俳人探偵と歌人探偵の事件簿
川野芽生
プロローグ
K寺駅から数分。再開発の進んだ駅南側とは対照的に、北側には時代に取り残されたような雑然とした街並みが広がる。白い螺旋の外階段がテラスからテラスを繋いでいるこの雑居ビルは、中でも古めかしい。
一階に喫茶店、二階に古着屋の入ったこのビルを、不吉に軋むエレベーターで五階まで。すると、一つしかない扉の横に二つの看板がかけられているのが目に入る。
一つの看板にはこう書かれている——「現代俳人探偵事務所」。
そして、もう一つの看板には——「現代歌人探偵事務所」。
この扉を叩く人は、今はいない(なお、インターフォンにはセロテープで短冊が貼り付けられ、そこには「故障中。ノックしてください」と書いてある)。
扉の内側にあるのは、テーブルとそれを挟むソファセット、それに本棚でいっぱいになってしまう狭い部屋だ。奥側のソファには、黒いスタンドカラーのシャツを着た人物が座り、机上のノートに向かっていた。テーブルには、その辺と平行に歳時記や句集が置かれている。
「どうしても冬の句が足りないな……」
そうひとりごちると、背後の出窓に向かって、振り向くことなく呼びかける。
「おい、何か題をくれないか」
出窓には、パーカーのフードをすっぽりとかぶった人物が脚を投げ出すように座り、ドーナツを齧りながら歌集を読んでいる。こちらの人物も顔を上げず、
「ユニコーン」
と答えた。
「どうして君は目に見えないものの話ばかりするんだ」
スタンドカラーの方——俳人探偵が不満げに声を挙げる。
「君が見ようとしないだけだよ」
「まったく、非科学的なことばかり言って、それでも探偵か」
「君こそ常識に囚われてばかりで、それでも探偵なの?」
「ユニコーンが出てくる事件なんて聞いたことがないぞ」
「推理小説の嚆矢、『モルグ街の殺人』を思い出してみたら?」
言い合いを始めると止まらない二人である。
「……それで、連作は進んだのかい」
やがて話の筋道を見失った俳人探偵が尋ねる。
「進んだよ。二首減った」
「減ってるじゃないか」
「君の方はどうなのさ」
「これから冬の句を作らなくてはいけない」
「今は春だけど。君は見たものを句にする主義でしょ?」
「だから今、冬に見たものを思い出してる」
「見たものを詠む主義も大変だねえ」
歌人探偵は肩をすくめる。
「事件がないと句作が進むよ、まったく」
「これではどちらが本業かわからないね」
「探偵が本業だったのか、君は?」
「わからない。君は?」
「わからん」
俳人探偵は大きく伸びをして、ソファから立ち上がった。
「とりあえず一旦茶でも淹れるかな」
すると歌人探偵はすかさず、「どうもありがとう」とかぶせた。
君の分まで淹れるとは言ってないんだがな……という言葉を俳人探偵は飲み込んだ。これが歌人探偵の常套手段なのである。生活感を短歌に持ち込みたくない——などと嘯いているが、その実一人では湯も沸かせないだけなのだ。
まあいい、生・即・吟だ。茶を淹れるのも句作の種になる。俳人探偵は薬缶の中で沸き立っていく気泡をうっとりと眺めた。細部だ。俳人探偵はこういう「細部」を見るのがたまらなく好きだった。
茶と言えば、茶摘みは春の季語、新茶は夏の季語、茶の花は冬の季語——。山茶花も冬の季語だ。冬の花は他に、石蕗の花、柊の花、枇杷の花——。冬に飲む茶はどんなものだったろう。寒いと温かい茶が沁みる、などという発想は月並だな。月と言えば、冬の月。などと頭の片隅で季語を転がしながらも、手は適切な頃合いで火を止め、湯冷ましに湯を注いでいく。
台所から戻ると、歌人探偵は二つ目のドーナツに手を伸ばしているところだった。
「よくそんなに甘いものが食べられるね」
俳人探偵は眉を顰める。
「歌を作っている時は糖分を消費するんだもの」
「推理する時もそう言っているくせに」
そう言いながら湯呑みを差し出すと、
「あっ、ちょうどお茶が飲みたかったんだよ。どうしてわかったの?」
と調子のいいことを言いながら両手で受け取った。菓子ばかり食べているくせに、パーカーの袖から出た手首は不健康に細い。
俳人探偵は自分の湯呑みをテーブルに置くと、本棚から大きな帳面を取り出して隣に並べた。表紙には几帳面な字で「俳人探偵事件簿」と書かれ、その「俳人探偵」と「事件簿」の間に丸文字で「と歌人探偵の」と無理矢理書き足されている。
「何やってるの?」
「去年の冬に起きたことを思い出すんだ」
そう言って、俳人探偵は重たい帳面を開く。
「色々あったよねえ」
歌人探偵はそう言いながら、後ろから帳面を覗き込んだ。
「初版句集窃盗事件とか……連句見立て殺人とか……短歌剽窃事件とか……
そう、これはそんな彼らの事件簿である。
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