かげろうとんぼ

入江 涼子

第1話

  真夏の夕暮れ時、ヒラヒラと独特の飛び方をする蜻蛉とんぼを見かけた。


 私が不思議に思い、目で追うと。傍らにいた夫がぽつりと呟く。


「……お、今時はよく見かけるな」


「そうなの?」


「ああ、あれはな。昔に親父が名前を教えてくれたよ、確か。蜉蝣蜻蛉って呼ぶとか聞いたか」


「へえ、カゲロウトンボね。綺麗な蜻蛉だわ」


「だろ、あれは飛び方が蜉蝣に似ているからな。そう呼ばれ出したらしいぞ」


 ふむと言いながら、私は黒にも翡翠にも見える美しい肢体と透明ながらに、光沢がある翼をじっと見つめた。けど、蜉蝣蜻蛉かげろうとんぼは物言わずにふよふよと頼りなさげに飛ぶだけで。地面に降り立つと、水を吸い始めたらしい。興味を無くして私は夫に帰宅を促したのだった。


 自宅に帰り、夕食の用意を同居している実母と行う。今日は素麺そうめんだが。大鍋に実父や実母、夫に私、息子達の分の乾麺を放り込んでいった。合計して七人分あるから、湯がくのには時間が掛かる。


「……透湖とうこ、さっきの事なんだけど」


「なあに、母さん?」


いつきさんと散歩してきたでしょ、何を話していたの?」


「ああ、さっきね。蜻蛉について、樹に教えてもらっていたのよ」


「……蜻蛉?」


 実母もとい、母は呆気に取られた表情になる。私は簡単に説明をした。


「散歩をしていたら、偶然にヒラヒラと飛ぶ蜻蛉を見かけたの。黒や緑色に見える体に、透けた感じの羽を持ってるんだけど」


「あ、蜉蝣蜻蛉の事ね。私も昔に、お祖父ちゃんに教わったわあ。あんたも樹さんに教わったのね!」


「うん、子供達にも後で教えてあげようかなとは思ってるよ」


 そう言ったら、母は笑った。


「それがいいわ、彰人あきと衣和いより浮月うづき達も興味を持つかもね」


「確かに、特に衣和は蜻蛉が好きだから。興味を持ちそうだわ」


「うん、それよりも。透湖、お鍋が吹きそうよ」


「……あ、忘れてた!」


 私は慌てて、コンロの側に行く。本当に吹きこぼれそうになっていた。急いで、水を入れたのだった。


 素麺が茹で上がり、冷水でしめた。ボウルを水受け容器にしてから、氷を投入する。ガラス製のお皿に錦糸卵や細切りのキュウリ、同じようにしたハムを盛り付けた。トレイにそれらを載せてテーブルに運ぶ。


