このところ体が鈍ってきててね。ちょっと運動がてらにさ」

 嘘だ、と袴田は断じた。村上の家は二つ隣の市、ここから四十キロも離れているのだ。しかも平坦な道ではなく、一つ峠を越えてこなくてはならない。それを行きも帰りも? まさかそんなことができるわけない! 体が鈍ったから? なんてヘタな嘘だ! ちょっと運動がてらに走れる距離なんかじゃない! どうせいつものように車で――そういえば村上の車をこのところ目にしないが――出勤したのだろう。ヘラヘラ笑うばかりの事なかれ主義の図体ばかりバカでかいデクの坊のくせに、この袴田悠人に花を持たせようとでもいうのか。袴田は無性に腹が立ってしかたなかった。

 袴田は、出勤一番乗りの栄誉は誰にも譲れない、明日こそは自分が一番に来てやると心に誓ったところ、村上が聴いていたあの曲のせいだろうか、どうも自分までもが沸々と熱い血がグツグツとたぎりだしてくるようだった。


 10


 ネットをくぐってバッターボックスに立つと、ピッチングマシーンの向こうから美夏の声がした。

「まずは目を慣らしてみる?」

「あ、ちょっとまって」

 三週間ぶりにやたら重くやたら長い鉄棒から軽いバットに持ち替えたのだ。村上は入念に素振りを繰り返した。鉄棒の素振りと往復八十キロのランニングの成果が出ているのか、バットを力任せに振っても体の軸はまったくぶれない。村上は一度両腕を高々と伸ばしてバットの先を真上に突き上げると、どっしりと構えた。

「一四〇キロ、ストレートね」

 美夏の声はいつになく嬉しそうだった。

 プラチナスターズの主力投手陣は、高卒ルーキーながらエースを任されている堂本を筆頭に五人もいて、それだけ人数がいれば多種多彩に思えるが、美夏の見方によれば、堂本以外の四人は、草野球レベルの投手としては実に秀でた粒ぞろいではあるが、ただ、球種も球速もコントロールも堂本の劣化版にすぎず、堂本を打ち崩すことができれば他は取るに足らないという。

 そのエース、甲子園ベスト16投手である堂本の持ち球は最速一五五キロのストレート、一四〇キロ台後半の高速スライダー、チェンジアップの三種で、技巧派というより力で押すタイプだという。これも美夏が集めた情報だが、堂本は持ち球にフォークを加えようとしているが、まだコントロールが安定せず、また一一〇キロまで落としてくるチェンジアップは投球フォームに癖があるそうで、昨年の甲子園ではそこを狙い撃ちされたこともあり、いまでもここぞというときはやはり得意の剛速球でゴリ押ししてくるという。

 ピッチングマシーンから放たれた白球が、バックネットのボール止めのクッションに大きな音を立てて食いこんだ。

「手が出ない?」

「そうだねェ――一五〇でやってみてよ」

 村上がそう返すと、美夏は白い歯をこぼした。

 ピッチングマシーンが唸りを上げた。村上は一歩踏み込んでバットを振った。短く、鈍い音――一瞬後、美夏の目の前のネットが大きく揺れた。美夏は首をすくめ、目を真ん丸にして驚いている。

「五キロアップしてみようか」

 村上はバットをくるりと回し、その先端で高々と天を突き上げた。


 高校ではソフトボール部主将で正捕手を三年間つとめた美夏は、まるで村上に手本を見せるように鋭く正確な球を返してくる。

 車のトランクに入れっぱなしで硬くなっていた投手用のグローブは、この四週間の間に美夏がオイルを塗り込んで艶やかに柔らかくしてくれていた。その感触をたしかめるように、村上は美夏の球を受けていた。といっても、村上がグローブを使う機会はないだろう。

 バッティングセンターでの堂本対策に良い兆しが見えた頃、村上はマッドドッグスが練習している河川敷へ顔を出し、対抗戦のチームに加えてくれと頼み込んだ。田畑もチームメイトも二つ返事で歓迎してくれ、村上は四番DHで起用されることになった。

 村上のブランクを案ずる者はいなかった。それは村上への手放しの期待というよりも、どこか熱に浮かれて錯乱しているような妙な熱狂的雰囲気から生じたもののように思えてくる。勝利への執念か、あるいはお祭りの前夜祭的高揚感のせいか――というより、おそらくは藤野志織にもっとも縁深い、かの悲劇のヒーロー村上達也が、満を持して復帰参戦というのが、反体制派で構成されるマッドドッグスの士気高揚に直結しやすかっただけかもしれない。

 ただ、そんな皆の期待に応えねばというプレッシャーは村上には皆無だった。なぜか胸の内は静かなままだった。

「誰のため?」

 美夏の返球は村上のグローブを派手に鳴らした。

「満奈美に言われたから?」

 村上はボールを返した。美夏は捕手らしくコンパクトなモーションで即座に返球してくる。村上も急いで投げ返そうとする。

「やっぱり志織ちゃん?」

 う、とうめいた村上のボールはとんでもない方へ飛んでいってしまった。ブランコを降りて満奈美がボールを追いかけていく。

「彼女、会社辞めるんだってね」

 無論、美夏は村上と志織の関係を知った上で妻となってくれている。だが、二年前の騒動のことまでは納得していそうにない。

「俺には関係ない」

「でも、きっかけではあるんでしょ?」

 村上は答えられなかった。満奈美からボールを受け取ると、美夏は村上に思い切り投げてよこし、そしておもむろに座って愛用のキャッチャーミットを低く構えた。

「投げられないなんて言わせないよ」

 ミットを構える美夏から立ちのぼる気炎は十分に強迫的であり、同時に村上への叱咤そのものでもあった。

 村上は迷わず高々と振りかぶった。全身が温まっていた。甲子園の連投で壊れた肩などとうの昔に治っている。大げさなほど大ぶりな投球フォームはいまでも体にしみこんでいる。マウンドもプレートもなく、足下はジョギングシューズで公園の砂地だという最悪のコンディションであることを除けば、最高の一球を投げることができる気がした。それに、美夏にはこれまで一度も投手村上としての球を受けてもらったことはなかった。だが、いまなら、そして彼女なら、まちがいなくこの一球を受けるにふさわしいはずだった。

 村上は投げた。腕は振れ、手首は効かせた――が、ボールは美夏のはるか頭上を一直線に突き抜けた。

 美夏は振り返って呆然と立ち尽くしていた。フェンスの金網にガッチリとはまり込んだボールはいつまでも落ちてこなかった。


 11


 午前九時。一地方の体育施設というには豪華絢爛な設備が整ったS市民総合運動場の野球グラウンド上空に、まもなく開会式がはじまることを告げる花火が景気よく打ち上がりはじめた。その腹に轟く音の一つ一つに耳を傾けるにつれ、主催者鷹丘桂一郎のこの大会にかける意気込み、そして彼の底なしの野球愛の強さが思い起こされ、来場客の誰もが敬愛やまない思いに駆られ、皆が皆、温かい気持ちでこの大会の開催を喜び、高揚していった。

 今大会の目玉でもあるプロアマ交流戦が、引き出しの多さのちがいを見せつけたプロの勝利で終わると、いよいよ本戦がはじまった。

 第一試合では、プラチナスターズが順当にディープシャークスを下して決勝進出した。

 波乱は第二試合に起きた。毎年あっさり初戦敗退を喫するマッドドッグスが、なぜか今大会に限って目を血走らせながら敢然とブラッディベアーズに噛み付いてかかり、しかも大差をもってこれを下した。マッドドッグスは、実に十年ぶりに決勝でプラチナスターズと相まみえることとなったのである。

