何の音

宇部 松清

第1話 

 これは、私が社会人になって数年目の時のお話です。

 具体的に何年目だったのかは、もう20年近くも前のことなので覚えていませんが、恐らくは2年目か、3年目か、まぁとにかくそれくらいの時だったと思います。ピチピチの20代前半の時のことです。


 新卒で配属されたのは地元、北海道。それも大都会札幌での営業職でした。ですが、どうにも結果がふるわず、わずか1年で別部署、且つ、津軽海峡を越えた秋田県の支社に異動になりました。まぁ、有り体に言えば左遷です。


 ですが、外回りの営業ではなく内勤(多少の営業要素はある)となりましたので、そもそもが内勤希望であった私としては願ったり叶ったりではありました。


 営業の時は、取り扱う商品の関係上、女性はスーツではなくラフな格好で、ということだったので、ジーンズにシャツ、そしてスニーカーといった、色気も遊び心もない服装でした。ですが、内勤となればもう色々自由です。スカートも履けるし、パンプスやハイヒールもイケます。髪の毛だってくるんくるんに巻いても良いのです。憧れていたOLになれるのだと、少々浮足立ちます。


 アラフォーとなったいまでは考えられないことですが、明るい色の服を着ていましたし、スカートも履いていました。ヒールのある靴も履いていました。髪の毛の色こそ真っ黒でしたけど、耳の下で二つに結い、くるんくるんに巻いていました。当時はパーマをかけていたのです。ウェーブではなく、縦巻きロールになるような、なんかそんな感じのパーマでした。


 自分史上、かなり上位に食い込むおしゃれっぷりで、いまと比べると相当可愛かったはずです。


 さてその内勤業務ですが、勤務時間は13時から22時でした。顧客とのやり取りがだいたい15時くらいから21時までで、その後事務処理やらなんやらをして22時に退勤となるわけです。


 当時住んでいたのは会社から徒歩10分圏内の借り上げ社宅。女性社員は防犯上、優先的に会社の近くをあてがわれたのです。とはいえ、もう夜もどっぷりと更けた22時です。コンビニに寄ったりなんやかんやすればあっという間に22時半も過ぎます。


 その日もいつものようにあれやこれやしてとぼとぼ歩いておりました。そして、横断歩道で信号待ちをしている時、その『音』は聞こえたのです。


 ジジッ、と、何かが焦げる時のような音とでも言いましょうか。

 バチバチッ、と何かが爆ぜる時のような音とでも言いましょうか。


 例えるなら、火の消えた花火を水の中に入れた時のようなジジッ。

 あるいは、その昔、コンビニの外に設置されていた電撃殺虫機に虫がかかった時のバチバチッ。


 そんな音でした。


 そんな音が、はっきりと耳に届く距離で鳴っているのです。どちらにしても何となく物騒なカテゴリの音ではあります。


 しかも時刻は22時半です。

 それなりに広い道路ですので、一応住宅街よりは明るいです。営業中のお店はほぼありませんが、まだ街灯も多い方。けれど、せっかくの二車線道路ですが車通りは少なく、静かな夜でした。


 そんな静かな夜に、『ジジッ』だの、『バチバチッ』だのという物騒サウンド。しかもそこそこの音量で。


 何だ。

 何の音だ。

 どこで鳴っているんだ。


 わかっているのは、『確実に私の近くで鳴っている』ということ。

 近くといっても、数メートル先とか、そういうことではありません。


 なんなら、息のかかる距離、といいますか。

 恋人が愛を囁く距離、といいますか。


 とにかくそれくらいの距離です。


 何だ。

 誰だ。

 何の音だ。


 じわ、と嫌な汗が流れます。


 もしかして、の可能性に気付いて、ぞわり、と背筋が寒くなります。


 その『もしかして』を確かめるべく、恐る恐る、髪の毛に手を伸ばしました。


 耳の下で二つに結わった、くるくるに巻いた髪です。その、確か右の方の束だったように思います。


 私の手がそれに触れた時、再びその音は聞こえて来ました。


 ジジッ


 バチバチッ


 意を決して先端を掴み、大きく振ります。


 と。


 バチバチッバチバチッバチバチバチバチバチバチッ!


 明らかに暴れています。

 私の髪の毛の中で。

 

「きゃあああああああああ!!!」


 バッタでした。

 結構な大きさの、なかなかに立派なバッタでした。


 一体何がどうなって潜り込んだのかはわかりませんが、バッタが私の髪の毛の中にいたのです。何せ、太さ、硬さ、量、どれをとってもSランクの強さを誇る我が剛毛です。いくらそこそこの大きさの昆虫とて、囚われればそう簡単に抜け出せるような代物ではありません。入るのは簡単でも、出るのが大変なのです。最早天然の罠。その昔、『海外の大学は入るのは簡単だが、出る(卒業)のは難しい』なんて話を聞いたことがあります。それです。まさか我が身に海外の大学を搭載しているとは思いませんでしたが、どうやらそのようなのです。


 とにもかくにも哀れな囚われのバッタは無事に脱出し、元気に秋田の夜の闇へと消えていきました。


 私はしばらくその場から動けませんでした。

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