「あ、素麺だ!ラッキー、お腹減ってたんだよなあ」 


「あら、お帰り。彰人」


「ただいま、母さん!着替えてくる!」 


「後で、手も洗ってきなさいよ!」


「はーい!」


 息子で長男の彰人は元気良く、返事をして二階に上がって行った。バタバタと足音がして相変わらずだなと苦笑いしたのだった。


 その後、次男の衣和や長女の浮月も帰宅する。ちなみに、彰人が高二で衣和は中三、浮月も中一になっていた。

 皆、食べたい盛りだ。たくさん作ってもすぐに無くなるだろう。そう思いながら、副菜として小松菜のお浸しや茄子の鍋しぎを用意した。


「母さん、着替えも済ませたし。手も洗って来たよ」


「彰人、一番乗りね」


「うん、素麺も鍋しぎも俺の好物だしな!」


「……お兄、早いね」


「あ、衣和。後ろからいきなり、声掛けんなよ。驚くじゃねーか!」


「お兄がうるさ過ぎるんだよ、ちょっとは父さんを見習ったら?」


「ちぇっ、衣和はすぐ口ごたえするんだよな!生意気だぞ!」


 衣和がチクリと言うと、彰人がムッとして怒鳴る。あ、これは雲行きが怪しくなって来たわね。止めないと。そう思っていたら、さらに浮月がやってきた。


「……お兄ちゃん達、何やってんの」


「あ、浮月。聞いてくれよ、衣和が俺の事をうるさ過ぎとか言うんだ、酷いと思わね?」


「うーむ、衣和兄ちゃんは確実に言い過ぎだよ。彰人兄ちゃんに謝って」


「……さっきは悪かったよ、お兄。浮月の言う通りだ」


「うん、仲直りは出来たね。お兄ちゃん達、今後は気をつけてよ!」


 浮月は満足したように言うと、台所に来た。


「母さん、あたしも手伝うよ」


「あ、そうなの?じゃあ、素麺用の器とお浸し用と鍋しぎ用の小皿を持って来て。そっちにお祖母ちゃんがいるから、一緒にしたらいいわ」


「分かった!」


 浮月は返事をして、母の元に行く。二人で食器の準備を始めたのだった。


 夜の七時になり、夕食の時刻になった。両親に私と樹、子供達が台所に集まる。


『いただきます!』


 皆で食卓を取り囲む。やはり、両親や私達よりは彰人達はよく食べる。特に、次男の衣和はスピードが早い。あっという間に素麺や鍋しぎ、お浸しが無くなる。


「母さん、ご飯もちょうだい!」


「分かったわ、ちょっと待っててね」


 食器棚に行き、お茶碗を取った。炊飯器から、軽くご飯をよそう。衣和に持って行くとさっと受け取る。


「やっぱり、お腹減ってる時はお米が一番だよ」


「……そうね」


 衣和はそう言って、カツオの振りかけをたくさん振った。パクパクと食べ出す。


「んまい!」


 満面の笑顔で平らげた。私や樹は驚きで、固まったのだった。


 夕食後に彰人や衣和、浮月に蜉蝣蜻蛉について教えてあげた。やはり、予想していたように衣和が一番興味を示す。


「俺さ、蜉蝣蜻蛉って不思議な虫だなと思ってたんだ!」


「へえ、どう言う風に不思議なの?」


「えっと、見かけは儚げな感じなのに。あれで蜻蛉なんだから、不思議だなって思ったんだよ」


 確かになと思う。さすがに、昔から昆虫好きなだけはある。


「俺は蜉蝣蜻蛉、しょっちゅう見かけてたよ。小さな頃に、父さんの実家に遊びに行ったじゃん。そん時はたくさんいたなあ」


「あたしも覚えてる、栃木県のお祖父ちゃん家ではその蜻蛉をよく見かけたね。懐かしいなあ」


「あら、皆知ってたのねえ。拍子抜けしたわ」


 そう言ったら、子供達は苦笑いする。


「仕方ないよ、母さん。虫、あんまり好きじゃないしね」


「まあ、セミや蝶々は大丈夫なのよ。ただ、アリやバッタは駄目なの」


「けど、コオロギや鈴虫とかは平気だもんね」


「そうね、鈴虫とかは鳴き声が綺麗だから。嫌いではないわ」


「だよね、お兄ちゃん達もアリやバッタで母さんにイタズラしないでよ。父さんやお祖父ちゃん達に言うからね?」


『今更、んな事はしねーよ!』


 浮月が注意したら、見事に彰人や衣和はハモリながら答えた。私はクスリと笑う。樹や両親は微笑ましげに眺めていたのだった。


 夜は更け、私は夕食の後片付けを済ませた。入浴したら、すぐに寝ようと決める。

 二階に行き、着替えやタオルを取りに行く。実家はもう、築四十年近くは経つ。そのせいか、床や階段を通るたびにギシギシと音が鳴る。まあ、仕方なくはあるか。そう思いながら、寝室のドアを閉めた。私も四十一歳、樹も四十三歳だ。年月が過ぎるのは早い。ため息を軽くつきながら、一階に降りた。

 浴室に向かい、入浴を済ませに行った。


 入浴も終わり、寝室にて樹よりは先に就寝した。やっと、ゆっくり休めるわ。うとうとし始めたら。樹が入って来た。


「透湖、もう寝てたのか?」


「あ、樹。そうよ」


「起こして悪かったな、俺も寝るわ」


「うん、おやすみ」


「おやすみ」


 私が言うと、樹は頭を軽く撫でながら答える。すぐに、手は離されたが。ちょっと、名残惜しくはある。けど、樹は気づかずにベッドのサイドテーブルにある照明を消した。辺りは真っ暗だ。しばらくは落ち着かない時間を過ごしたのだった。


 ――終わり――

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