アカツキとミドリ

水無月うみ

アカツキとミドリ

 緑を思う赤が今もあって、向こう側を見ている。

 小学二年の時だったか。国語の授業で、とある課題が出された。

「短いお話を作ってみましょう」

 まだ若い女性教諭が、はきはきとした声で言いながら、白チョークでそう黒板に書き付けたのをよく覚えている。

「どんなお話でもいいので、皆さん自分のノートに簡単に書いてみましょう」

 小学二年生に与えるべき課題ではなかったのではないかと、今でも思う。やはり、大半の生徒は、鉛筆を持ったきり書くことはできなかった。書けたにしても、何のまとまりもない、まるで夢の中のような物語だった。

 僕だって、書き出す前までは、自分には書くことなんてできないと思っていた。物語を創造するというのは、容易な作業ではないことということを、子供ながらに理解していたから。

 しかし、鉛筆を手に取り、ノートに押し当てた瞬間、まるで葉が太陽の下で大量の酸素を吐き出すかの如く、いろんなストーリーが湧き出てきた。簡単なRPGにミステリー、友情ドラマやシュールレアリスム……もちろん当時はそんなはっきりとしたジャンル用語なんて知らない。でもそういった内容のストーリーが頭の中で形成されていったのだ。

 皆が悩んでいる中、僕は筆を進めた。そうして出来上がったのが、僕にとって初めての小説だった。そして、創作物だった。ある児童の、夏休みについての話。

 その後僕の作品はクラス内で絶賛を集め、女性教諭は、僕の書いた作品に生徒同様に驚き、クラスの後ろ黒板に掲示した。小学二年で、それだけのものを書いてしまう所謂才能に驚いたのだろう。自画自賛にはなってしまうが。でも僕はそれを子供ながらにして理解しないわけにはいかなかった。周囲の生徒の反応や、ワープロで丁寧に僕の字を打ち込んだ本さながらのそのプリントは、僕の承認欲求を満たすのに十分すぎた。

 その国語の授業以来、僕はよくジャポニカの自由帳に、縦書きで、丹念に小説を書くようになった。バトル系のRPGを書いたり、日々のちょっとした日常を書いたり、多様なジャンルに挑戦した。そしてそれは、その時の自分でも思っていなかったほど長く続いた。

 理由は簡単だ。僕が小説を書くたびに、担任やクラスメイトが僕の書いた小説を楽しんで読んでくれるからだ。創作行為は、いつの間にか他人からの評価を目的に走っていたのだ。

 でもそれが、僕の執筆の大いなる原動力となり、そして僕の自信につながっていたのは確かだった。僕は職業作家気取りでシリーズ物の連載をしてみたり、子供ながらにちょっと重いテーマを取り扱ったりした。そしてそうやって僕がものを書くたびに、クラスメイト達は僕に興味関心を抱いてくれた。

 教室の後ろ黒板の隅には、僕専用の小説掲示のスペースが用意されていた。

「アカツキくん、小説家さんになれるよ」

「へえそうかなあ。でも小説家って不安定だし、小説ずっと書くのは嫌だなあ」

「でもアカツキくんならきっとすごい小説家さんになるよ!」

「まあ、考えておこうかなあ」


 でも、時間の流れというのは恐ろしい。みな少しずつ成長していく中で、また違った意識や、現実性というのを知っていくのだ。そして、それに伴って教師まで態度が変わっていってしまう。

 小学六年のある昼休み。

「アカツキ、お前何してんの?」

「……」

「あのさあ、小説を書くのも勝手にしたらいいけどさ、もう六年生なんだよ? ずっと一人でいて、寂しくないの?」

「……」

「ねえ聞いてんのアカツキ。いい加減にしろよ」

「……うるさい」

「なんだよ、もっとはっきり言ってみろよ」

「だから、うっさいっつってんだよ!」

「うるさいって何だよ! 俺はお前のこと心配して言ってんだよ!」

「どうしたんだお前ら、そんなに騒いで」

「先生聞いてください。アカツキのやつずっと小説書いてばっかで友達と何も話そうともしないんですよ」

「……」

「まあいいじゃないか人それぞれなんだし。でもなアカツキ。これだけは言っておくが」

『小説ばっか書いてても何にもなんねえぞ?』

 後ろ黒板にあったはずの僕の小説掲示スペースは、五年生の後期を皮切りに、いつのまに閑散としだした。



 思えばその時の僕は浮足立っていて、みんなの注目を集めたいがための人間だった。だからさっきも言った通り、他人の評価のための創作をしていた。小説を真に書きたかったんじゃなくて、みんなに認められたかったんだ。そこに思想なんてない。

 でも、人っていうのは不思議なもので、同じことをしていくごとに、それにのめり込み、むしろそれ以外のことができなくなっていってしまうのだ。もちろん、誰もがそうなるのではないのだろうけど。

 あの国語の授業以来、僕は他人の評価のための小説を書いていたけれど、いずれそれは僕の時間をつぶすためのものになっていた。みんな見てくれない。誰も目にとめない。そんな抽斗の奥底に眠っているような作品たちを、自分でも面白いのかどうかわからないような作品たちを、僕はただ惰性で後ろ黒板に貼っていた。そこには何の喜びだってなかった。

 でも貼っている。書いている。それ以外のことを覚えているはずなのに忘れているから。その機械的な作業に、のめり込んでしまったから。

 小六を迎えた春から、三か月が経った。機械的な作業を繰り返している間に、僕はだんだんと、もう小説を書くことすらやめて、何もかも全部放っぽりだしてしまおうかとすら思い出していた。それはつまり僕にとって間接的な死をも意味してしまうのだろうけれど。

 日々呼吸して吸う空気も、日々三回食べる食べ物も、なんだか全部、全部、全部が、ものうく面白みもない無機に感じられていたのだ。生きる意義とか全部、わからなかったのだ。

 しかし僕が小説を書くことをやめることはなかった。その年の夏にとある転機を迎えることとなったから。


 夏休みを前にした七月の第二週目、教室内も喜びのムードで溢れていた。

「夏休みまであと十日。も~お~十~つ~寝~る~と~、なーつーやーすーみー」

「それお正月のやつでしょ笑」

「あはははっ」

 そんな幸せいっぱいの会話が耳に入るたび気持ち悪いと感じる自分が、なんだか負け犬の遠吠えのようで、更に気持ち悪かった。

 つまらない授業の最中、小説を書いた。休み時間、クラスメイトにもはや視線すら当てられなくなりながら、小説を書いた。係の仕事をさぼって、先生に怒られながらも、僕は小説を書いていた。

 なんだか、自分の存在意義がわからないようになっていた。

 なんで、小説なんか書いてるんだろう、って。書いても何かになるわけじゃないのに。

 その日も、惰性に生きた学校生活がやっと終わって、帰り学活を迎えた。

「最近不審者が出ているようなので、気をつけて帰るように」

 黒ひげの担任はA4サイズに印刷されたプリントを回しながら気だるそうな声で言った。

 早く終わんねえかなあと思っているうちにプリントが回ってきてもうさよならの挨拶になっていた。

 僕は一番にいつも通り教室を抜け、校門を抜け、帰路についた。別に家に帰ったって何かがあるわけじゃない。そこにあるのはつまらない家での生活と、僕に諦めたような両親と、成績優秀で品行方正な兄だけだ。だが別に兄が遊んでくれるわけでもない。兄は家にいる時間が少ないから。部活とか塾とか委員とかそういった色々で。

 小石を蹴りながら川沿いの帰り道を歩く。あたりに人はいない。もともと人通りが少ないのだ。

 小石は僕の足によって元居た場所からだいぶ進んでいく。

 そうして、あるY字路まで来たとき、僕は誤って蹴っていた小石を川のほうへやってしまう。誤ってというよりかは、あることを思い出し注意が散漫して、と言ったほうがいいだろう。

