見えない俳人

「誰も出していないはずの句が句会に現れる……?」

 俳人探偵の目がきらりと光った。


 * * *


「句会って面倒臭いやり方するよねえ」

 そう呟いたのは、ソファに寝転がった歌人探偵である。

「面倒臭い? どこがだい?」

 句会から帰って来た俳人探偵が、句会ノートを歌人探偵に見せていたところだった。

「詠草一覧を作るまでだよ。短冊とか、清記用紙とか——」

「我々の句会では詠草とは呼ばないのだがね。まず、句を短冊に書く。そして、裏返しにして提出された短冊を山分けし、各参加者に分配。各参加者が短冊の句を清記用紙に書き写していく。誤記は万死に値する。清記が終わったら、清記用紙を回し、参加者はそれを見て句の予選をする。取る可能性のある句を自分の手元のノートに書き写していくんだ。そして、清記用紙が一周したら予選の中から取る句を選び、一人ずつ取った句を披講し、自分の担当の清記用紙に取られた句があった者は『いただきました』と言って取った者の名前を一文字書く。最後に票を集計する。どこが面倒だと言うんだい」

「いや待ってよ、短冊、というのがまずおかしいって。小説や現代詩の人たちに会うとさ、『短歌って十二単着て短冊に書くんでしょ?』って言われるんだよね。そうしたら『いやいやそんなことはしませんよ、普段着でスマホで書きます』って答えるの。短冊っていうのはそういう、十二単と同じレベルの過去の遺物じゃない」

「歌人ともあろうものが古いものを大切にしなくてどうするんだい」

「不易流行、だよ。そもそもそんな清記とか何とかというのは、筆跡で作者が特定されるのを防ぐための、いわば隠蔽工作でしょ。でも現代においてわざわざ新聞の切り抜きで脅迫状を作る犯罪者なんかいない。今は脅迫状もInDesignで組む時代だよ。事前に詠草をメールで集めて、Wordで歌稿を作って配ればすぐじゃない」

「それでは司会には作者がわかってしまうだろう」

「司会だから当然でしょ。司会にも作者を明かさないなんて、俳人は完全犯罪でも目指してるの?」

「それに、句を手書きで書き写していく時間、これこそが句会の醍醐味なんだ。手で字を書いてこそ句は体に染み通ってくる。句会はこの時すでに始まっているのさ」

「時間の無駄だと思うけどなあ。評が始まるまでに三十分くらいかかるんでしょ?」

「歌人なんか、参加者が半分くらい遅刻するから歌会が始まるまでに三十分かかるくせに」

「それはそうだけど〜」

 そう言って、歌人探偵は伸びをする。

「それにしても退屈だ」と俳人探偵。「依頼がまるで来ない。このままでは探偵を廃業してただの俳人と歌人になるしかないぞ」

「先日依頼が来たと思ったら、どの炊飯器を買うかで迷っている人だったものね」

「知っての通り、私は米は土鍋で炊く派だというのに」

「俳人探偵、僕と出会うまで電気ケトルも知らなかったものね。破格.comの見方もわかってないし」

「機械は苦手なんだ……」

「お米にはうるさいから頼りになるかと思ったのに。仕方ないから依頼人から家族構成とか予算とかどれくらいの頻度でお米を炊くかとか聞き出してさ。僕は料理のことはからきしなのに」

「君はよくあんなに長くて要領を得ない話を聞けたものだな」

「そういうこと、依頼人の前で平気で言うんだからひやひやしたよ〜。客商売でしょ」

「客商売ではないだろう」

「依頼人が何を求めてて、どうなったら解決なのかがわからないと事件なんて解決できないんだよ。それなのに君は『竜田姫』って機種名にこだわって」

「新米は秋の季語だからね。『稲妻』《早炊き》モードがあったのもよかった」

「稲妻も秋の季語なんだっけ?」

「無論だよ。稲妻が稲を実らせると信じられていたんだからね。『兼題』《予約》モードと『席題』《ランダム》モードのある機種も気に入ったんだが」

「『吟行』モードのあるポータブル炊飯器なんかもあったね」

「しかし結局、依頼人は君が一言『これがかわいい』と言ったピンクの炊飯器を注文して帰ったんだからな」

「かわいいのは大事だよ。藤原公任も、秀歌の条件として『心ふかく姿きよげに、心にをかしき所あるを、すぐれたりといふべし』と言っている。『姿』も重要だということだね。それにかわいいと部屋の中で見失いにくいしね」

