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 しかしその日、忌まわしい事実が彼女を襲った。慮外の事実が彼女の前に姿を現した。


 その日、彼女は会社からの指定で有給休暇を取っていた。出掛ける用事もなく、これといった予定もなく、ふと思い付いたまま、ソファに横たわってブランデーのグラスを傾けながらDVDを鑑賞していた。大昔に発売されたバレエの名盤だった。


 名高い女優が舞台に上り、飴細工のような腕や脚を無限のように伸ばしながら、永遠のように踊っていた。


 舞台の上は現実世界ではなく空想的な空間だった。女優がいるのは照明の明暗によって外の世界と隔絶された芸術世界。女優は人間ではなく芸術の一部と化して壺中の天地に舞っていた。


 物語も佳境に入った頃、インターホンが鳴らされた。彼女はDVDを一時停止してモニターを確認しに行った。そこに映っていたのは彼だった。


 意外な人物に驚きながらもオートロックを外し、彼が部屋まで来るのを待った。口にしたグラスが空になり、もう一杯分、ブランデーを注いだ。


 扉を開けて迎え入れると彼は、やや青褪めたような顔色をしていた。リビングのソファに座らせて、何を飲むか聞いた。彼はしばし迷った様子を見せてから、ミネラルウォーターをお願いした。


 彼女はキッチンからペットボトルとグラスを持って来、注いで渡した。彼は少しの間、グラスを手の内で弄んでから、ようやくそれを口にした。それでやや落ち着いたようだった。彼女は聞いた。


──今日は仕事じゃなかったの?


──うん、まあ、ちょっとあって、今日は休んだ。


 ちょっと、とは何だろう。凪ぎ渡った彼の生活、内情に似付かわしくないイレギュラーに心が騒めいた。自分でも意識しないままに彼をじっと見詰めていた。彼もまた思い詰めたように彼女を見詰めていた。


 ようやく彼の視線に気が付くと、どうしたの? と若干の作り笑いを浮かべて聞いた。


──いや、何でもない。


 彼はグラスをテーブルに置いた。コトリと音がした。そして何でもないように、ふっと思い出しかのように、素っ気なく聞いてきた。


──そう言えば、貴女はどうしてまた、私なんかを好きになったんですか。


 彼女は答えに少し窮した。しかし初めの頃を思い出し、どうにか答えた。


──さあ。何でだろう。最初は、ただの同僚としか思ってなかったんだけど、一緒に食事をしてみて、話をしてみて、何となく、いいな、と思うようになって。


 内面が空虚に感じられたとは言えずに、


──綺麗な人だな、って。


 彼の眉はやや曇った。それで納得は出来なかったのだろうか。また彼が問い掛けた。


──貴女は、私が好きなんですか?


 一瞬、ドキリとした。それはつまり、自分が彼の内面を存在していないと思っている、とバレたということなのだろうか。思わぬ言葉に吹き出したように見せて誤魔化し、


──なに。どうしたの、急に。不安なの?


 彼は何も答えなかった。彼女は安心させるようなにっこりとした笑顔を作って見せて、


──大丈夫だよ。私は貴方のことが好き。安心して。


 その言葉を聞いて彼の表情に浮かんでいた悩みの色は一層に濃くなった。彼女はそれを払拭しようと、


──私は貴方のことが好き。納得出来ない? 好きな理由をもっと言った方がいいのかな。それじゃあ、そうだね。


 思考の糸を紡ぎ合わせた。


──理由は、それじゃあ、ない、かな。私が貴方を好きな理由なんてない。


 彼女は続けた。


──例えば、そうだね、私が貴方の顔が好きだったとするでしょう? それじゃあ、貴方が事故に遭ったりなんかして顔が変わったら嫌いになるの? そんなことはない。例えば貴方の性格が好きだったとする。それじゃあ貴方の機嫌が悪くていつもと態度が違ったら嫌いになるの? そんなことはない。例えば貴方と一緒にいて楽しいから好きだったとする。それじゃあ貴方と喧嘩をしてしまったら嫌いになるの? そんなことは有り得ない。


 そう言いながら彼の表情を伺っていた。しかしそこから何も読み取れなかった。彼の心も、自分の心も、そこには映っていなかった。妙な焦りを感じ始めた。


──だから、ね、好きという感情に理由なんてないんだよ。好いた惚れたに理屈なんてない。むしろ逆に、理由があるならその人は相手のことを好きじゃないの。理由がなくなったら好きじゃなくなるんだからね。そうでしょう? だけど、そうだね、敢えて言うなら、私は貴方という存在そのものが好きになった。貴方の本質というようなものが好きになった。


