第二話

 なにもかもがちぐはぐだった。

 古ぼけた書房の小さな椅子に、豪奢な衣に身を包んだ美貌の姫が腰掛けていることも、文官に身を落としたしがない男が、皇女と向かい合っていることも。すべてが夢の中のようで、現実味がなかった。


(いや、夢なんじゃないのか……)


 呆けている紀彗を見上げ、今まで物珍しそうに書房を見回していた張緋がおもむろに口を開いた。


「単刀直入に言いますと、あなたに護衛を頼みたいのです。わたくしのではなく、弟の」

「……護衛、ですか」


 何が何だかわからず、紀彗はぼうっとしたまま繰り替えす。張緋がたじろいだように小さく視線をずらしたことで、彼女を無礼にも見つめすぎていたことに気付いた。皇族の目をまっすぐに見つめるなど、普段は許されないことである。しかし張緋は気高さを感じさせつつもどこか柔らかな親しみやすさを感じさせた。


 張緋は長いまつ毛を伏せ、わずかに眉根を寄せた。


「あなた以外、信用できる者はいないからです。皇太子派と自称する大臣も、親家の者たちもです。もはや周りは敵ばかり。父上が亡くなられ、皇太子派の土台は大きく崩れました」


 どうにか現実感をつかみ、張緋の言葉が頭に入ってくるようになった。話を聞き終えた後でも、紀彗は彼女の本心を読めずにいた。


「殿下。殿下がおっしゃることはどうにもよくわかりませぬ。父子ともども頑兼派の私に護衛を頼みたいなど――余計に信用できない男ではないのですか?」


 そう言うと、張緋は陶器のように白い頬に笑みを浮かべた。華やかな笑みではなく、どこかいびつな笑みだった。


「……紀彗。あなたが政治にも頑兼にも一切の興味がないことは周知のことよ」

「……」


 さすがに返す言葉が見つからず、沈黙が広がる。


「あなたのように、誰にも忠誠を誓わない、言うならば根無し草が私には必要なのです。それにあなたはもともと軍人だったとか。ますます護衛にぴったりではないの?」


 張緋は一切の口答えを許さない口調で締めくくった。紀彗は、自分がこの皇女を甘く見ていたことを悟った。今にもこぼれそうな牡丹の花のような可憐な顔の下に隠しているのは、鉄の仮面。硝子細工のように脆そうに見えて、一人紀彗を訪ねてくる度胸がある。何百人もの侍女と護衛に囲まれた皇宮から抜け出すのは難しかっただろうに。


「そこまでご存じならば、私の経歴もご存じでしょう。それでも私に護衛を頼むというのはなぜか、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」


 そう尋ねると、張緋は赤い唇をきゅっと結んだ。


「もちろんよ。殺人の罪で軍を除隊になったそうね。本来ならば死罪になるところを団長の証言に救われ、皇帝が死罪を免除した。そしてこの書房に左遷されたのよね」


紀彗は手の中で茶碗を回し、視線を落とした。どうやら、頼みを拒否できる道は全て閉ざされたようである。しかし、そうやすやすと仕事を引き受ける気にはならなかった。


「……まだ私の頼みを断れると思っているのね」


 紀彗をきっとにらみ、張緋がすごむ。


「無礼を承知で申し上げますが、私などに護衛を頼まずとも、もっと他に適者がおりますでしょう。殺人容疑で死罪になりかけた男ですから、皇太子殿下のおそばに近寄ることなどできません」


「さっきからあなたは自分を殺人者というけれど、真実は違うのでしょう? そんなことくらいわかるわ。父上が殺人者に恩赦を与えることなどないもの」


 紀彗はため息をつきたくなるのをこらえ、張緋を見上げた。口を開きかけて、紀彗は言葉を飲み込む。張緋の目元が赤くなっていた。唇が細かく震えている。


「毒見係の下働きが死んだの。殿下のための食事を口にした後だったわ。この前は湯場の土管が爆発して、熱湯が噴き出した。もうすこしで殿下が大やけどをするところだった。みんなただの事故だというけれど、そんなわけがないわ。私にはわかるの。


 殿下を――弟を守るためなら、私は手段を択ばないわ。何を犠牲にしても、絶対に守り抜いてみせる」


 確か、張緋はたったの17歳だった。大人びているが、父を亡くし、幼い弟を一人で守るつもりでいる。気丈にふるまっているが、顔色が悪く、数日ろくに寝ていないことは明らかだった。


(もう、拒否できないな)


 息をひとつし、紀彗はゆっくりとうなずいた。


「わかりました。この命に代えて、皇太子殿下をお守りいたします」


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