「忘れた……」

 思わずぼそっとつぶやいた。今までしたことがないようなミスをしてしまったのに気付いたからだ。といっても、何でもないようなことなんだけれど。

それというのはつまり、小説を書いていた自由帳を学校に置いて来てしまったというのである。

取りに帰らなくてもよかった。別にまた明日学校に着いたときに確認すればいいから。だからそのまま帰ってしまおうかと思った。

けれども、僕はなぜか無性に取りに帰りたくなったのだ。なんだか、手元にその自由帳がないということが、とてつもない不安のように思えてきたのである。

僕は踵を返し、来た道を逆走した。下校する児童たちとは反対の方向へ進んだ。

その途中、クラスメイトの横も通り過ぎたような気もする。うすら笑うような声がした。

僕はただぼんやりとした謎の不安を抱え、学校へ急いだ。


学校に着くと、もう児童の姿は少なかった。

僕は昇降口で上履きに履き替え、二階にある教室に向かう。

階段を上り、古びた廊下をこつこつと歩く。

そして教室が見える。6年2組。つくづく、早く卒業したいと思う。

がらがら……教室のしまっていた扉が、僕によって音を立てて開く。

するとその時、

「へ⁉」

 その扉を開ける音ともに、中から驚きの隠せていない声が聞こえた。

 扉を完全に開けたとき、僕の目には、自席に座り何やらを描いていたようだった同じクラスのミドリという女子の姿が見えた。

 ぼさぼさとした黒い長髪で、赤いジャケットのようなものをずっと着ている。

 ミドリは僕と同様、クラス内でも物静かな人間であった。もちろん、僕のようにクラス内で目をつけられていたり、浮いているわけではない。ただおそらく人とかかわるのが苦手で、いつも一人でいるのだろう。

 僕はなぜこの時間になってもなお教室に残っているのかが分からず、

「何、してるの?」

 と聞いた。教室の中に、一歩足を踏み込んでいる。

 でもミドリは、

「……」

 押し黙ったままだ。まあでも僕もいつもこんな感じであるから、特に不快には思わない。

「おれ、ノート、取り来ただけ、だから、すぐ、でるね」

 自分と同じような人間の前だと「おれ」だなんて言ってのけてしまう自分の情けなさが嫌に思えた。兎にも角にも、僕はなんだかこの気まずい状況が嫌で、早く要件を済ませ教室を出てしまおうと思ったのだ。

 自分の席まで行き、抽斗の中をのぞく。すると、やっぱり自由帳は入っていた。

 なんでかなあと思いながらも、僕はそれをランドセルの中に仕舞った。

 ふう、と一息ついて、無事に用件を済ませたことを確認し、僕は足早に教室を出ようとした。一歩一歩と足を前進させる。

 すると急にミドリが、

「小説……!」

と叫んだ。叫んだといっても、普通の人くらいの声量だ。でもミドリにしてはかなりの大声だった。

僕は立ち止まる。急にどうしたんだと思い、ミドリのほうを向く。ミドリは決してこちらを見たりはしない。手はノートの上のまま、必死に言葉を出そうとしている。

「どうした、の?」

 僕は平然を装うとしたが、僕自身かなりの気弱なので、急に声が上ずってしまう。

 ミドリは僕の問いかけに、恥ずかしがるような小さな声で言った。

「読んでるの……。わたし、アカツキくんの小説……! 楽しみにしてるの!」

 ところどころ詰まって、上ずって、聞き取りづらい声だった。ミドリは僕の方を見ていない。黒板に向かって喋っている。でも僕は、なんだか唐突に、温かな色で心が満たされていくのを、どこかで感じていた。

「ありがとう……」

 咄嗟に言わなきゃと思って、もはや条件反射的に早口ながら言った。

「うん……」

 ミドリはまた静かな声でそう言った。

 その返答を聞いたとき、僕はなぜだか、具体的にはわからなかったけれど、無性に今さっきまでミドリが何をしていたのだかが気になった。

 教室前方にあるミドリの席。僕は、気づけばゆっくりとそちらの方向に足を進めていた。

 ミドリに少しずつ近づく。ミドリは何も言わない。ただ後ろから見えている左側の頬は、熟したりんごみたいに真っ赤に色味を帯びている。

 だんだんと机の上が見えてきた。するとそこには、漫画のような、コマ割りが見えた。

「え!」

 僕は驚きのあまり少し大きな声でそう言ってしまった。ミドリは何も言わない代わり、手で顔を隠すようなそぶりを見せている。

「あ……その……みちゃ、だめだった?」

 僕は必死に尋ねる。たどたどしいけど。

 ミドリは顔を手で隠したまま首を横に振った。二回か三回ほど。

 僕は何だか見ちゃいけないようなものを見たような気になったが、なんだか既視感を覚え、その絵をじっと見た。

 すると、そこにあるセリフや舞台から、なんとなくあることがわかった。

 ミドリが描いているその漫画のようなもの——コマ割りは、僕のつい最近描いた小説を具現化したものだった。

 僕の気色がミドリにも通じたのかもしれない。するとミドリは手で顔を覆うのをやっとやめて、またもや僕のほうは見ずに、小さく言った。

「アカツキくん……いや、わたし、アカツキ……先生の……読者なんです!」

 いわゆる二次創作的なものなのかもしれないなと僕はその時ふと思った。けれどもそんなことよりも「先生」だなんて言われたことに対して、僕は少しこそばゆさを感じていた。

 でも、悪い気はしなかった。そりゃそうだ。誰だって嬉しくなるに決まってる。僕は、その時、なんだか深い喜びを感じた。そしてそれは、小学校四年以来の、本当に久しぶりに抱いた感情だった。

 ミドリは慣れてきたのか、その小さな声でさらに続けた。

「異世界シリーズっ……! 大好きで……!」

 僕はそのコマ割りに描かれているのが一、二か月ほど前に完結した異世界シリーズの内容であることに、その時やっとはっきりと分かった。

 僕は本当に嬉しくて、そして、認められたような気がして、

「ありがとう」

 と、今度はちゃんとはっきりと言えて、

「絵、本当にうまいね」

 と、お世辞じゃない本当のことをしっかりと言えた。

 ミドリは「勝手に描いてごめん」だなんて言ったけど、謝らないでと僕はちゃんとさらに言うことができた。

「それ、見てもいい?」

 僕は幾分か落ち着きを得られたみたいで、そんなことまで言った。

 ミドリは頬を真っ赤にして恥ずかしがりながらも、僕にそのノートを渡してくれた。もちろん、僕のほうはさっきと同様に向かずに。

 僕はパラパラとページをめくった。すると、一秒と経たずにミドリの圧倒的な画力に驚かされた。

 僕の頭の中に描いていたその世界が、そのキャラクターが、鮮明に描かれていたのだ。

「すごい! 本当に!」

 僕は興奮を抑えきれずに、そのノートをめくりながらそう言った。

 ミドリはこちらを見るともなく頬を真っ赤に染め、下を向きながら首を横に何回も振った。

 僕は、なんだかミドリのこの才能を認めずにはいられなかった。いや、そういってはあまりにも上から目線だ。僕は、そのミドリの画才を、もっと見ていたいと思った。

「もし、良かったら……なんだけど、さ……」

 僕はしっかり言おうと努めた。ミドリは少しだけこちらのほうを向いてくれた。目の焦点は合っていないけれど。

 ノートをミドリに差し出しながら、僕は少しの勇気を振り絞って、言った。

「あの、さ。僕の小説を、もっと漫画にしてみせてくれないかな……!」

 僕はミドリを直視できなかった。なんだか異様に恥ずかしくて。でもその時、ミドリが首を縦に振りながら言ったのが見えた。

「うん……!」


 その日はこうして教室を去った。ただ一つ述べるとするならば、ミドリと一緒に。


 それから僕らは、放課後、よく二人で会うようになった。

 教室もあったし、あまり人気のない公園もあったし、川べりもあった。一年くらいが経つと、僕の部屋にミドリが来たりもした。毎日同じ場所で会っていたら、クラスメイトに気づかれてしまうかもしれなかったからだ。それに、ありがたいことに、僕らの住んでいた場所はかなりの田舎だったから、人目の付かない場所はそれなりにあった。

 僕らは、会っては、少ない言葉を交わしあい、それぞれ小説を書いたり、漫画を描いたりしていた。お互い、教室では全然人とコミュニケーションをとったりするようなことがなかったから、そこは唯一の、家族以外の誰かと言葉を発する場所だった。