 炊飯器を部屋で見失うやつがあるか、と俳人探偵が言おうとした時——

 コン、と響いたのは、控えめながらたしかにノックの音で、俳人探偵は中腰で停止し、歌人探偵は咄嗟にソファの上に起き直った。

「——依頼人?」

 二人は顔を見合わせたのち、同時に「はい、どうぞ!」と声を張り上げていた。

「……俳人探偵さんの事務所はこちらでよろしいでしょうか」

 そう言いながら入ってきたのは、スーツを着て髪を撫で付けた、三十代半ばほどの大人しそうな男である。

 その真面目そうな顔立ちを見ただけでこれは俳人だとあたりをつけていた歌人探偵は、そっと窓辺に移動してソファを俳人探偵に譲る。

「いかにも、私が俳人探偵だ。どうぞ座ってくれ。何かお悩みでも?」

 ソファに腰掛けた依頼人は、落ち着かなげに視線をさまよわせた後、意を決したように切り出した。

時田四季文ときたしきふみと言います。このところ句会で、奇妙な事件が続いているのです。誰も出していないはずの句が句会に現れる、という——」

「誰も出していないはずの句が句会に現れる……?」

 俳人探偵の目がきらりと光った。久し振りの事件に興味を惹かれたらしい。

「それは面白い。詳しく話してくれたまえ」

「……隔週の日曜日、喫茶店内の貸し会議室で。メンバーは五人、互選。それが私たちの句会です。今思えば、四ヶ月前の句会が始まりだったように思います。句会で、あまり見ない句に出会ったのです。いえ、前衛的という意味ではなく、ただ、私たちは長らくこのメンバーで句会をしているものですから、作風というのは次第にわかってきてしまうものなのですが、この句会にこの手の句が出るのは珍しいな、と。その時はその句に票は入らず、したがって作者も明かされないままでしたが、私は少し気になりました。誰の句だったのかな、と。でも、票の入らなかった句の作者を詮索するのは野暮なことですからね。その次の句会の時も、それに似た作風の句が出て、いいと思ったので私が票を入れました。そして評を終えて、作者の名乗りの番になった時——誰も名乗り出なかったのです」

「ほう」

「その時は変な空気が流れました。作者がぼんやりしていて名乗り忘れているのかと思ったんですが、全員、自分ではないと言うのです。それでも、犯人探しをするほどではない。何か変だなと思ったままお開きになりました。

 その次の回です。やはり見慣れない作風の句が、今度は高得点を取りました。評が終わり、作者が名乗る番になると——やはり、誰も名乗り出ないのです。しかも、そんな句がもう一句ありました。

 さすがにこれはおかしいということになって、句会が終わった後に、全部の句の作者を明かしてみたんです。ところが、全員ちゃんと五句ずつ出しているんですね。言い忘れましたが、私たちの句会は当季雑詠三句、席題二句の五句出しです。それで、全員五句出している。それなのに、作者の分からない句が二句あったのです。

 同じようなことは、ずっと続きました。それも、作者不明の句が増えていくのです。三句、四句と……。そして前回の句会で、作者不明の句がついに最高点を取りました。五人全員がその句に投票していたのです。あり得ないことです。作者は自分の句には投票できないのですから」

「その通りだね」

「私たちは不気味でたまらなくて——とうとう、探偵さんにご相談することになったという次第です。私たちの句会で、一体何が起きているのでしょう? これは何か、恐ろしいことの前触れなのでしょうか? それに、句会で作者もわからない句が最高点句になるなんて、句会への冒瀆です」

「全くだ」

「先ほど、句の数が増えていくと申し上げましたね。前回が四句でした。次あたり、五句に——一人が出すべき句数になるのではないか——その時、何かが起こるのではないかと憂慮しているのです。どうか、次の句会に探偵さんも来ていただけないでしょうか?」

「いや、面白い。実に面白いね。いくつか質問してもいいかな?」

「はい、何でもお聞きください」

「まず、その句会というのは結社の句会か何かかい?」

「いえ、私は結社には入ったことがありません。私的な集まりです。お恥ずかしながら、私には句友がほとんどおらず……。俳句をやっていく中で出会った数少ない友人や、私のすすめで俳句を始めた友人などをかき集めて、この五人になりました」

「そのメンバーについてもう少し詳しく聞かせてもらいたい」

「はい、まずは春江さん。年配のご婦人です。句歴は二十年ほどでしょうか。句集を熱心に読まれていて、朗らかで人の好い方で、上品なユーモアのある句を詠まれます。高校生の時に初めてお会いしたのですが、私はこの人の影響で俳句を始めたのですよ。高校生の時は色々とつらいことがあったのですが、この方の句を読むといつも、悩みがどうでもよくなる感じがして。それから、夏海。大学生の時に出会った句友なのですが、私とは全く俳句の趣味が合わなくて、お互いの句を酷評してばかりです。とにかく毒舌で気難しくて困りますよ。難解な句ばかり作るのです。次に、秋彦くん。同じ会社に務めていて、仕事で参っていたところに私が句集を勧めてやったらはまりましてね。若いし句歴も浅いのですが、長く俳句をやっていて忘れかけていた新鮮な感動を思い出させてくれる、貴重な存在ですね。勉強熱心で、ちょっと野心的なところもあって、新人賞なんかにもまめに出しているようです。でも作風は古典的で、端正な写生の句が得意ですね。最後に、冬緒ちゃん。まだ大学院生ですが、かなりの論客で、読みがとても鋭いので感心しています。無季や自由律といった俳句によく挑戦していますね。俳句の評論を書きたいようです。彼女も新人賞に熱心に出していますね」

「随分メンバーの幅が広いんだな。メンバー間でトラブルなどが起きたことは?」

「トラブル、というほどのことは——」

「話を聞くに、夏海氏のことが気に入らないようだったが」

「ああもう、俳人探偵はまた無遠慮な聞き方をする」歌人探偵がはらはらした様子で口を挟んだ。「すみません、この人ちょっと単刀直入な聞き方しすぎるだけで、時田さんを疑ってるとかでは」

「構いませんよ。夏海と反りが合わないのは事実です。でも私たちは長い付き合いで——言うなれば一心同体の仲ですよ。反りが合わないところといえば、それは、誰にでもあります。夏海と冬緒ちゃんは二人とも論客なので、句会では評がぶつかって互いに譲らないことはよくあります。そういう時に場をとりなすのは春江さんですね。秋彦くんと冬緒ちゃんはどちらも新人賞に出しているライバル同士なので、内心張り合っているところはありますし——でも、別人格なんですから意見が違うのは当然ですよ。何もかも同じだったら、違う人格である意味がありません」

