第一章 書房の文官
第一話
それは美しさ故のものではない。何もかも見透かされているような、独特な光のせいだ。すっきりとした切れ長の瞳は、古書の
ただ、紀彗が文官だとは思えないという評価も間違いではない。紀彗は以前、武人として戦場に出ていた。皇宮軍の一員として数々の功績を残していた紀彗だが、とある事件をきっかけに部隊を退くことになったのである。文官として残りの人生を過ごすのも悪くはない。紀彗ほど数奇な経歴を持つものはあまりいないであろう。
書房を訪れる者は多くない。こじんまりとした書房に一人、書物と向き合う日々だ。武官として働いていたころと比べれば、あきれるほど当たり障りのない業務である。変化が起きるときと言えば、たまに貴い身分の者が古典文学や絵巻を探しに来ることくらいだ。
命の危険がない代わりに、血が沸き立つような興奮もない。しかし紀彗はこの仕事が好きだった。人と会わずに済む、一人でいられる。静けさが、今の紀彗には必要だった。
〇
「おまえは野心ってものがまるでないな」
ある日の昼下がりのこと。ごくたまに、無駄話をしに顔を出す友人の
「今や朝廷は跡目争いの真っただ中だというのに、おまえときたらこんな
紀彗は小さく苦笑し、肩をすくめた。
「言っておくが、俺は生まれた時から頑兼派だと決まってるんだよ。心配しなくてもな」
「ああ、そうだった。おまえの父親は頑兼殿の指導係だったものな」
紀彗の父である
「別に俺は、どっちが皇帝になろうが興味はない」
「出たよ、いつもの無関心が。まったくおまえというやつは、天地がひっくり返ってもその調子なんだろうな」
それには答えず、紀彗は緑の水面に映る自分の顔を見つめた。世界はいつだって、自分とは関係のない場所で回転している。紀彗はその輪に興味などなかったし、加わろうという気もなかった。死に物狂いで戦い、上へ上へと、死体の山に爪を立てて這い上るような人生は――疲弊しかない。
「まあ、頑張れよ」
そうつぶやくと、李朴は小さくうなずいた。
李朴が帰った後は、またいつもの静寂が訪れた。李朴が置いていった茶碗を片付けていると、また戸が叩かれた。
(やけに客が多い日だな)
訝しく思いながら、紀彗は戸を引き開ける。そこに立っていた人を見て、紀彗は言葉を失った。ここに尋ねてくるはずのない人だ。しっとりと流れるようなつややかな黒髪に差した、赤い牡丹のかんざしが揺れている。ほっそりと華奢な体にまとう薄紅の衣は、まるで天女の羽衣のように軽そうだ。息を飲むほど美しく整った顔に浮かぶのは、まるで似つかわしくない不安と緊張がないまぜになった険しさだった。
「あなたは――」
「瑛紀彗。あなたに折り入って頼みがあるのです。――内密の頼みが」
しゃらりとかんざしが涼しげな音を立て、ふわりと
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます