第三話

 似ていない。


 白い絹の装束に身を包んだ皇太子と対面し、紀彗は無礼にならない程度に彼の顔を見た。姉の張緋の儚げな美貌とは逆に、皇太子の黒々とした瞳やきりっと釣り上がった眉は亡き皇帝の生き写しである。まだ10歳ということだが、少年ながらに纏う威圧感は皇族というだけあって、流石のものだった。


「お初にお目にかかります。瑛紀彗と申します」


 深々と腰を折り、紀彗は正式な礼をする。


「お座りなさい。瑛紀彗」


 がらんとした居室に響いた声は、皇太子のものではない。傍に控えた皇女のものだ。月も傾くほどの真夜中である。眠たげに目を細める皇太子は今にもその場で眠ってしまいそうだ。彼の喪服は重たげに袖を引きずっていて、子供の体にはまるで合っていない。そういえば、と紀彗は思う。張緋が書房を訪れたとき、彼女は喪服を着ていなかった。


「ほら、殿下。今日から殿下を守ってくれるのよ。ご挨拶なさい」


 張緋は幼い弟の頬にかかった後毛を払いのけてやりながらささやいた。慌てて視線を落とした紀彗に、姉に促された皇太子がぼんやりとした声で何か言った。あまりにも小さな声で何を言ったのか聞き取れず、それでも紀彗は深々と頭を下げる。


 ここは宮廷の奥深く、翠雨殿すいうでんと呼ばれる場所である。皇族たちが住まう場所で、貴族でもめったに立ち入ることのできない神聖な場所である。そんな場所に易々と紀彗は立ち入ってしまっている。気後れする上に、ここはあまりにも寒々しかった。人の気配が全くないのだ。


 皇太子、張燕ちょうえんは想像していたよりも弱々しかった。色白で、眠そうな黒い目は血もなにも映したことはないだろう。


 頑兼の、弓を引く太い腕や広い背中を思い浮かべると憂鬱になる。白い真綿で包まれて生きてきた張燕があの男に勝てるわけがない。結果のわかった仕事であったが、不思議と投げ出したいという気は起きなかった。


「改めて、わたしの頼みを引き受けてくれたこと、感謝するわ。本当にありがとう、紀彗」


 張緋が言って、小さく頭を下げた。普段はかんざしですっきりとまとめられている黒髪は、さらさらと背中に流れている。その姿はやはり天女のようだと紀彗は改めて思った。


「いえ、お気になさらず。皇女殿下」

「命を引き換えにしてもらうのだから、こんなもの足しにもならないと思うけど」


 張緋がためらいがちに言い、胸元から赤い梅を模ったかんざしを取り出した。紀彗ににじりより、紀彗の手にそれを握らせる。柔らかい手が紀彗の無骨な手を優しく包み込んだ。


「都一の職人に造らせたものよ。これを売れば、普通の役人の俸給5年分くらいの値はつくはず」


 紀彗はふっと小さな笑みを浮かべた。金の柄に紅玉と翠玉をふんだんに使った梅が造形された、目の眩むような逸品だった。ろうそくの光を反射して、息を呑むほど大きな紅玉がなめらかな光を放つ。こういうところはまだまだ皇女様なのだな、と微笑ましくなった。


「なぜ笑うの?」


 むっとしたように言う張緋に、紀彗は首を振った。


「皇女殿下、ありがたいお言葉ですが、これはお返しいたします」

「なぜ? 遠慮ならいらないのよ」

「これほどの作品となれば、これを売る者、そして買う力を持つ者も限られてくる。そしてこれは皇女殿下のために作られたもの。私がこれを売るなどしたら、盗人としてあっという間に捕縛されてしまいます」


 張緋があっと息を呑み、恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「それもそうね。ごめんなさい。で、でも、何のお礼もなしなんて私が許せません。好きなだけ俸給を渡すから」


 紀彗が再び頭を下げると、張緋の背後からかたんと何かが落ちる音が聞こえた。見ると、張燕が玉座の肘置きに頭をもたれて眠り込んでいた。握っていた杓子が床に落ちた音だった。


「長居させてしまったわね、じゃあまた後で会いましょう」


 張緋はあわてて腰を上げ、弟の方に向かっていった。居室を辞しながら、さあ始まってしまった、と紀彗は苦い笑みを、けれどもどこか楽しげな笑みを浮かべたのだった。

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蝶鼠夢幻伝 かぐらみや @nyax-675

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