 昼下がりの一番暑い時間帯に、サイレンが鳴り響きはじめた。

 グラウンド整備の合間に席を立ち、球場をぐるり囲む屋台に詰め寄せていた観客たちは、サイレンを聞いて大慌てで入場口へと殺到した。汗だくの大道芸人たちも色とりどりの商売道具をそそくさとしまいこみ、観客の流れに紛れ込む。中にはピエロのメイクそのままの者もいて、行列の中でおどける姿が見かけられる。内心うずうずしてしかたない彫像芸人が動き出すのは、もう少しあたりに人が少なくなってから。それでもスタンドの座席に着けば、赤銅色のメイクも台無しに大声で声援を送って周囲を驚かせる。出店では、ソースや醤油の香ばしい煙は客が絶えてからもなおもうもうと立ちのぼり続ける。ここからもう一踏ん張り、もう一汗、ここぞと大量に作ってパックに詰め、試合中のスタンドで売り切る算段なのだ。

 ただ、若き野心家、スーパータカキュウ金菊根島店副店長袴田悠人は、決勝戦開始から二時間も遅れて球場へやってきたため、そんな光景があったことなどつゆも知らない。本来この日は全店休業なのだが、袴田は朝早く出勤してたった一人で棚卸しをし、滝のような汗を流してきたのである。袴田はそんな自分の勤勉さを褒めてやりたい気持ちでいっぱいだった。ここへ来たのも、全社員が一堂に集うこの機会に、あわよくば上司や、はたまた自分を嘲笑った研修所の同期に自分の有能さをアピールできればと考えたからである。

 ところが、入場門には警備員が一人いるだけで、客など一人も見当たらない。屋台はどこも鉄板の火を落としていて、店番が昼寝していたりする。全社を挙げて催した一大行事が、こんな情けない状況なのかと袴田は急に悲しくなってきた。いったいどうなってるというのか! もはや我が社を救うのは、いずれ社を背負って立つこの自分だと、袴田悠人は決意を一心に球場へと駆け込んでいった。


 ただただわけがわからなかった。想像していた光景はそこにはなかった。これは裏切りだ、という考えさえ袴田の頭を過ぎった。

 スタンド席は人という人、声援という声援で溢れかえり、鳴り物代わりの足踏みのせいで、耳鳴りがわんわんとしている。出店は売り子を総動員して観客席の間を練り歩かせているらしいが、その売り子たちすら足を止めてグラウンドを注視していた。

 観客のほとんどが両チームのTシャツを着込んでいる。Tシャツは一般観客にも配布されるもので、一塁側がパール調の白で、三塁側が、良く言えばチョコレートのような――いや、やはり泥色というか土色というか、あるいは――そんな色だった。

 実は袴田もその泥色というか土色というかあるいは――そんな色のTシャツを昨日渡されて持ってきている。それを着て応援するようにと言われていたが、誰が好き好んでこの――そんな色のTシャツを着るのかと内心鼻で笑っていたものだが、ところが、いまはそんな色の方の声援が暑苦しいほどに盛り上がっていて、まばゆい白い方が固唾をのんで見守っているという様子だった。

 どうやら白いシャツの方に袴田の同期の連中や本部の役員たちがいるようだった。心の底からそちらの席の方へ行ってここへ来た目的を果たしたかったが、袴田はやれやれとカバンから泥色というか――そんな色のTシャツを引っ張り出して汗染みたYシャツの上に着込んで、同じ色が占める、臭い立つような三塁側の方へ向かった。

 それにしても、さっきから打ち損じの打球がスタンドに飛び込んできて危ないといったらない。一度は袴田をかすめたりもした。

「オカマダちゃーん、ここよここ! どこほっつき歩いてたのさ!」

 袴田はパブロフの犬ばりに咄嗟に声に背を向けた。だが袴田にいやなあだ名を付けた張本人は、周囲に誤解を招きそうなそのあだ名をまるでお構いなしに連呼している。袴田は仕方なく、天敵にしてパート主婦連合最強のボス、大島幸代女史に敢然と向かっていった。

「僕はですね、こんなお祭り騒ぎするよりもっと大事な――」

「なに言ってんの。ほれ、ここにおすわり」

 大島女史は自分の隣の席を空けて袴田を無理矢理座らせると、嬉々としてグラウンドの真ん中を指差した。

「ほら、ごらんなさい。あれがウチの店長の本当の姿よ」

 大島女史の指差す先――グラウンドのバッターボックスには、バットを天へ突き上げるようにしてどっしりと構える村上店長の姿があった。このときはじめて袴田は、観客が声を揃え、足を踏みならしながら連呼している声援の意味を理解した。