「面白いことを言うね」

「色恋沙汰とかは?」

 と歌人探偵。「秋彦くんと冬緒ちゃんとか、歳が近いんでしょう?」

「歌人はすぐそれだ」

 俳人探偵は肩をすくめた。「連作に人間が二人出てきたら恋人同士なんだからな」

「色恋沙汰——さあ、それはどうでしょうか」

 時田も首を傾げる。

「夏海と秋彦くんなんかは、性格が違う割に仲がいいようですし、春江さんのことはみんな慕っていますよ。特に冬緒ちゃんが。でも——どうなんでしょうか、私はちょっと、ジェンダー? とかセクシュアリティ? とかそういうのはよくわからないんですが、恋愛というのとは違うのかなと」

「なるほど。それでは、句会のメンバー以外で、何か恨みを買うような心当たりは?」

「恨みですか……。先ほども申し上げた通り、私には句友と呼べる人が少なくて、この句会のメンバーで全部なんです。他の皆も似たり寄ったりですよ。私は俳壇で華々しい活躍もしていませんから、嫉妬されるようないわれもありません。秋彦くんと冬緒ちゃんは新人賞でいいところまで行ったことがありますが、顔も知らない人に妬まれるほどではないんじゃないでしょうか。夏海はあの性格だから、どこかで喧嘩でも売り歩いているのかもしれませんが」

「ふむ。ところで、句会の清記用紙と短冊は持っているかい?」

「はい、持ってきました。短冊は普段は句会が終わったら処分してしまうので、全部はないのですが、この件が問題になってからは取ってあります。これが、四ヶ月前の句会の清記用紙です」

 時田は四角い鞄からファイルを取り出し、几帳面に整理された清記用紙を見せた。

 清記用紙は全部で五枚。ナンバリングされ、時田、春江、夏海、秋彦、冬緒と清記者の名前が記されている。時田の几帳面な楷書、春江の丸い文字、夏海の金釘流、秋彦の米粒のような字、冬緒の飛び跳ねるような書体と、それぞれの筆跡が同じブルーブラックのインクで記されていた。一人五句出しなので、清記用紙一枚につき五句。——ところが、一枚だけ、六句記されていた。

「これです」

 短く爪を切った時田の指が、六句目を指す。「これが、誰の句ともつかないと思った句です」

「清記者は春江氏か」

「それから、こちらがその次の句会の清記用紙です。これも一枚だけ、六句あるものがあるでしょう。清記者は冬緒ちゃん。この二句目、夏海が並選で取っている句、これが作者のわからなかったものです」

「たしかに作者名が書かれていない」

「その次の句会の清記用紙がこちらです。秋彦くんと夏海の清記用紙に六句書かれていますね。こっちの句を、春江さんが特選、私と冬緒ちゃんが並選で取っています。それからこっちの句は秋彦くんが並選です。

 この回が、さすがにおかしいとなってすべての句で作者を明かした回ですね。この二句だけ、作者名がないでしょう。この時から短冊も調べることにしたんです。こちらが短冊です」

 そう言って、クリップできれいにまとめた短冊を取り出す。

「全部で二十七枚あります」

「二枚余計だな。——ああ、これがその句か」

 俳人探偵が短冊の中から二枚を選り分ける。

「——筆跡が誰のものとも違うね」

 俳人探偵の肩越しに覗き込んだ歌人探偵が言った通り、その二枚の短冊は、筆圧の強い、大きな字で書かれていた。

「清記者は、手元に短冊が六枚回ってきた時点で、おかしいと思わなかったのか?」

「短冊を配る時に手違いがあったと思ったそうです。わざわざ指摘するほどのことではないと思って、そのまま清記したのだと言っています。でも私は——その次の句会で、ついに私の手元に六枚目の短冊が回ってきた時、その見慣れない筆跡を目にして、ついに来た、と内心戦慄したものです」

「白紙の短冊は、どう配っているのだい?」

「きっちり、一人に五枚ずつ私から配っています」

「では、短冊が余るはずはない」

「ええ」

「司会は、いつもあなたが」

「そうです」

「……そうか」俳人探偵は低くつぶやく。そしてしばらく思いを巡らせている様子だったが、ふと我に返って、「この清記用紙と短冊は、預かってもいいかね」と尋ねた。

「はい、構いませんとも。それで、あの……来週の日曜日が忘年句会なのですが、探偵さんにも参加していただけないでしょうか。何かが起こるんじゃないかと怖くて……」

「もちろん。事件は常に現場句会で起こっているのだからね。必ず参加するとも」


「亡霊が句を出す句会、か。これは事件というより、怪談じゃない?」

 依頼人が帰った後の事務所で、再び客人用のソファに陣取った歌人探偵が、棒アイスを舐めながらわざとらしく声を潜めてみせた。

「その貸し会議室は、かつてある俳人が非業の死を遂げた場所だったのです——」

「探偵が非科学的なことを言わないでくれたまえ」

「俳人も歌人と同じようにGmailとWordを使っていればこんな事件は起きなかったんだよ。手で字を書く時間が大事なんて、非科学的なことを言っていたのはどっちだった?」

 という台詞は俳人探偵の渋面によって無視された。

「で、どう思う? 俳句年鑑見てみようよ」

 そう言いながら歌人探偵はぴょこんと立ち上がったが、

「棒を咥えたまま歩くんじゃない」

 とすかさず俳人探偵に叱られて再びソファにすとんと腰を下ろした。

 俳人探偵が立ち上がって本棚から分厚い俳句年鑑を抜き取り、机の上に広げる。

「住所録なんて今どきおかしな風習だよね。探偵でもないのに、何に使うんだろう」

「君は探偵だろう。……ふむ、依頼人も大した俳人ではないと言っていたが、やはり載っていないな」

「何か仮説は思いついた?」

「はじめは清記者が怪しいんじゃないかと思ったが——短冊に書かれていない句を勝手に紛れ込ませることができるからね。しかし、短冊の現物が出てきたからこの線はなさそうだ。いったん、句のことは脇に置いて、短冊のことを考えてみよう。物に即す、いつでもこれが一番大事なんだ。一人に五枚ずつ配られた短冊。しかし、集められた時には短冊が増えていた。短冊が分裂するはずはない。そうなると怪しいのは司会の時田だ。余分な短冊を持ち込むことができるのは司会一人だからね」