 半分は本当のことだった。彼女はたとえ彼の顔が変わろうと性格が変わろうと、どのような要素が変わろうと、これまでと同じように愛していただろう。


 しかし好きになった理由はあった。それはまさに彼女から見た彼の存在、本質として見ていた部分だった。彼は空虚だ。空っぽの人形だ。


 やや間を置いて、彼は応えた。


──何となく、分かる気がします。


 彼女は安堵の息を吐いた。


──ふふ。良かった。


 それから彼は一つ大きな息をして、意を決したようにして言った。


──私は、貴女の顔が好きです。貴女の性格が好きです。一緒にいて楽しいから好きです。他も含めて貴女のあらゆる全てが好きです。


 彼女は眉を寄せた。その下の目が不安に泳いだ。


──どういうこと。


──私は貴方のことを、とても優しくて、素晴らしくて、素敵な人だと思います。女性としても人間としても。貴女を好きになる理由は幾らでもあります、貴女を構成するもの総て、行動の総て、些細な仕草やちょっとした癖の一つ一つまで。貴女の総てが、私は好きです。


 彼は息を呑み、そして続けた。


──だけど、結局、私は貴女に惚れることはありませんでした。


 一呼吸を置き、


──貴女を好きになれたのならばどんなに素晴らしかったことか。だけど、結局は、貴女の言った存在そのもの、それに惹かれることはなかったんです。貴女は素敵な女性です。それでも、私は惚れ込むことが出来なかった。すみません。私は結局、そういう人間だったんです。


 彼の目は切実だった。


──私は、無感動な人間です。何かに強い感情を抱くことがない。貴女が私を好きになってくれて、それで何かが変わるのではないかと期待していた。それでも、やっぱり駄目だった。貴女であっても、駄目だった。


 思い詰めていた顔が、はっとしたようになり、


──ただ、勘違いはしないで下さい。貴女といるのは楽しかった。本当に楽しかった。それは本当です。貴女はとても優しかった。とても親しくしてくれた。貴女との交流は、本当に、とても楽しかった。でも、それは貴女が優しくて、楽しませてくれたから楽しかっただけで。


 しばし口籠り、それから続けた。


──私は、貴女に惚れることは出来ませんでした。だから、自分に正直になれば。貴女は、素敵な人でした。それは本当です。だから私は、貴女はとは。だから、貴女との付き合いは。もう。これでお終いにしたいんです。私は貴女と付き合うことが出来ないんです。貴女が悪いんじゃないんです、ただ偏に私が、私がそういう人間なんです。


 彼女は彼の言葉を受け止め切れずにいた。


──何で、そんなことを言うの。


──貴女に好意を持って貰っていながら、自分がこんなでは、余りにも酷いと思ったからです。


──そんなもの、私は気にしないよ。


──そんなはずはないでしょう。好きな人に愛されないのは辛いはずです。それから、自分を好いてくれる人を愛せないのも、私はつらい。


──そんなもの、たとえ私のことが好きじゃなかったとしても、少なくとも楽しかったんでしょう? それなら、そのまま、曖昧に付き合っておけば良いじゃない。


──ごめんなさい。私は、もう。本当に、何て言ったらいいのか。


 彼が苦しみ悩み抜いているのを見、それが本心、それが内奥の底から湧いているものだと彼女は察した。


──私は振られたのね。


──ごめんなさい。


──私は、貴方に。貴方の感情によって。貴方は自分の意志で。


──本当に、何て言ったらいいのか。


 彼女は首を振った。


──いいの。謝ることじゃない。私の見込み違いだっただけ。私は貴方をそんな人だとは思っていなかった。貴方はそんな人じゃないと思っていた。貴方は私の好きになった人じゃない。


 こんな意志や感情を発現させるのは、そんなものは彼ではない。


 三度謝ろうとする彼を抑えて、


──謝ったりなんかしないで。


 そして言った。その時自分がどんな顔をしていたか、彼女は分かっていなかった。


──だけど帰って。


 声は決して荒れていなかった。それでも否応を言わせぬ力があった。


──今、すぐに。早く。


 彼を部屋の外まで送り出した。彼は肩を落として自らの感情に沈み込んでいるようだった。後悔か罪悪感かどんなものかは彼女は察しようとも知りたくはなかった。そうしたものがあるとは思いたくなかった。


 扉を閉じる僅かな間、彼の視線を感じていた。しかし彼女は決して彼を見ようとはしなかった。彼の顔が見えないように、強い意志で目を背けていた。


 彼が帰ってどれだけの時間が経ってからか。彼女はグラスに入っていたブランデーを飲み干した。先程の遣り取りが思考の内で何度も回り続けていた。


 彼には意志が存在していた。いや、生まれてしまったのか。そしてその意志によって私は振られた。


 彼女はまた失望もしていた。彼は自分の望んだような者ではなかった。それであるなら別れ話はこちらから切り出したいくらいだ。


 それなのに振られた私は少なからずショックを受けている。では彼のことを、理由がなくなっても愛するようになったのか。そうなのだろうか。いや。


 それからまたどれだけの時間が経ってからか。乱麻の詰め込まれたような頭を洗い流そうとシャワーを浴びに行った。思考に疲れた頭脳はもはや何も考えたくなくなっていた。


 浴室から出た彼女は髪だけ乾かし、裸のままでリビングへ行き、壁一面に張られたガラスの前に立った。夕焼けに映えるミニチュアのような街並を見下ろした。


 高層マンション中層の一室。ガラスから差し込む夕陽を浴びて彼女の体は淫靡に染まっていた。外からも誰からも見られない場所で放心して佇む彼女の姿は、ショーケースに飾られた人形のようだった。

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