第一章 書房の文官

第一話 

  瑛紀彗えいきすいは、皇宮御書房ごしょぼうの文官である。がっしりとした肩幅と、筋肉質な体は武官と言った方がふさわしい。きりりとした顔つきの美男子であったが、その瞳に見つめられれば誰もがどきりとするだろう。


 それは美しさ故のものではない。何もかも見透かされているような、独特な光のせいだ。すっきりとした切れ長の瞳は、古書のぺーじが破れていないか、日航が強すぎないか、書房の隅々まで目を配る。兵士のような身体つきとは裏腹に、はたきをかけるしぐさは優しい。


 ただ、紀彗が文官だとは思えないという評価も間違いではない。紀彗は以前、武人として戦場に出ていた。皇宮軍の一員として数々の功績を残していた紀彗だが、とある事件をきっかけに部隊を退くことになったのである。文官として残りの人生を過ごすのも悪くはない。紀彗ほど数奇な経歴を持つものはあまりいないであろう。


 書房を訪れる者は多くない。こじんまりとした書房に一人、書物と向き合う日々だ。武官として働いていたころと比べれば、あきれるほど当たり障りのない業務である。変化が起きるときと言えば、たまに貴い身分の者が古典文学や絵巻を探しに来ることくらいだ。


 命の危険がない代わりに、血が沸き立つような興奮もない。しかし紀彗はこの仕事が好きだった。人と会わずに済む、一人でいられる。静けさが、今の紀彗には必要だった。



「おまえは野心ってものがまるでないな」


 ある日の昼下がりのこと。ごくたまに、無駄話をしに顔を出す友人の李朴りぼくが、茶をすすりながら呆れた目を向けてきた。


「今や朝廷は跡目争いの真っただ中だというのに、おまえときたらこんな辺鄙へんぴな蔵で一人だもんな。頑兼殿についていけば、出世間違いなしだぞ」


 紀彗は小さく苦笑し、肩をすくめた。


「言っておくが、俺は生まれた時から頑兼派だと決まってるんだよ。心配しなくてもな」

「ああ、そうだった。おまえの父親は頑兼殿の指導係だったものな」


 紀彗の父である明彗めいすいは、頑兼が幼いころから学問の指導係だった。父に連れられて新年のあいさつをしに行く時だけ会える頑兼は、長身で色黒の、野心あふれる青年だった。白い歯を見せて笑い、ぐしゃぐしゃと紀彗の頭を掻きまわした大きな手は今でも思い出せる。


「別に俺は、どっちが皇帝になろうが興味はない」

「出たよ、いつもの無関心が。まったくおまえというやつは、天地がひっくり返ってもその調子なんだろうな」 


 それには答えず、紀彗は緑の水面に映る自分の顔を見つめた。世界はいつだって、自分とは関係のない場所で回転している。紀彗はその輪に興味などなかったし、加わろうという気もなかった。死に物狂いで戦い、上へ上へと、死体の山に爪を立てて這い上るような人生は――疲弊しかない。


「まあ、頑張れよ」


 そうつぶやくと、李朴は小さくうなずいた。


 李朴が帰った後は、またいつもの静寂が訪れた。李朴が置いていった茶碗を片付けていると、また戸が叩かれた。


(やけに客が多い日だな)


 訝しく思いながら、紀彗は戸を引き開ける。そこに立っていた人を見て、紀彗は言葉を失った。ここに尋ねてくるはずのない人だ。しっとりと流れるようなつややかな黒髪に差した、赤い牡丹のかんざしが揺れている。ほっそりと華奢な体にまとう薄紅の衣は、まるで天女の羽衣のように軽そうだ。息を飲むほど美しく整った顔に浮かぶのは、まるで似つかわしくない不安と緊張がないまぜになった険しさだった。


「あなたは――」


 董張緋とうちょうひ。董家は、王家の直系にしか与えられない高貴な姓である。すなわち、彼女はほかでもない皇女だ。皇女ともあろう人が、こんなところので、供も連れずに何をしているのか。言葉もなく棒立ちになっている紀彗に、張緋が小さく頭を下げた。その行為にまたも激しい衝撃を受ける。


「瑛紀彗。あなたに折り入って頼みがあるのです。――内密の頼みが」


 しゃらりとかんざしが涼しげな音を立て、ふわりと金木犀きんもくせいの香りが紀彗の鼻をかすめていった。

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