「俳人はこれだから、短冊を神聖視しすぎだね」

「な、何だって?」

「何が短冊だ、どこにでもあるコピー用紙を縦に切っただけのものじゃないか。こんなもの、誰だって用意できるよ」

「あっ……」

「ちょっと見せて。この、作者がわからない句が書かれた短冊だけど、他の短冊と少し違うところがあるのに気がつかない?」

「切り口が……少し、ぎざぎざしている」

「そう。他の短冊は端がきれいなんだよ。時田というあの依頼人は、清記用紙を一枚残らずファイリングしてるところを見ても、服装や爪や筆跡を見ても、几帳面なタイプだよ」

「清記用紙をファイリングするのは普通だと思うが。部屋中に歌稿が舞っている君とは違うんだぞ」

「配られた短冊の切り口のきれいさは、依頼人の几帳面な性格にふさわしい。ならば、切り口のぎざぎざした短冊を作ったのは、彼ではないはずだよ。僕は犯人は彼ではないと思うな」

「……驚いたな。すぐに作中主体の人間像の一貫性がどうのと言いたがる歌人の癖もそう捨てたものではないということか」

「プロファイリング、と言ってほしいね」

 歌人探偵が大袈裟に胸を張る。

「しかし他にも気になるところがあるんだ」俳人探偵はテーブルに清記用紙を広げる。「そうなるとこの短冊は外から持ち込まれたのか、その場で書かれたのか? 最初の句会で出された句は当季雑詠だった。だから、これはあらかじめ句の書かれた短冊が持ち込まれたのではないかと考えた。外部犯、内通者ありという場合だ。しかし、この時の句会——」

 と俳人探偵は一組の清記用紙を指差す。

「作者不明のこの句だが、『椅子』という言葉が詠み込まれている。この時の句には、他にも『椅子』を詠み込んだ句が五句ある。ということは、この時の題が『椅子』だったんだろう。兼題はないそうだから席題だ。とすると、あらかじめ短冊を用意しておくことは不可能だ」

「あらゆる席題のパターンを予想して短冊を用意しておくことは——?」

「席題は季語に限らずどんな言葉でもいいのだから、まず無理だろう」

「鞄の中が短冊でぐちゃぐちゃになってしまうしね」

 と、鞄の底にぐちゃぐちゃのレシートが溜まっている歌人探偵のコメント。

「あらかじめ短冊を用意しておけるとしたら、それは席題を知っている者だけだろう。席題を出すのが毎回同じ人物だとしたら——たとえば、司会だとしたら。事前に誰かに席題を伝え、短冊を用意させることができる。それを考えると、依頼人が共犯者、という線もやはり捨て切れないのだよ。短冊を作ったのが句の作者と同一人物だとすれば、切り口がぎざぎざでも矛盾はない」

「席題を出す人は毎回決まっているの?」

「そうとは限らない。会場に一番早く着いた人、という場合が多いね。あの依頼人は几帳面そうだから、毎回真っ先に着いてもおかしくなさそうだが——」

「でも、俳人は歌人と違って句会に遅刻しないんでしょ? 他の参加者も大体早く着いてるんじゃない? それにしても奇妙なのは——」

 歌人探偵は清記用紙を見回して深刻そうな声を出した。

「何か気付いたかい?」

「この句会、毎回一人も欠席していないんだね。しかも全員席題まで出しているということは、席題の提出が締め切られるまでに全員会場に辿り着いているということだよ。こんなことがあり得るだろうか」

「真面目に聞いて損した」

「これは異様と言っていいと思うんだけどな」

 そう言って首を傾げた歌人探偵が、小さく身震いした。

「なんか、寒気がするな。これってほんとに亡霊」

 と言いかけた途端、俳人探偵が

「こんな季節にアイスを食べるからだろう」

 と叱りつけながら大股に電気ケトルへ駆け寄った。ケトルのスイッチを入れ、いったん戻って来て膝掛けを歌人探偵に投げつける。

「今は冬だぞ。季節外れも甚だしい」

 とぶつくさ言いながら。

「わかってないなあ、これはセブン・セブンの冬季限定焼き芋アイスだよ。今こそ旬なんだよ」

 歌人探偵は膝掛けにくるまって言い返す。

「しかもまたコンビニで買ったのか。アイスを買うならせめてスーパーで買えと言っているだろう」

「だってセブン限定なんだもん〜」

「コンビニは割高だ」

 そう言いながら、俳人探偵が湯気を立てたマグカップを二つ持って台所から戻ってくる。中には白湯がなみなみと注がれている。

「湯を飲め。冷えは万病の元だといつも言っているだろう」

「なるほどね、これが冷えか……」

 歌人探偵は冷えた指先でマグカップを包んで、白湯を一口啜った。

「君の身体感覚の鈍感さには驚嘆するよ」

「えーと、どこまで考えたっけ。ああ、短冊をあらかじめ用意していたという線で考えてきたんだよね。でも、別の読み筋はないかなあ。席題を聞いてその場で二人分俳句を作っている者がいるとしたら?」