 僕が小説を書くたび、ミドリは喜んでそれを読んでくれた。無邪気に、明るい笑みを浮かべて、本当に楽しそうに読んでくれた。僕はそれが、本当に嬉しくて仕方なかった。

 そしてその小説を、全部とは時間上いかないまでも、可能な限りミドリは絵にしてくれた。会ってから数か月が経過した十月ごろには「読者として当たり前のことです」とミドリは少しだけらしくなくちゃらけて言ってくれたような。

 また、コミュニケーションが苦手だった僕らは、僕らの間での交流の中で、少しずつ、本当に少しずつだけれど、人と関わるということを、覚えていった。多分だけれど、きっとそうだ。それに、そう、だいぶちゃんと話せるようになったんだ。

 夏休みも、連休も、僕らは事前に時間を決めてよく会った。公園や川もそうだし、列車に乗って隣町に行ってみることもあった。小学六年にしたら、それはまるで大きな冒険のようで、楽しかった。

 ミドリに絵を少し教えてもらって、絵の練習もしてみた。

「シルエットを描けば……ほら、形がとりやすくなるでしょう?」

「ほんとだ! これだけでだいぶ上手になれるかも!」

「気を抜いちゃだめだよ、先生」

「わかりましたよ、先生。笑」

「あははっ」

 学校では何の変化もない。僕は浮いたままで、ミドリはいつも一人でいる。

 でも、僕らの小説と漫画を通した交流は、気づけばやがて半年の時間にまで経過していた。



 その年の冬休みの、もう年越し直前の十二月三十日のことだ。

 ミドリは、僕の部屋に来ていた。

 さすがにこの寒い中、外で会うわけにはいかなかったのだ。降り続けている雪だって、もうすでに三十センチほど積もっているのだ。本人曰く友人の家で泊まると親に言ったらしく、今日はうちで泊っていくらしい。

 ミドリはいつも通りの赤いジャケットを着て、スケッチブックと筆記用具、そして着替えなどを持ってきた。

 そして入浴なども済ませ、部屋のこたつにあたりながらいつもどおり絵を描いている。

 一つ述べておくと、ミドリは以前からよくうちに来ていたし、両親もそれを快く了承してくれていた。おかしいのかもしれないが、それまで人と全く関わらなかった僕にとって、ミドリという大切な友達の存在は、関係としてしっかりと守らなければいけないものだったのだ。

「もう本当に寒いね」

 みかんを剝きながら、ミドリはぼそりと呟いた。

「もう年も越すしね」

 僕は鉛筆を走らせながら返した。

 時計の針は、十と六を指している。

(ふう……)

 僕は時刻を確認するなり、息を整える。そろそろ言う頃合いだと思った。

 僕は今日、ある提案をミドリにしようと思っていたのだ。

 ミドリは人の気持ちを察するのが得意なのかもしれない。前々から思っているが。

「何か、ありますか? 先生」

 剝いたみかんの皮を見つめながら、ミドリは僕に訊いた。

 回りくどい言い方をしても仕方がないので、僕は提案からはっきり言った。

「あのさ、」

 いや、やっぱりいざ言うとなると緊張してしまうものだ。言葉をうまく出せない僕にミドリが一言、

「先生?」

と言う。やっぱり視線はみかんだ。

「あのさ、」

 ミドリの返答を聞いて、改めて言う。今度は、はっきりと言う。

「漫画の賞に、応募してみない?」

 ミドリが、こっちを向いた。視線を合わせるまでにはいかないけれど。でも目を少し見開いていて、口がぽかんと半開きである。

「ミドリ、画力すごいし、やっぱりうちらだけで終わらせるのはもったいないと思うんだよ。ストーリーはおれ、頑張って考えるからさ! だから……やってみない? 一緒に」

 勢いに任せ、僕はそう言った。BPMの高鳴りを感じられる。久しぶりに熱をもったからだ。

 ミドリはしばらく黙り込んだままだった。そりゃあそうだ。急にこんなほぼ当たらないかもしれないような、時間を無為にしてしまうかもしれないような提案をされたのだ。でもミドリは、数分黙りこんだ後に、こう言った。

「本当に、できるかな? わたしに」

「できるよ!」

 未来なんてわからないのに、僕はそう言っていた。それも強く。ミドリの真っ白な手を握りながら。

「ミドリの才能すごいし、むしろおれが足を引っ張らないようにしようって!」

 僕は心から思うことをはっきりと述べた。窓の外では、部屋の中の明かりを受けた粉雪が、ぼんやりと散っている。

 ミドリは、言った。

「アカツキくんの、先生の書く物語は、大丈夫。問題はわたしがそれを絵にできるかどうかが問題だから」

 僕が何かを言おうとしているのに気付いたのか、それを遮るようにミドリはさらに言葉を続ける。そして、それは明白な答えだった。

「でも、やってみなきゃわかんないよね。わたしたちがこうやって今いるのも偶然じゃないかもしれないし。よし、やろう!」

 ミドリはそう言ってのけると、少しうつむいた状態で照れくさくはにかんでガッツポーズをした。

 僕はその返事が嬉しくて、

「おれも、絵、手伝うから!」

 と言って、同じようにガッツポーズをするので精いっぱいだった。

「先生、絵は大丈夫かな?」

 にやけてそう言ったミドリに、僕は、

「頑張ります」ただそうとだけ言った。

 それから、僕らはコンピュータで漫画の賞について調べ、大体何ページくらいなのかなどといった細かいことについても確認した。〆切日はちょうど一年後の12/25、クリスマスの日だ。

 少しずつ動き始めたことを知って、僕は未来への想像が膨らんでいった。

 ミドリがどうだったのか僕にはわからないけれど、少しでも、喜んでいてくれたなら、と思っていた。

 確かな歯車が回り始めたその日、粉雪はそのあとも降り続けたようだった。僕らはその中、部屋の中で、スケッチブックなり原稿用紙なりを抱えたまま、こたつの中二人して眠りに落ちた。



 結局、僕らがその後漫画を完成させ、賞レースを企画した出版社に送ったのは、〆切日三日前の12/22だった。二人とももう中学生で、でも依然として中身は変わらず、僕は小説を書き、ミドリは絵を描いていた。

 12/22、その日は金曜日だった。放課後、僕らは町の数少ない郵便ポスト前に集合し、僕の持ってきた、漫画ネームの入った封筒を二人して投函した。どさっというすでにある郵便物の上に乗った音が聞こえ、僕は、もう執筆が終わったんだなと思った。

 ミドリはずっと手を固く結び何かを願っていた。制服の上に、いつもどおりの赤いジャケットを着て。

 この一年間、僕らは漫画と隣り合わせの生活だったなあと、そんなミドリの姿を見て思う。放課後家に帰るとミドリがいたりいなかったりして、僕はストーリーを書き直したり書き加えたり。ミドリがいるときは大体、作画の補助をしていただろう。黒いインキと漫画用のボール紙の上で、ミドリが忠実に、繊細に描いていく世界の背景などを手伝っていた。

 とにかく、書いて、描いて、掻いて、欠いて。方向性の違いで揉めたり、疲れでもうやめたくなったり。でも、続けて。でも、楽しくて。

『まだやってたんだ?』

『今はこれに全力注がないとだからね』

『ここはこういうデザインにしないとだめじゃない?』

『いやここはこうしないと……』

『何で!』

『さっきは、ごめん』

『ほら、これ新しい案』

『いい話……泣』

『百枚突破‼』

『ちょっと休まない?』

『川でデッサンなんて風流だなあ』

『今日は徹夜で仕上げてみるぞ!』

『ふふっ、寝ちゃってる笑』

『二百枚突破‼』

『はいこれ、作ってみたよ』

『良い! すごく良い!』

『あと、百枚かあ……』

『ラスト! ラスト!』

『ああそれもう完成してるネーム!』

『あ、ごめん!』

『まったく……』

『よしあとちょっと!』

『あと二コマ!』

『終わり——!』

『ありがとう』

『こちらこそ』

『ふふっ』

『あはははっ』

 あの後の寒い冬を抜け、温かい春を迎え、厳しい夏も過ぎて、例年より短い秋になって、今の冬に一周して戻ってきた。僕の部屋にうずくまれていたたくさんのボール紙たちが、今こうやって、門出を迎えられた。

 もう入賞だって今はどうだっていい。とすら思い、僕はこの一年の、辛いながらにも楽しかった漫画制作の日々を回想した。

「入賞できるかな」

 ミドリは、願うのが終わったのか、僕のほうを少し向いて、ぼそっと、つぶやいた。

「大丈夫。きっと」

 未来なんてわかるはずがない。まだ僕らは中学生で、大人の世界を知らない。けれども僕には、入賞なんてどうだっていいと思いながらも、入賞してほしいという願いと、入賞するだろうという根拠なき自信があった。

「かけて、楽しかったよ」

 だから、僕はそう言って、ミドリの手を握ることができたんだろう。


 結果は、送った日から三か月後の三月になって分かった。僕とミドリとの交流は、その間もほどなく続いていた。僕は相変わらず小説を書いていたし、ミドリはそれをいつも楽しく読んでくれ、絵を描いてくれていた。何かが変わることはなかった。

 空気が少しずつ温まりだし和んできたその日、出版社である〇〇社から僕のメールアドレス宛に一通の連絡が送られてきた。内容は僕らが暁(あかつき)緑(みどり)名義で三か月前に送った漫画ネーム「word of the night」が、今回の新人賞で大賞をとったというものだった。僕は意外とそれを見たとき冷静だった。なるべくしてなった、不可逆的な天道がそこにあるようにずっと思っていたからだ。ひとまず、僕はミドリに連絡することにした。互いにもうスマートフォンを入手していたので、簡単に連絡をとれた。

『漫画、入賞したって』

『ありがとう』

 その二通を、ミドリに打って送った。とにかく、早くミドリに見てほしかった。頑張ってくれたミドリに早く知ってほしかった。

 返信は、わずか五分後に送られてきた。

『ほんとに⁉』

『今からそっち行くね!』

 ミドリがうちに来たのはその返信から約三十分後だった。いつもどおりの赤いジャケットを着て、いつもどおりのぼさっとした黒髪である。変わらないなあと僕はそれを見て思う。

 部屋に入ったミドリに、漫画入賞のメールを見せた。送らなかっただけで、そこには三百万円ほどの賞金についてのことや、これから担当編集がついて更なる漫画を描くこともできること……など様々なことが書かれていた。

 ミドリは喜ぶより先に「すごい……」と唖然とぼそり、呟いた。

「本当にありがとう」そんなミドリに僕は心からの感謝を述べた。

「いや、先生のおかげだよ」ミドリはらしく謙遜してしまったけれど。

「にしても三百万だなんて、想像もつかない」

「大切に使わなきゃね」

「でも全部使い切っちゃうのかな?」

「どうかな……笑」

「これからも、漫画描く?」

「うん。もっと見たいから。先生の話」

「よろしく、これからも」

「うん。よろしくお願いします」

 ミドリはいつだってそこにいた。僕の後ろにも、前にも、横にも。そしてそれが自然で、僕は時に光となって、そして時に仲間となって、ミドリの周りにいた。だからこれからも、それがあまりにも当たり前だったから、僕はミドリと生きていくんだろうなと思っていた。



 それから僕らは担当編集さんやアシスタントさんとも加わって、様々なジャンルをどんどんと脱稿していった。不思議なものだ。人生なんて、生きづらいハードゲームだと思っていた。ところが、僕らの出した漫画はことごとくヒットしていき、様々な雑誌にも掲載されていった。

僕らが漫画家として活動していることは、親といった周囲の人間には明かさなかった。まだ学生である僕らが、この先どうなるのかも分からないのに、むやみに情報を明かしていくのはリスクであると、ミドリとの話し合いで決まったのだ。

 一方、ペンネーム「暁緑」は、どんどんと人々の間で周知されていき、現状の僕らの影響力をはっきりと明示していた。

 中学二年の時に「あおぞらのくも」

 中学三年の時に「茶色い屋根の家」

 高校一年の時に「透明エレベーター」

 高校二年の時に「自販機の黄色」を、それぞれ出版した。

 僕らは僕の部屋で、一年くらいの製作期間で中編ほどの漫画を描いていた。中学でも高校でも、僕らのプライベートは変わらなかった。部屋に戻ればいつもだいたいミドリがいた。そして、アシスタントさんから原画が送られてきて、担当編集さんとのストーリーに関するミーティングがあった。

 春も、夏も、秋も、冬も、僕の部屋にはたくさんの原画がぶら下がっていた。そして、スケッチブックやたくさんの原稿がうず高く部屋の隅っこに山積みになっていた。

 稼いだ多額の金で、ミドリと小旅行に出かけたこともある。田舎の村から抜け出して、ずっと憧れいていた東京に、新幹線に乗って行った。

 時速275km/hの中で、僕らは漫画の話を交わしたり、単純に学校生活とかそういう他愛もない近況報告をしたりもした。僕もミドリも、やっぱり何も変わっていなかった。少なくとも僕にはそう思う。僕は相変わらず一人で小説を書いたし、ミドリも絵を描き続けていた。

 大都会のビル群の中では、僕らはまるで子羊のよう。新宿や渋谷といった一千万の人々の織り成す壮大な絶景を、僕らはただ茫然と眺めていた。

 性に合わずに、今時の高校生を演じてみたりもした。タピオカのドリンクを手に持って、僕はミドリの手を引いて、服を買ってみたり映画を見たりする。それっていうのが青春なんじゃないのか。巷で言うリアルでの充実なんじゃないのか? 僕はそう思う。

 帰りの新幹線の車内で、ミドリの言った言葉が、未だに印象的だ。

「今日は楽しかった」

「おれも楽しかった」

「わたしたち、みんなからどう見えてるんだろうね」

「どうもしないよ。ただの普通の高校生。そうじゃない?」

「そうだよね」

「うん」

「あのさ」

「何?」

「ありがとう」

「え? 急にどうした?」

「わたしさ、たぶん、アカツキくんに会ってなかったら、こんなに楽しい時間過ごしてないと思う」

「そうかな。ミドリは一人でも楽しく時間を過ごしてたとおれは思うけど?」

「いや、違うよ」

「え?」

「わたしは、アカツキくんと過ごしているから、こんなにも楽しかったんだと思う」

「それは……たぶん、いや、絶対、おれもミドリがいるから楽しいんだと思う」

「うん。……お互い様」

「そうだと思う」

「こんな時間がわたしに来てくれたことに、感謝しなきゃ」

「またまたそんなおおげさな笑」

「あと一時間?」

「そうだね、あと一時間」

 そこで会話は一度途切れた。僕はミドリの顔を見なかった。たぶん、ミドリも僕の顔を見なかった。僕はミドリの顔を見れなかった。ミドリの発言の意図が分からなかった。僕にはただ、目を閉じて、次の漫画のストーリーを考えることしかできなかったのだ。


 学生作家としてミドリと活躍したその期間、僕は本当に楽しかったのかもしれない。

 普通の中高生にはできない、俗にいう「青春」をミドリや担当編集さんたちとして、まるで初めて漫画を描いたとき、いや、違うな。まるで初めて小説を書いたあの時みたいに、心から純粋な気持ちで、創作できていたように思う。少なくとも。

 普通の中高生とは違って、僕らのやったことはやった分だけ金となり戻ってきた。そしてそれは、僕の強い原動力となり、漫画へのエネルギーを助長させていた。

 書いて、書いて。描いて、描いて。そんな日々は、儚くも蝉の一生みたいに、気づけばものすごい時間となり経過している——


 高校卒業の時が近づいてきた三年の八月、僕とミドリは担当編集さんとのミーティングに出向いた。いつもはネット上で行われるのだが、今回は担当編集さんからどうしても会って話がしたいという要望があったため、僕らは新幹線に乗り〇〇社の本社のある東京へ行った。

 東京駅に着き車両から降りると、ものすごい熱気が僕らを覆った。体感では十度ほど違うように思える。

 ミドリの手を引いて、僕は東京駅の中を進んでいく。途中、何度か手が離れてしまったが、何とか離れ離れになることなく、改札を抜け、本社のある丸の内の方向へ歩いて行った。

 やがてひときわ大きなビルが見えた。ガラス張りの、約三十階ほどある高層ビルだ。手前にある表札には「〇〇社 東京丸の内本社」と書かれている。

 僕とミドリは事前にスマートフォンの方に送られていた入社証のQRコードを入り口のゲートでかざし、エレベーターに乗って二十五階にある会議室に向かい、上がった。

 耳がキーンとなるような気持ち悪さを感じながら、僕とミドリはエレベーターを降りると、見えた会議室251の方に歩を進める。僕はちゃんとした白シャツに黒いジャケットという服装。ミドリは青いデニムに赤のジャケットといういつも通りのスタイルだ。

 こんこんこん、と扉をノックして、僕、そしてミドリの順で、会議室の中に入った。

 会議室に入ると、担当編集と編集長が、順に頭を下げ挨拶をしてくれた。

「今日ははるばるご足労頂き本当にありがとうございます!」

 編集長と思われる白髪頭の男性はそうはきはきと言ったあと「私、〇〇社漫画部門編集長の××と申します」と言って、名刺を渡してくれた。

「どうもどうも、今日はよろしくお願いします」僕は名刺を受け取りながらそう返した。

「よろしくお願いします」ミドリも言った。

「じゃあ早速二人とも座ってもらって」担当編集の聞きなれた声がして、僕らは用意された椅子に腰かけて用意されていた書類に目を通した。

 担当編集が話す。

「さっそく話に入ろうと思うんだけど、もう二人とも高校卒業も間近っていうかんじだよね」

「そうですね、来年の三月で卒業ですね」担当編集に、僕はそう返した。すると担当編集が、まるでここが大事であるかのように少し声を整えて、こちらを見て続けた。

「そこでなんだけどね。二人とも漫画家としてもすごい成功しているし、うちで出してる週刊マガジンのところで毎週の枠もとって描けると思ってるんだよね。だから結論を言うと、高校卒業のタイミングで、専業作家になってもらって、うちの専属になってもらおうかなって思ってるわけです。もちろん、そこで出していくいろんなストーリーとか執筆体制とかそういうのはまた相談して考えていこうと思うんだけど」

 書類にも同じことが書かれていた。でもやっぱり、今まで一緒にやってきた担当編集の口からそれを言われると、かなりの現実性を感じ、僕はわくわくで心がいっぱいになった。

「それいいですね! ぜひやらせていただければ」僕はその心の勢いのまま明るく言った。

「ミドリはどう思う?」僕はミドリの方を向いた。

 するとミドリは、何かを深刻に考えているようで、

「少し……考えさせてもらえませんか?」と言った。僕は何に悩んでいるのかよく分からず、

「まあたぶんやらせていただくことになると思います」などとさっきと同様に言った。

 編集長はミドリのことを察してか、

「まあよく考えてもらえたらなと思います」と言った。

「これってどれくらいのお金になるんでしょうかね」僕は書類を見て気づいたことを担当編集に尋ねた。

「そうだね、仮に一年くらいの期間で考えたとして、大体四千万円とかくらいかな。どれくらいの売り上げを獲得できたかとかにもよるけど」

「それってなかなかすごいことですよね」

「うん、そこまでいったらもう大物作家だね」担当編集は夢が広がっているのか、笑みを呈しながら僕の質問にそう返した。

 僕はこの連載によってどうなっていくのか、そのイメージが膨らんでしまい、ついついにやけてしまったような気がした。

 その時、ミドリが言った。

「三日後くらいに、連絡、させてくれませんか。少し、考えたい……です」

 僕はなぜミドリがこんなにもこの連載に難色を示しているのか、全く理解できず、今すぐにでも問いただしたくてたまらなかった。でもたぶんそうしてもミドリは何も言ってくれないだろうから、しばらく待ってみることにした。

「まあ、二人の間でよく話し合ってもらえたら」

 担当編集はいつもどおりの調子で言った。

 会議室の中を空調設備の音がしなやかに回る。

「じゃあ、まあその件は一旦さて置き、次の話ね。この間出版した漫画に関してのことなんだけれども……」

 担当編集のその声でいったんこの話は持ち帰りとなり、次の話に移った。

 僕はミドリをちらりと見た。ミドリは何もせずただ黙って書類を見ていた。

 その後、いつもオンラインでミーティングしている時と同じような話題が二、三個挙げられ、何らいつもと変わらなく僕らは普通に会話した。ざっと三時間くらいが経過して、今日のミーティングはお開きとなった。

帰り際、担当編集と編集長はビルの出入口まで来て見送ってくれた。

数十歩歩いて、間もなくビル前の信号を渡ろうとしたとき、後ろから編集長の大きな声が聞こえた。

「よくよく考えて決めてください。いつでも待っていますから」


 帰りの新幹線で、僕らが言葉を交わすことはなかった。ミドリが判断を渋ったことに対し僕は少なからず嫌悪感を抱いていたし、ミドリも僕と今、口をききたいようではなかった。

 直接的な言葉を言ってしまった瞬間、均衡が完全に崩れてしまうような危うさが僕とミドリとの間にはあった。

 新幹線というのはあまりに速いもので、二時間くらいが経つと、僕らの最寄駅に着いた。

 こんなに速かったけなあ、と、改札をくぐったとき思った。

 駅前。もうすでに夜が更け始めていて、時刻は九時半。歩道橋の上を、僕とミドリは歩く。ミドリは僕の後ろ二メートルくらいを歩いている。僕は先を進んでいく。

 その時。ちょうど、目の前の居酒屋の電気が点いたとき。ミドリが口を開いた。

 夜がどんどんとふけっていく最中だ。

「わたし、専属なりたくない。というか、なれない」

 後ろからの、そんないつもより強気な声。どうせそんなこったろうと思っていた。ミドリはそういうプレッシャーのようなものが苦手なんだ。僕は後ろを振り返ってミドリの目をまじまじと見て言う。

「『専属』で、プレッシャーを感じているとかでしょ。どうせ。大丈夫だよ。おれもいるからさ。二人いれば絶対成功できるって」

 僕とミドリとの間を、二メートルの壁が隔てている。物理的には何もないはずのその空間に、何か大きな遮蔽を感じているのは、きっと僕だけじゃない。

「違う!」ミドリは少し声を荒げて言う。

「わたしは、べつに専属作家になるのが嫌なわけじゃない。ただ……」

「何だよ、ただって!」僕はだんだんいらいらを抑えきれずにいた。なんだか、ここでミドリに負けてしまったら、駄目な気がしていた。

 でも僕は一歩もミドリの方へは近づけず、真剣に目を見るに留まる。ミドリを圧倒しないといけない。そうでないと——きっと、壊れる。しかし、その時、ミドリがはじめて、僕の目線に返した。ミドリの目を正面から見たのは、僕にとって初めてのことだった。

「私、イラストレーターになりたいの。もっと絵を本格的に描いていきたい」

 ミドリがその後言ったのは、あまりにも純粋な、その率直な思いの吐露だった。

「漫画を描くのは楽しい。アカツキくんと作品を作って、アカツキくんの作るストーリーを楽しんでいたい。それは事実!」

 ミドリは続けた。

「でも私には、それ以上にもっと絵を描きたい気持ちがある。アカツキくんに頼らず、自分の力で頑張ってみたい気持ちもあるの」

 ミドリはそこまで言うと、一息ついて、赤のジャケットを自分で強く握りしめた。

 僕の中には、その時ちょうど二つの感情があった。

 一つ、仕方ないという感情。

 二つ、許せないという感情。

 ミドリはこれまでずっと、僕の後ろを歩いてきた。僕が道を作り、ミドリは僕の後を僕の言うとおりに歩き続けた。でもそれは、年の重なりにつれてやがて独立したいという気持ちが湧き出てきて、いつまでもそうはいかない。それはずっと、僕にだってわかっていた。この関係はあまりに不健全であると。だから僕はできるだけ対等に接しようとした。でもやっぱり、このスタイルで、この僕がアイデアを生みミドリがそれを絵にするというスタイルでは、どうしても主従のような関係が生まれてしまうのだ。だから、ミドリが、僕から独立して生きていくという道を望んでいくのは安易に想像できていた。

 でも……でも、もう、六年だよ? そんなにも長い歳月の中で、二人で漫画描いて、やってきたじゃないか! なんだか、裏切られたといってはひどいかもしれないけれど、仲間に蹴り飛ばされたような気がして、素直に、単純に、うざったい。そして、たぶん悲しかった。

 僕はもう感情をコントロールすることを忘れていた。高校三年で、もうすぐ成人なのに、まるで子供みたいに、思いの丈全部ぶつけた。

「何だよそれ。これまで積み上げてきたもの全部壊す気? ふざけるのも大概にしてよ。ミドリ絵上手いし、俺と一緒にこれからも漫画描いていけばいいじゃん! あのさ。お前が思っている以上に、もう戻れない場所まで来てるんだよ! いろんな人がかかわってる。いろんな人の期待がかかってる。金だって、時間だって、全部動いてんだよ! その辺のこと考えろよ。もう子供じゃないんだよ!」

 息継ぎもせず、僕は半分泣きながら、やけになって言った。通行人が、怪訝な顔でこちらを見つめては去っていく。僕はもう、どうしようもない。やりようのない。それくらい、くそくらえな人間だ。そうだろ、ミドリ? おれは、おれは。一体何をやっているんだ!

 ミドリは泣いていた。目から大粒の涙を流して、拭きもせず、そのまま突っ立っている。でも、ミドリはそんな状態の中で、言葉を、今まで聞いたことないくらいの大声で叫んだ。

「そうじゃない! アカツキくんはおかしいよ! 私は、壊したいんじゃない! 漫画を描くのだって、続けたいと思ってるよ。でも! 私にだって、自分一人でも生きてみたい気持ちとか、もっと成長したい気持ちくらいあるよ! 絵もっともっとうまくなって、もっとすごい漫画を描く。それでいいじゃん!」

 僕は、ミドリの話を、下に俯いたまま、もうほとんどの箇所を聞くこともせず流していた。なんだか、目の前にいるミドリに対して、無性に憎たらしさとか嫌悪とかそういう気持ち悪い感情ばかり湧き上がってきていたんだ。

 大体またいつか漫画を描くだなんて——きっといつになっても来ないだろうと思った。

 ミドリの話が終わって、僕はもう何も返すになれなかった。何を言っても、たぶん、無駄だから。それに、何も、言えない。言う言葉が見当たらない。

 ミドリが泣きながらも赤いジャケットを強く握りしめ僕の方を向いているのがなんとなく想像できた。

 僕はどうしようもなくて「はあ……チッ」と大きくため息を吐いて、軽く舌打ちした。

 それから数十秒ほどの沈黙が横たわった。僕もミドリも何も言わず、ただ夜になってもなお残る昼間の蒸し暑さのかけらの中で、駅前、暗闇の中で突っ立っていた。

 一分くらいが経ったとき、ミドリがその沈黙を突き破った。

「ねえ、先生?」

 僕は(先生か……最近、聞いていなかったな)と心の中でぼんやりと思った。

 僕はミドリの方を見なかった。だから、ミドリが泣いているのかどうしているのか、全く見当もつかなかった。

 でも、その後にミドリが発したのは、強くもなく弱くもない。単純な疑念でも、あざけるようなものでもない、懐かしさを仄かに感じる、あの日の、ぼそっとしたようなつぶやきだった。

「なんで先生は、小説書いてるの」



「わかった。イラストレーターでも何でも好きにしたらいい。もしやめるっていうなら、俺一人で続きやってくから」

「うん。わかった。ごめん」

「今まで、ありがとう」

「うん。ありがとう」



 それから、一年くらいの時間が経った。

 俺は高校卒業後、専業作家になり東京へ移住した。ミドリはというと、本人から聞いたわけではないが、地元の美術系の会社に就職し、無事にイラストレーターとなったらしい。

 もちろん、あれ以来、俺とミドリとが言葉を交わしたり、あの時と同じように会ったりすることはなかった。お互い、まるで煙に巻かれたかのように互いの前から完全に姿を消し去った。

 先に言う。俺は、小説家になった。漫画を描き抜けるほどの画力はやはり俺にはなかった。けれども、俺の書くストーリーは漫画家時代からそうだったように、世間からかなり高い評価を受けていた。だから、担当編集から小説家に転身してはどうかと言われ、このような状態になったということだ。

 東京に移住したのも、そのためだ。わざわざ毎度新書を出すたびに東京の出版社に出向いていては、きりがないからだ。

 漫画家時代からこつこつと稼いできた貯蓄をあてに、俺は東京の一角で貧しくなく暮らし、小説を書いてはまたがっぽりと稼いでいる。

 近々では、エッセイの出版や作品のアニメ化などによって、更なる利益も狙えている。


 だが卒業から半年たって、専業作家として活動し始めて、妙にいろんなことがつまらなく、いや、むしろ、嫌に思えてきた。

 小説を書くのも、なんだか楽しくなくなってきた。アイディアが思うように湧かない。文章を書く気になれない。近頃では、担当編集とのミーティングでも「最近、アイディア枯渇してきてますよね。旅行とか行って、いったん休んで発想を得たりとかした方がいいんじゃないです?」などと言われてしまう始末である。

 小説を書くことだけじゃない。食事とか睡眠とか、そういった全部のことに共通している。以前は楽しくやれていたことが、いつの間にくだらないことのように思え始めていたのだ。

 朝起きて、小説やエッセイの続きを書いて、昼に飯を食い、午後は担当編集やアニメ化をする監督とのミーティング、雑誌の記事のインタビューの対応とかをして、夜くだらん飯と大量のエナドリを入れる。そして気づいたら眠っていてまた朝になっている。そんな、全く不健全な生活を続けているせいだろうか? でも、こんなのは今に始まったことではなく、学生作家のころからそうだったはずだ。一体、何で何だ。

 また、以前よりストレスを感じやすくなった。例えば、自分の出した本に対するコメントや、批評家の講評などに対して。

 もちろんポジティブにとらえているコメントが多い。そりゃあそうだ。俺は雑誌でも「現代文学の先鋒」ともてはやされるくらい売れっ子作家だからだ。

 だが、世間全員が俺の書く作品を良いと言うとは限らない。百人いて百通りの考え方があるのが人間なんだから、当たり前だ。学生作家として漫画を描いていた時だって、たくさんの非難のコメントはあった。

その時俺は、そんなコメントに対していちいちストレスや怒りを感じたりしていなかった。そういう考えもある、それで終わりにできていた。

 でも、何でだろうな。今の俺は、どうにもそうはいかないらしい。

「文体が好きじゃなくて最後まで読んでらんなかった」

「ストーリー展開がありきたり。まあありきたりだから、こんなに売れてるのかもしれない」

「舞台設定などはほかの作家と一線を画しているが、そのほかの面においては突出したりはしていない」

「ワイ、漫画家のころから見てるけど、絵なくなってからはほとんど見てないわwあの絵があったからこその魅力だったのになww」

 こういうコメント全部が、むかつく。うざい。腹出たしい。無性に、許せないのだ。

 偽アカウントを十個作った。そして、そうやって非難するアカウントに向けてダイレクトメッセージを送ったり、もしYoutubeとかで動画を挙げているならば低評価をたくさん押してやった。

 俺自身、こんなくそみてえな行為に何も意味なんてないって分かってる。それが相手に直接届いてるとは限らないし、第一、こんなこと、社会にばれたら消されるに決まっている。俺と言う存在を隅から隅まで。

 でもやってしまう。まるで依存みたいに。これをしなきゃ気が済まない、みたいに。

 そして、これをやってるときに限って、俺は何か楽になれる。愚かな自分を見せつけている時だけ、自由になれる。


 ある時、専業作家になってから一年が経った春、アニメ化された自分の作品を見に行った。有名なアニメーターが総力をあげて作ったらしい。ネット上でも、評価が4.2とかなり良く、内心かなり期待をしながら見に行った。

 映画なんて見ることも少なかったから、久しぶりに映画館に来た。チケットを買うと、二千円。つくづく、大人になったということを痛感させられる。

 チケットを手に、座席に座った。ふかふかとしたシートに身を横たえ、幕間で流れる予告編たちを眺む。興味のある映画はこれといってなかった。

 やがて劇場内を照らしていた照明が消えた。ざわざわと話し声をあげていた観衆も静まり返った。東宝マークが見え、映画がはじまる。

 第一場面。主人公の絵が動き出した。夏の盛り始めた七月。学校を終え、友人と帰路に就く少年。「やっと夏休みだあ!」「待ちくたびれたよ」有名な声優の声によって、俺の書いたセリフが読まれていく。そして、感じのいい効果音も一緒に鳴る。

 この時点では、俺は、これは良い映画化だなと感心していた。色遣い、音遣い、どれをとっても完璧と思えた。

 しかし次の時点では、僕は持っていた緑色のハンカチーフを強く握りしめていた。

 思い出したのだ。思い出してしまったのである。ミドリの絵を。

 この映画の原作小説は、俺が初めて書いたもの——そう「ある児童の、夏休みについての話」である。そしてこれは、専業作家になって初めて出した作品だ。まあだから、四十五分ほどの映画ではあるが、製作陣もものすごい短い期間で作ってくれたということになる。

 絵は上手いし、音も良い。よくこの短期間で、こんなにも良い映画を作ったなと思いながら見ていたのは本当だ。

 だが、ミドリも、小学生のミドリも、この作品を絵にしていた。そしてそれは、僕の中において何者も超えることができない素晴らしい情景だった。自由帳よりも高性能な、鉛筆よりも高機能な技術の結晶で、作られたはずのこのアニメーション。僕は、ミドリの絵を思い出した瞬間、それがあまりにくだらなく、そしてつまらないもののように思えてしまったのだ。

「違う……俺が書いたのは、ミドリが描いたのはこんな世界じゃない!」

 気づけば俺は、上映中なのにも関わらず大声で怒鳴ってしまっていた。俺の近くにいた聴衆が俺のことを蔑むような眼で睨む。後ろから「うるせえよ」という小声。驚きのあまり俺のことを目をかっぴらいて見る聴衆。

 恥ずかしさのあまり、俺は勢いよく立ち上がって、まだ映画がはじまって三分と経っていないのに、そのまま半ば転びそうになりながら劇場を出た。

 だが、入場ゲートをくぐったとき、俺は羞恥とか後悔とかそういうのを一切感じなかった。後に残ったのは、ただ何もないような、心にぽっかりと空いた空虚な穴だった。

 急いで帰宅して、シャワーを浴びた。俺の脳に残っている、これまでの愚行やミドリとの思い出全部を消し飛ばしてしまいたかった。でも消えない。こびりついている。こびりつくのは、ただいつまでも素直だった、ミドリの顔や言葉。眩しくて仕方がないあの時の思い出。

 シャワーを止める。タオルケットで体を拭う。ふと、自分の顔を知る。

「あれ?」

 洗面台の鏡を見て、思わず呟いた。

「俺、何してんだろう?」

 手に持っていたはずの緑色のハンカチーフが、なかった。

 デスクに戻り「何円入るだろう」と思いながら自分を奮い立たせて仕事した。



 ミドリは先述の通り地元の美術系企業に就職した。今は街中のポスターやマークのデザインをしているらしい。なぜ俺がそんなことを知っているかと聞かれれば、情報収集をしているからと答えることになる。

 あの日——ミドリと話した最後の日以来、俺はミドリのことを忘れ去って、一人で生きていこうと思っていた。けれども、それは結局叶わなかった。いつだってふとした瞬間、俺はミドリのことを考えていた。そして、調べていた。

 ある時ミドリのアカウントを見つけた。Instagramに「〇〇株式会社専属イラストレーター」と書かれた、アカウントを見つけた。トップ画は、以前よくミドリが自分のシンボルとして描いていたミニキャラだった。確定だ。気持ち悪いだろう? でも仕方がない、見つけたんだから。

 ミドリはよくそこで、今度のいついつに個展を開くとか、自分で作ったデザインが賞を受賞したとか、そういう近況報告をよくしていた。そのたびに俺は、やるじゃんだなんて思いながら、心のどこかをナイフでぶっ刺されたみたいな痛みを感じた。

 帽子とマスクをつけて、新幹線で片道二時間。ミドリの個展に行ったこともある。俺はあの日「ミドリ絵上手いし、俺と一緒にこれからも漫画描いていけばいいじゃん!」などと言った。どうやら仕事で学べることは山ほどあったようだ。明らかにあの日まで俺が見てきた絵より芸術的にも、技術的にも上達していた。

 個展会場の中には、ミドリの描いたたくさんのポスターデザインや絵画が、一つ一つ丁寧に飾られていて、俺はそれを見回った。

 スーツを着ている男に話しかけられているミドリの姿を、その日帰り際に見かけた。ミドリのスタイルは相変わらず変わっていなくって、俺が見た最後のミドリと同じように、赤いジャケットを羽織っていた。「いつまであれ着てんだよ、あいつ」咄嗟にぼそっと言ったその言葉に俺自身なにか違和感を覚えた。

 出口を出たとき、コオロギの鳴く音が聞こえた。それと同時に、メールアプリの着信音も聞こえた。送信先は、担当編集だった。

『暁さんすごいっすよ。この前出した“紫のクロッカス”うちの文庫でひと月の売り上げ一位ですって! おめでとうございます‼ 編集長が今日話したいと言ってきかないので、都合がつくのであれば今日の夜七時くらいから、オンラインで話しましょう。あとでURL貼っておきます』

 俺はそれを見た瞬間、まるで短絡的な馬鹿みたいに得意になって、一度も振り返らずに個展会場を出て堂々とした足ぶりで新幹線のホームまで来てやった。

 新幹線の車両が緩やかに停止して、東京行きの表示の下ドアをくぐった。

 席に座って、スマホをいじって、苦いコーヒーを飲む。

 発進しだして数分が経ったか。

 どこまできたかと思い窓の外を見ると、個展会場がよく見えた。



 専業作家になってから、二年が経った。俺は大体五作ほどの小説と連載中のシリーズもの一作、エッセイ三作をそれまでに書き上げ、ほとんどでヒットと言わずともかなりの売り上げを出していた。

 印税収入により莫大な金が入り、俺の住居も東京の北のあたりから中心地のあたりに変わった。

「そうっすねー、この表紙絵だとなんだかうまく伝わってないような気がするんすよね」

 有名なイラストレーターに描いてもらったらしい表紙絵をその日担当編集はミーティング中に出してきた。

 俺は執筆しながらその絵を横目に見て思ったことをずけずけと言う。

「うん厳しいこと言ってるのは分かってるんすけどねー、ちょっとこの絵じゃなあ。もっとうまい人に変えてもらえませんかね」

 俺の言葉に、担当編集はどうしようもないよという言葉が聞こえてくるようなため息をして「わかりました」と返事した。

 画面左下に映る「退出」の文字を「じゃあまた」と言ったと同時クリックした。

 部屋の中に静寂が戻る。その静寂の中でも、俺がキーボードをタイピングする音は鳴りやむことなく散乱する。

 もう夏も近くて、窓の外では沢山の人々が、日傘やら帽子を身に着けて縦横無尽に往来している。エアコンの効いた室内では、彼らがどんな感覚であるのかを知ることはできない。

 ミーティングが終わって三十分くらいが経った。俺は一つの場面の文章を書き上げ、一度読み返し、ある程度の誤字を直して次の場面に取り掛かろうとしていた。ところがその瞬間

——プルルルとスマホから着信が鳴った。誰だよと思いつつ俺は画面を覗いた。するとそれは母からだった。

「もしもし」

 俺は若干不機嫌ながら、その電話に出た。

「もしもし、聞こえてる?」

 久々に聞く母の声が、スマホの上部と下部から出て俺の鼓膜に触れる。なんだかいつもより落ち着きがないというか、震えている。

「聞こえてるよ。で、要件は何?」

 俺はそう早口で母に尋ねた。仕事に戻りたくて、さっさと済ませてしまいたかったのだ。

「ミドリちゃんのことなんやけどね」

 母は続けてそう言った。ミドリ——俺は思わず「え?」と声に動揺を出してしまった。ミドリって、何で急に。何かあったのか。俺の中を不安が逡巡する。

「あんたスマホ変えちゃったから連絡がつかないって、ミドリちゃんが言ってたばかりだった……」

 俺は何があったのか早く知りたくて「だから何、ミドリがどうしたんだよ!」と母に早く言うよう急かした。

「あのね……あのね……」

 電話越しにわかる、母の泣き声。正直言って、もう俺は気が気じゃなかった。ミドリの身に何が起こったのが、心配でたまらなかった。

「早く言ってくれよ!」

 母が何も言わないから、俺は相当強く怒鳴ってしまった。すると泣きながら母はこう言った。

「ごめん。お母さん、言えない。たぶんもうすぐニュースになる頃だと思う。そっちで見て」

 そして、母はそう言った後すぐに電話を切った。俺は急いでニュースをつけようとした。しかし足が滑りそのまま床に顔を打ち付けてしまった。打ち所が悪く、鼻血が流れだすのを感じる。俺は痛みに耐えながら、何とかリモコンを手に取り、ニュースをつけた。