「ムラカミ! ムラカミ!」

 そして次の瞬間、ピッチャーが投げた球を、村上のバットが凄まじい唸りを上げて弾き返した。

 袴田は最近の不可思議な出来事――バックヤードの外から聞こえてくるあのナニもかもをすくみあがらせる轟音、あの鉄棒、そのときの店長の空惚けた態度、そして往復八十キロをジョギングで通勤してるという大ボラ――すべてに合点がいった。そして同時に、袴田の胸の内は、なにやらいまだかつて他人に対して抱いたことのない、ときめくような思いに急激に侵食されていった。


 12


 一塁線上を低く飛ぶ打球を、塁審が飛び上がって避けた。そしてすぐさま打球を振り返った。

 塁審が大きな身振りで示した「フェア」の判定に球場中がどよめいた。ボールは最初のバウンドで鋭く低く弾み、勢いを殺さぬままフェンスに大きく跳ね返った。

 村上は一塁キャンバスを蹴った。いまだボールは右翼手から逃げるように転がっていく。

(あの夏と同じだ――)

 渾身の速球を真芯で捉えたときの手に残る感触。一塁線のすぐ上で静止しているかのように見える白いボール。ファウルグラウンドへ鋭く転がっていくクッションボール。ランナーは一人、ホームに帰った――同点。だが次の打者は、この日まるで当たっていない田畑だ。俺がいまホームを踏まなくては逆転勝利はない――そしていま、この足でホームを踏むことができれば、俺はきっと――。

 村上は躊躇なく二塁を蹴った。

 望んだ通りのことが起きた。やはりあの夏と同じだった。返球を待ち構える三塁手に猛然と突進していく村上はたしかに見た。捕球しようと構えた三塁手の表情の変化、そして全身が伸び上がろうとしはじめたのを――「滑れッ」とジェスチャーする三塁ベースコーチの動きが止まり、呆けたように村上の頭上を見上げたのを――そのときすでに、村上は三塁ベースを駆け抜けることを決めていた。

 三塁手が腕を伸ばして高く飛び上がった――その顔に苦悶が走る。村上は躊躇なくその足下を駆け抜けた。

 ホームベース上にはマスクを手に鷹丘が立ち尽くしていた。だが、いきなりそのマスクを放り捨てると、おもむろに腰を落として低く構えた。まるでピッチャーの投球を受けるときのようだった。その視線は村上を見ていなかった――村上の後ろを見ていた。

「堂本ッ!」

 鷹丘は一喝した。村上の脳裏にいやなイメージがよぎった。あの夏と同じ光景が――いや、ハッタリだ、返球など来やしない――いや、来たっていい、来るなら来い! 村上はもう迷わなかった。

 無我夢中で宙をもがいた。もはや土を蹴る自分の足音と息遣いだけしか聞こえなかった――そのはずだった。そのとき村上の耳元を、シュルシュルという音が近づいてきた。

 その音はあっという間に村上を追い越していった。高速で回転する白球は、鷹丘が構えるミットに寸分違わず突き刺さっていった。村上は土を蹴り、手を伸ばして頭から滑り込んだ。

 指先がラッセルのように土をかきわけていく。ベースまであと三十センチ――十センチ――五――ほんの爪の先だけでいい――。

(とどけ!)

 そのとき、キャッチャーミットが村上の指先をはたき落とした。

 審判が何か叫んだのが聞こえた。村上にはもはや必要のないコールだった。中指の爪が土を引っ掻いていた。悔しそうなのはその爪の先だけだった。村上は呆然と爪の先三センチ向こうのホームベースをぼんやりと見つめていた。

 ほんのついさっきまで、村上は何かをつかみかけていた。だが、いまとなっては、あの夏と何ら変わるところがなかった。同じことの繰り返し――いや、本当にそうなのか? 俺はこれからまた、あの夏の後と同じことを繰り返すのか?

 そのとき、村上に影が覆い被さった。

 見上げると、そこにはまだ鷹丘がいた。鷹丘は這いつくばったままの村上をじっと見下ろしていた。そしてゆっくりと、たった一つうなずくと、背を向けてベンチへと歩き出した。

 村上は急に胸が熱くなってきた。「親父――」という言葉が口を衝いて出た。無論、鷹丘桂一郎に対するものだ。そんな言葉を口にするのはいつ以来だろう――いや、「いつ以来」なんてものではない。本心から口にするのは、はじめてことだった。

 鷹丘に見込まれて野球を続けている社員の多くは、グラウンド内では敬愛を込めて鷹丘桂一郎のことを「社長」ではなく「オヤジさん」と呼び、鷹丘もその呼び方を快く受け入れている。しかし両親を亡くし、野球をやめるまで鷹丘に事実上の親代わりとなってもらった村上にとっては、その呼び方は他の者とはちがって当然のはずだった。だが、野球に背を向けていた村上は、鷹丘の期待に対してことごとく負い目しか感じたことはなかった。

 村上はいまはじめて、「父親」の期待に応えられたという実感を噛み締めていた。それでも、そんな感情を抱いたことに村上は別段驚かなかった。本来あるべき関係に戻ったにすぎないからだ――ただし、戻るには条件がある。それは村上が野球の世界に帰ってくること――誰もが夢を賭し、夢を託し、夢を見られる野球を、飽くことなく追求する同志となって帰ってくることだ。

 村上は立ち上がってユニフォームについた土を手で払った。土煙から立ちのぼる匂いが懐かしかった。ヘッドスライディングでひりつく胸や腹や腿の感覚が懐かしかった。それらを愛した青春の日々を思い出したとき、村上はたまらず膝を突いてうずくまった。

(帰ってきた――)

 その頃、村上のそばで、多くの者が夢を追いかけ、夢を求めていた。村上に自らの夢を賭けていた者もいた。村上は自身の夢とともに、彼らの夢をも抱え上げて突っ走ったものだった。

(だが、いまさらこの俺に、誰が期待など掛けてくれるんだ? 誰が夢を賭してくれるんだ?)

「ムラ! おい! おいってばよ!」

 顔を上げると、すぐそこにびしょ濡れのじゃがいも顔があった。

「ムラよォ、ありがとうな――本当にありがとうな」

 そういえば、あの夏もこの男は同じことを言っていた。だが、いまはそんな礼などいらない。

「バカやろう、まだ終わってないだろうが――」

 そう言いかけてふと外野スタンドを見やると、志織の姿がまだそこにぽつんとあった。遠すぎて表情まではわからなかったが、目を閉じればまぶたの裏にいつでも思い出せる。グラウンドでプレイしている村上を見るときの志織の眼差しはいつも同じだ。たとえ負け試合だったとしても、ぼろくそに打たれたとしても、村上の情熱が絶えない限り、あの志織はいつも同じ目をしているのだ。

(そうだ、まだ終わりじゃない、あいつに見せてやらないと――いや、志織だけじゃない、満奈美にも美夏にも、まだ俺という男を見せてやらなくちゃならないんだ)

「バタよ、俺に投げさせてくれないか」

 そう言うと、田畑はぽかんとした顔をした。

「勝たなきゃならねえんだろ?」

「ああ、そうだな!」

 田畑は顔をゴシゴシと拭うと、主審のもとへ駆けだした。

 村上はチームメイトからグローブを受け取ると、その感触を確かめながらマウンドへと向かった。そのとき、ウグイス嬢が透き通る声で選手交代を告げた。

「ピッチャー、鈴木に代わりまして、村上。ピッチャー、村上」

 その瞬間から、敵味方の別なく、スタンド中から沸き起こった今日一番の大歓声――一人残らず「ムラカミ! ムラカミ!」と連呼する大歓声が、夏空のすみずみまでわんわんと轟きはじめた。

 

  了 

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