「それはまずないだろう。自分と違う作風の句を作るだけなら、そういう器用な真似ができる俳人もいるだろうが、筆跡まで違うんだ」

「席題を聞いてから、外部の誰かと連絡を取って、相手の筆跡で句を書かせる、とか」

「それは可能だろう。句会の会場は密室ではない。手洗いや喫煙所などに立つふりをして出ることができるし、席題を考えている間喫煙所などをうろうろ歩き回る俳人もいる。貸し会議室は喫茶店内にあるから、店内にいる客と会うことも容易だね。それなら、短冊の受け渡しもできる」

「でもそうすると今度は誰にでも犯行が可能になっちゃうな。店内に誰かを待機させて、句会中にコンタクトを取る……。席題の時間に席を立つ人物が怪しいとは言えるわけか。でもそうまでして他人の句を混ぜたい動機は何なのかな」

「他人の動機なぞ考えても仕方ないよ」

「もう、探偵の台詞とは思えないなあ。やまとうたは人の心を種として万の言の葉とぞなれりける。脅迫とかだったら大変じゃない?」

「出された句を見ると脅迫の意図があるようには思えない」

「でも依頼人は怯えてた。もしかしたら何か脅迫される心当たりがあるのかもしれない。たとえば——以前この句会には六人目の参加者がいたんだけど、何らかの理由で依頼人によって理不尽にも句会から追い出されてしまった。それを恨んだ六人目と、六人目と親しかった参加者が結託して、六人目の句を句会に紛れ込ませ、自分はまだあの事件を忘れていないぞ、と仄めかしているのだ……! とか」

「君の推理は論理が飛躍しているな」

「詩的飛躍、と言ってほしいね。いずれにせよ、この句会またはメンバーの誰かに対して悪意を持っている者の仕業という線は考えられるんじゃないかな。こんなに意味のわからないことが起きているんだし、不気味に思う人がいてもおかしくない」

「不気味という感覚はわからんな。ただ意味不明なだけだと思うが」

「君が出席した句会でこういう事件が起きたらどう感じる?」

「仮定の話はわからん。その状況になってみたことがないからな。だがまあ、句会への冒瀆、あるいは挑発とは取れるか」

「お前たちの句はこんな作者不明の句に負ける程度なんだぞ、みたいな」

「その場合、句会を撹乱したい、句会に不満を持っている内部犯の可能性と、句会を妨害したい外部犯の可能性がある。が、この事件が意味不明であるかも疑うべきだな。先程の君の脅迫説にもあったように、句会内の誰かには通じるメッセージ、あるいは暗号であるという可能性もある」

「句会の場を利用して何らかの陰謀が進行している、ということだね」

「句会で提出した句は非公開だ。となれば、メッセージの受信者は句会の内部にいる。他の場所でメッセージを伝える手段はいくらでもあるはずだが、そうしないということは句会でしか顔を合わせることがなく、私的に連絡を取っていると怪しまれる人物だろうか。時田氏と秋彦氏は勤務先での接点があるが、他のメンバーは句会が唯一の接点だとしてもおかしくないな。あるいは先程も考えた通り、メッセージの発信者が外部の第三者だとすれば、誰が受信者でもありうる、か。その句に対する投票や批評がメッセージへの応答になっていた可能性もある。が、批評はこの清記用紙からはわからないし、票を入れた人物にも法則性は見出せないな」

「こういう無駄な清記のやり方への抗議行動なんじゃないの?」

「このやり方のどこが悪いと言うんだ」

「そういう旧弊な俳人にうんざりして、句会にIT革命を起こそうとしてるのかもよ。でも、それならこんな小さい句会でやっても仕方ないかあ。……あるいは、単に句を読んでほしいだけ? 句会に出るにはあまりにシャイな人がどうしても句を出したいとか、何らかの事情で人前に出られない人とか。句会のメンバーは別に有名な俳人じゃないけど、どうしてもこの人に評してほしい、と思っているとか。あるいは——」

「こんなところで安楽椅子俳人アームチェア・ハイク・ポエットをしていても仕方ない。今の段階ではすべては想像の範疇を出ない。週末の句会に行ってみるしかないだろう」

「はあ、推理したらお腹減ったな。アイス食べよ——」

 伸びをして歌人探偵が言いかけた途端、

「今食べたら夕食が入らなくなる」

 と険しい顔をして俳人探偵が遮った。

 そんな呑気な会話をしている二人は、この時点ではまだ、句会で何が彼らを待ち受けているか、予想だにしていなかったのだが——。


「それで、どうして君まで句会についてくるんだ」

 翌週の日曜日。いつもの黒いスタンドカラーのシャツの上に黒いロングコートを着込み、灰色のマフラーを巻いた俳人探偵は、歌人探偵に素っ気ない視線を投げた。

 歌人探偵は今、鏡の前でニット帽とフェルトのベレー帽を交互にかぶったり脱いだりしているところである。

「もう、冷たいなあ。相棒じゃない。君に来た依頼にはもちろん僕もついていくよ」

 歌人探偵は、ざっくりとした白いニットの肩落ちカーディガンをゆるく羽織り、ブラウンのグレンチェックのワイドパンツを合わせている。爪にはボルドーとオリーヴをベースにしたチェック模様のマニキュア。足にはクリスマスツリー柄の靴下。

「相棒じゃない、ただの同僚だ。これは俳人の事件なんだ。歌人は必要ないね」

 俳人探偵はもう靴紐を結び終えて、玄関に座り込んでいる。

「全く、非人情なんだから。僕もせっかく俳句を用意したんだぞ。歳時記と首っ引きで」

「歳時記が変なところに置いてあると思ったら、あれは君の仕業だったのか」

「それはごめん、記憶にないけど、記憶にないということは所定の場所に戻さなかったと推測されるね。それよりこの帽子とこの帽子、どっちが冬らしいと思う?」

「違いがわからん」

「俳人だというのに、装いの季節感には興味がないんだもんなあ。これが『冬帽子』だぞ」

「勉強になった」

「このネイルも、クリスマス感を出しつつ俳人が好きそうなくすんだ色にしてみたんだけど」

「遅れるぞ」

「あー待って待って、そのコート取って、赤いダッフルのハーフコート」

「これか? 今日は丈が短い外套だと寒いぞ」

「このコートに合わせてコーディネートしたんだもの」

歌人探偵は袖に腕をつっかえさせながら慌ててダッフルコートを着ると、ベレー帽をかぶってもう一度鏡を確認し、くまのぬいぐるみバッグを肩にかけて、スエードのデッキシューズをつっかけた。

「また君はそんな歳時記も入らないような鞄を」

「君はいつも代わり映えしないなあ。少しは色を入れなよ。木だって紅葉するんだぞ」

 そう言いながら事務所のビルを出た途端、歌人探偵は北風に「わ、寒」と身を縮め、「寒いね」とわざわざ言い直した。

「寒いなら外套のボタンを留めろ」

「そこは『寒いね』って返してくれなくちゃ」

「外套のボタンを留めろ」

「コートって前開けてた方がおしゃれじゃない? これは中のニットの白とコートの赤の組み合わせがかわいくて、それにボタン留めたくらいでは防寒性なんてそんなに上がらな……ん? なんか……風が防げた……?」

「今までずっとボタンを留めずに外套を着ていたのか」

「うん」

「五感がないのか、君は。こら、ポケットに手を入れたまま歩くんじゃない。危ないだろう。手袋はどうした」

「片方家出しちゃって……」

「第一に、手袋は家出しない。君が紛失したんだ。第二に、あの手袋は二週間前に買ったばかりだぞ」

 俳人探偵が風を切ってすたすたと歩いていく後ろを、歌人探偵が慌てて追いかける。

「早くしろ、君のせいで遅れそうなんだ」

「この間俳句総合誌のバックナンバーを調べてたみたいだけど、何かわかった?」

「新人賞の予選に秋彦氏と冬緒氏が通っているのが確認できた。俳句年鑑にはどの参加者も載っていなかった。まあ予想通りだな」

「僕、ネットでちょっと探してみたんだよね。そしたらさ……時田四季文という人物は俳壇以外でも、どこにも見当たらなかった。それに、彼が所属しているという会社には、時田四季文も秋彦もいないんだ。もしかして僕たちが出会った時田さんは、亡霊——」

「俳号じゃないのか?」

「まあ、そうかもね。句会では俳号で通してるけど、新人賞にも出さず結社にも入っていないからその俳号で出てくる経歴が特にない、ということはあり得る。現に僕だって——」

「それはそうだが。おい、どこへ向かっているんだ」

 俳人探偵があらぬ方向へ進もうとする歌人探偵の首根っこを捕まえる。

「事務所から駅までの道でどうして間違えるんだ」

「君と歩くと自動ナビゲーターがついてくるから楽だなあ。歌人仲間はみんな地図が読めなくて」

「そんなんじゃ歌も詠めないんじゃないか?」


「ここだ」

 電車に乗り——反対方面の電車に乗ろうとする歌人探偵を俳人探偵が引き止めたりしながら——二人が辿り着いたのは、チェーンの喫茶店である。俳人や歌人の巣窟である貸し会議室を併設していることで知られている。

「三号室だな」

 ホワイトボードに書かれた名前を確認し、三号室の扉を開けると、そこには先週事務室を訪れた、真面目そうな男の姿があった。

「時田さん。どうも」

 俳人探偵が声をかけた時、

「探偵呼ぶのなんか反対だっつったのに」

 ハスキーな声が会議室に響き渡り、二人を驚かせた。

「夏海、失礼だぞ」時田の神経質そうな声が遮る。「すみません、お二人とも。お気になさらないでください。こちらが夏海です」

 時田は二人に向かって恐縮する。

「実は句会の中でも、探偵さんにご相談することに関しては意見が割れて——。句会に他人を呼ぶのは嫌だって」

「俳句は推理小説じゃないんだからさ」

「あー、夏海、さん……?」歌人探偵がちらりと俳人探偵を見て、おそるおそる手を差し出す。「よろしくお願いします」

「へえ、俳人探偵さんって二人いたんですか?」

 明るく高い声がそこへ割り込む。「こっちの俳人探偵さんはあんまり俳人って感じしませんね」

「あ、僕は歌人探偵なので。俳人探偵の相棒なんです」

「ただの同僚だ」

 俳人探偵が訂正する。

「えーと、あなたは……?」

「あ、冬緒です」

「よろしく」歌人探偵が手を差し出す。

「歌人か、ますます気に入らねーなあ。短歌って何で三十一文字も必要なんだよ」

「そんなこと言うものじゃありませんよ、夏海さん。わたくしは短歌も好き。若山牧水なんていいわよね。正岡子規だって、短歌と俳句両方やってましたものね」

「春江さん、ですね」

「あら、まあ、わたくしとしたことが挨拶もせず失礼しました。わたくし、句会にお客様がいらっしゃるのはいつだって歓迎なの。わたくしたち、俳句のお友達が少ないものですから。ほら、秋彦くんもご挨拶なさいな」

「秋彦くんは私たちのなかでもとりわけ人見知りなんですよ」

 時田が注釈を入れる。

「秋彦くんも探偵を呼ぶことには反対派ですか?」

 歌人探偵が声をかけると、ようやく秋彦が

「まあ、正直言うと……」

 と小声で答えた。「別にお二人に含むところがあるわけじゃないですよ。でもあんまり知らない人が句会に来るのは……」

「でも新人賞に出しているんだろう? そんなに人見知りで、授賞式に行くことになったらどうするんだ?」

 俳人探偵の無神経な質問に、

「その時は……ここの人の誰かに代わりに行ってもらおうかなって」

 と秋彦は小さく肩をすくめた。

「もう、俳人探偵、秋彦くんを怖がらせちゃったじゃない」

 歌人探偵が小声で嗜める。

「句会は馴れ合うためにやってるんじゃないからね」

 と俳人探偵は涼しい顔だ。

「さて、挨拶はこのくらいにして、句会を始めましょうか」時田がまとめに入る。「それとも、探偵さん、一人ひとりに何か聴取したいことでもあれば——」

「ない」

 俳人探偵が首を横に振る。「謎はもう解けている」

「え!」

 時田の顔に驚きの表情が浮かんだ。

「それでは、この事件は——」

「いや、せっかくの句会だ。謎解きは句会の後といこう」

 時田は物言いたげな顔をしたが、

「わかりました」

 と答えて、

「席題は——せっかく探偵さんが来てくださったんですから、『探偵』としましょうか。もうひとつは、探偵さんが決めてくださいますか?」

「では——『声』で」

 と俳人探偵。

「そうだ、席題があるんだった……」と頭を抱えたのは歌人探偵。「当季雑詠三句捻り出すだけでも大変だったのに。君、歳時記貸してくれない?」

「私も使うんでね」と俳人探偵はにべもない。

「冷たいなあ。まあいっか、ネットにもあるから」

「インターネットにも歳時記が載っているのかい?」

「そうだよ。『探偵』は季語じゃないんだよね?」

「季語なはずがあるか」

「俳人は即詠が得意だよね。即詠って言わないのか。皆さんも席題はお得意なんですか?」

「あたしは苦手」夏海が答える。「遊戯性が強すぎるっつーか。俳句には思索的な深みがないと」

「俳句の醍醐味は遊戯性だろう」時田が反駁する。

「私も席題好きだな。定型というのがまず外部から与えられた題だから。その題にいかに応答するかだよね」と冬緒。

「……同じだったら、違う人格である意味がない、か」歌人探偵がつぶやく。

「無駄話をしている場合じゃないぞ。句はできたのか?」俳人探偵が歳時記から顔を上げずに注意する。

 会議室から店内に出て外部の人間とコンタクトを取る、という推理を歌人探偵は思い出したが、会議室からは誰も出ていく様子がなかったし、その推理が外れていることは歌人探偵もとうにわかっていた。全員が黙り込むと、会議室は人数に不釣り合いに広く感じられた。

 やがて短冊の山が積み上がり、分配され、清記用紙が配られる。

 騒ぎはその時起きた。

「六枚ある……」

 冬緒が不安げな声を上げた。

「私のもだ」

 時田が沈痛な声を出す。

 次々に声が上がる。数えてみると、七人中五人の手元に六枚の短冊が配られたことが分かった。

「七人で五句出し、それを七人に分けたから、一人五枚のはずなんだ。それが、六枚目の短冊が五人分あるということは——作者不明の句はちょうど五句。一人分ある」

 ちょうど一人分です、と時田が繰り返す。

「私はこの日を恐れていたんです。何かが起こるのではないかと……」

「安心してください、時田さん」と歌人探偵が声をかける。「何も悪いことは起きません。句会を続けましょう」

「……わかりました」

 時田は意を決したように清記用紙を手に取る。

「筆記用具を忘れちゃった、貸してくれない?」

「全く、呆れたな君は。歌会にも筆記用具を忘れていくのか? その熊には何が入っているんだ」

 そんなやり取りがあったほかは、清記と選句は何事もなく進んだ。

「……やっぱりこの作業、Wordで詠草一覧を作っちゃった方が楽だと思うけどなあ」

 早々に清記と選句を終えた歌人探偵は、時田の指先で忙しなく動くブルーブラックのインクのボールペンを眺めやりながらつぶやく。

「……今度ばかりは、僕も同意するよ」

 手持ち無沙汰になった俳人探偵も囁き返した。

 句会もまた、おおむね何事もなく進んだと言えよう。作者の名乗りの番のたびに、場に緊張が走ったことを除けば。

「——それではそろそろこの句を締めたいと思います」

 白熱した講評が済んだ後、時田が淡々と告げる。「この句どなたですか?」

 沈黙。

「この句どなたですか?」

 時田が語気を強めて問い直す。

 誰も名乗り出ない。

 時田の顔に様々な表情が次々に走った。

「まあ、気にせず。次に進みましょう」と歌人探偵がとりなす。

 そんな場面が、句会の中で合計五回、繰り返された。

 作者不明の句すべてに票が入ったことになる。

「これで、票の入った句は全部です」

 最後に時田が告げた。

「僕の句、一句しか票が入らなかったなあ……」

 悲しげに歌人探偵がつぶやく。

「歌人さんの作った俳句、って感じでしたよね」冬緒が明るく言う。「いかにも下の句がありそうっていうか」

 鼻を鳴らしたのはおそらく夏海だろう。

「……それで、探偵さん」と時田があらたまった声を出す。「この事件の謎が解けたと仰いましたが」

「ああ」俳人探偵が立ち上がり、ゆっくりと机の周りを歩き始めた。「時田氏は、この句会を妨害しようとする外部の者か、句会を撹乱しようとする内部の者がいることを懸念していた。だがそのどちらでもない。時田氏、春江氏、夏海氏、秋彦氏、冬緒氏、この中のいずれも犯人ではない。しかしながら、外部犯でもない。では、どういうことか? 時田氏、あなたは、この句会の参加者が五人だと言っていた。しかし、ここにはあなたの知らない、『もう一人』の参加者がいたのだ」

「もう一人、ですか……?」

 時田が目を丸くする。

「人見知りの秋彦氏も安心したまえ。それは君にとって見ず知らずの他人ではないのだから」

 秋彦が口ごもった気配がある。

「端的に言おう。この事件は、ある参加者の、『もう一つ』の人格によって引き起こされていたのだ」

「……多重人格、というわけですか」

「そう。知っての通り、一つの身体に複数の人格が宿ることがあり、それらの人格は互いに性格も違えば、話し方や筆跡も異なると。それなら——句風も違って当たり前だろうね」

 時田が唾を飲み込む。

「俳句を続けていくうちに、ここにいる一人の俳人の中で、もう一つの人格が育ち始めたのだ。俳句観も違えば、句風も違う、もう一つの人格が。それは、一つの人格に統合するにはあまりに大きな違いだったのだろう。その人格はやがて、自分も句会に出たいと思うようになった。そして、短冊を持参し、もう一人の人格が気付いていない隙に、自分の句を句会に紛れ込ませた。その人格はまだ初心者で、はじめは句も拙かったのが、短い間に上達し、自分の句に票が入る喜びを知り、より多くの句を句会に出すようになった。そして今日が、その人格が初めて一人分の句を出した日となったのだ。

 ——多重人格者の複数の人格は、記憶を共有していることもあれば、していないこともあるそうだね」

 俳人探偵の目は、ぴたりと一人に向けられている。

「その人格の持ち主は、そう——」

「俺です」

 聞き慣れない、低く嗄れた声が、時田の口から漏れた。「俺がこいつの新しい人格、この句会の『六人目』です」

「あーあ」と夏海が舌打ちした。「あたしは気付いてたんだよ、こいつの中にもう一人『いる』って。だから探偵を呼ぶのは反対だったんだ」

「俺はずっと、句会に出てみたくて——。こいつが混乱することはわかってたけど、俺の句がどう読まれるのか、知りたくてたまんなかったんです。こいつの体の中で、誰にも知られずに一人ひっそりと俳句を作っているのは寂しすぎる」

「『六人目』氏、名前は」

あらた。新年の、新」

「いい名前だ。新さん、あなたもこれからは、句会に句を出すだけではなく、清記にも選句にも講評にも参加することだ。そして胸を張って作者として名乗り出たまえ。あなたはれっきとした、一人の俳人なのだから。一つの体で複数の人格が清記をするのは時間もかかろうが、そこから参加するのが句会の醍醐味だ。時田氏とも、他の方々ともきちんと話し合って、まあ別に仲良くする必要はないのだから、他の方々のように喧嘩をしつつ、共存していく道を探すことだね」

 俳人探偵がそう言うと、新は目を潤ませて、

「探偵さん、ありがとうな」

 と言った。


「また句会に来てくださいね。もちろん、歌人探偵さんも一緒に」

 句会から帰る時、五人のメンバーは口々に別れを惜しんだ。

「まあ、あんたの俳句は修行が必要だからな、歌人さん」

「もう見ず知らずの人じゃないから……また、来てもいいですよ」

「わたくし、短歌にも推理小説にも興味がありますの。歌会があったら呼んでくださらない?」

「あの……ありがとうございました」

「ありがとうな。俺、俳句がんばるよ」

 五人——いや、六人のメンバーは。

「探偵さん、どうやって謎を解いたんですか?」という問いに、俳人探偵は「企業秘密だ」と答えた。


「それで、どうして下の句を省略したの?」

 夕闇に冬の星がほのかに姿を見せ始めるのを見上げながらの帰り道、歌人探偵は俳人探偵にそう聞いた。

「下の句? 何のことだい?」

「もう、しらばっくれて。君の推理はよかったよ。でも——下の句が足りないね。そのままでは不完全だよ」

 身を切るような風に乗り、クリスマスソングが流れてくる。

「なんで言わなかったの? 新さんだけじゃない、春江さんも、夏海さんも、秋彦くんも、冬緒ちゃんも——時田さんの人格の一つだと。

 言ったでしょ、誰も欠席せず、遅刻もしていないのはおかしいって。僕の勘は間違っていなかった。その謎に対する答えがこれだよ。 

 時田さんは高校生の時につらい目に遭ったそうだね。その時に彼は人格の乖離を生じ、新たにできた人格が、朗らかでユーモラスで、人生経験の豊かな、俳句愛好家の女性、春江さんという人格だ。時田さんは彼女の助けを借りてつらい時期を乗り切り、更に俳句を始めた。俳句にのめり込むようになった大学生時代、彼の中で対立する俳句観がぶつかり合うようになった。それは彼にとって相容れないものだった。そうして分離した人格が、俳句の遊戯性より芸術性を重視する夏海さんだ。大学を卒業して会社に入ると、彼はまた困難に直面した。仕事が大変だったんだろうね。そこで彼は会社に通う人格として秋彦くんを作り出した。秋彦くんもやがて俳句を始めた。そして、俳句でもっと冒険をしたいという気持ちから、無季や自由律に挑戦する若き俳人、冬緒ちゃんが生まれた。新さんもまた、時田さんの中で新しい俳句観や句風が生まれた結果目覚めた人格なんだろうね。

 ううん、もっと言うと——時田四季文も多分、彼の人格の一つなんだ。だから会社に時田四季文という従業員はいなかったし、この社会のどこにも時田四季文がいなかったんだ。

 そうでしょう?」

「——俳句に下の句をつけるのは、無粋だよ」

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俳人探偵と歌人探偵の事件簿 川野芽生 @umiumaya

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