「おれらがさ、大人になったときにはさ」

「急に何? 先生」

「どうなっているんだろうね?」

「うーん、そうだなー」

「案外今と何も変わってないのかな」

「どうだろ笑」

「ミドリはさ、どうなっていたらいいと思う?」

「……なんでもいいかな?」

「なんでもいい?」

「うん」

「それってどういうこと?」

「ふふっ、わたしにもわかんない」

「何だよ、それ?」

「あはははっ」

「……」

「……」

「あ、でも」

「何?」

「一つだけ、あるかも」

「一つだけ?」

「うん、一つだけ」

「それは、何?」

「うーん、そうだなー」

「何? 早く言ってよ笑」

「……いや、やっぱりやめた!」

「えー何だよそれー」

「ふふっ、分かってよ」

「こりゃ難問だなあ」

「……ずっといるから……」

「ん、何て言った?」

「ううん、何も」

「何だ? 今日は隠し事が多いな笑」

「いつもどおりだよう」

「そっか」

「うん笑」




 ——ニュースをお伝えします。今日未明、イラストレーターの〇〇ミドリさんが、△△県××市の病院で亡くなられました。二十歳でした。ミドリさんは高校卒業後〇〇市の美術系企業に勤め数々の作品を描き続け、高い評価を得ていましたが、白血病の罹病し、闘病の末、息を引き取ったそうです。詳しい情報が入り次第、再度お知らせします——










『発売延期のお知らせ——この度、来月発売予定だった暁緑の新作小説の発売を、延期させていただくこととなりました。理由といたしましては、暁緑自身の休養のためとなります。延期期間などについては、まだ決まっていません。ご心配、ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどどうかよろしくお願いいたします』


 あの日、パニックになったわけではない。ただテレビ画面に流れる死去の文字を、ずっと見つめていた。

 別に悲しくないわけではなくて、本当は今にも死んでしまいたいくらいだ。でも、そんなことすらもする気にならなくて、ただ、心に大きく穴が空いたような気でいるのだ。

 新幹線に乗って、久しぶりに窓の中から覗いた車窓は相変わらず田園風景だった。のろく動くトラクター。どこまでも青く澄む空。緑に覆われる山々。五年前、十年前と遡ったとしても、何かしらの変化は見受けられないだろう。

 隣席は空いている。その座席は、誰か座ってくれる主を待っているようにも見える。ミドリといつの日か東京へ遊びに行ったとき、二人してこの二列シートで話をしていた気がする。

 二時間という長くも感じられる時間はあっという間に過ぎて、気づけば俺は地元に着いていた。駅前の景色も、何一つとして変わっていない。

 ミドリの葬式会場まで、タクシーで約三十分。鬱蒼とした森の中に真っ黒くそびえる火葬場備え付けのホールだ。

「〇〇市立斎場ホールまで、お願い」駅前のタクシーにのって一言。運転士は何も言わずに走り始める。

 いくつかの町を抜けると、ふるさとの景色が見えた。まだ式場についてもないのに、ちょっと泣いた。

「この度は、お悔やみ申し上げます」そんな俺を見て、運転手がそう言った。そうじゃねえよ。

「お支払い、三千円になります」札三枚、置いて出た。

 懐かしいコンクリの煙突を見て、十年前の祖父の葬式を思いだした。

 骨肉腫で苦しみ悶えて死んだ祖父は、最期には死に際の肉食鳥みたいに醜かった。何のためにふんばって生きるんだろうと、それを見て思わなかったと言えば噓になる。

 ここで焼かれて俺の前に出した、あの、情けないほそぼそとした骨は、今でも鮮明に思い出せる。若い時はがぶがぶ酒を飲んでたとは思えないほど、小さく脆かった。

 式場の中に入った。

「故 〇〇ミドリ 葬儀式場」と威勢よくも悲しく書かれた看板の近くに、ミドリの親戚がいた。そして、その奥に俺の母がいた。

「来てくれたのね……」親戚は俺を見るなりそう涙ぐみながら言った。

「この度は、お悔やみ申し上げます」俺は親戚にそう返した。お悔やみ申し上げます——なんと意味のない言葉なんだろう。この言葉で、どれほど悲痛な思いを伝えることができるんだろう?

「生前、ミドリさんにはひどくお世話になりました」僕が付して言えたのはそれだけだ。

 通夜は昨日に執り行われていたため、俺が参加したのは葬儀(告別式)と火葬だった。この一連の中で、俺が泣いたり悲鳴を上げたりすることは一切なかった。やっぱり涙一つ流れなかった。故郷の姿見たときは泣けたくせに。

 式中、俺は痛いほどミドリが愛されていたということを痛感させられた。泣きながら弔辞を読むミドリの同僚。涙をすする音とともに読み上げられる、お別れの言葉。その全部から、俺はミドリという存在の大きさを知った。

 そこにもう赤はない。

 同時に知った。

 更に、遺骨になったミドリを見て、そしてそれを見る人々の顔を見て、俺は悟らずにはいられなかった。


 きっと天命だったんだ。ミドリは、僕の右腕として動くような人間じゃなくて、僕なんかとは切り離されて、一人で活躍していく人間だったんだ。


 泣き声ばかりを聞いたその日の夜、俺は久しぶりに実家に帰った。二、三年前に出てった時と、まるっきり変わらない。古びた外装も、トタン屋根も、あの日見たまんまだった。

 玄関に母と一緒に入る。母が言う。「お風呂わかすから、部屋にでもいなさい」

「わかった」ぼそりと呟いた。

 自室の前に立った時、何だか懐かしい気がした。ドアに貼られているステッカーとか、全部変わらないし、その色合いも、優しく感じられる。

 ドアを開けた。

 この時、俺はちゃんと泣いた。

 ものすごい喪失感と、虚脱感。懐かしむ気持ちや、絶望。いろんな感情が入り乱れ、まじりあい、そして収拾はつかなかった。

「ううっ……っああああああああ!」まるで赤ん坊のように、声を上げて、明確に泣いたのである。

 うず高に積み上がったスケッチブック。いくつもの手垢のついた教則本。抽斗の中にあるボール紙とインク。暁緑のたくさんの単行本。賞状。雑誌。

 ——。

 すべてが僕を混乱させた。ありとあらゆるもの。そこにあった時間。すべてが、僕を混乱させ、慟哭させたのである。

「なんで、なんで」発したのは情けないそんな言葉で、その言葉も誰に伝わることもなく宙に消えていく。

 なんであの時、就職するのを止めさせなかったのだろう。


 なんで漫画描こうだなんて言ったんだろう。


 ——なんでミドリと出会ったんだろう。


『出会わなければ、こんな気持ちにならなかったかもしれないのに』



 何分間泣いたのだろう。だなんて言っても、答えてくれる人なんていない。

 かなりの時間が経ったように思い時計を見た。でも、三分くらいしか経っていなかった。

 僕は泣き止んだ。出る涙もなくなった。目を赤くはらした。髪を乱した。ハンカチをいっぱいに濡らした。でも、得られることはなかった。

 泣き止んだその時に、後ろから声がした。振り返ると、いつからいたのかは分からないけれど、母の姿があった。

「見てた?」僕は素直にそう尋ねるしかできない。

「うん、全部」母は嘘なんて吐くことなくそう答えた。

「ごめん」僕はなぜそういったのかは分からないが、謝罪を口にした。

「なんで謝るのよ」母は少し笑いそういった。

「悲しいわね」

 僕はそんな母の言葉を聞いて言う。

「ニュースを見たときも、葬儀中も、ずっと悲しくなんかなかった。いや、悲しくないなんて言ったら噓になるんだと思う。でも、泣くほどなんかじゃなかった。おれがずっと感じてたのは、何だか大きな、穴みたいなもので。悲しみではなかった。でも、さっきこの部屋に入ったとき、それが水を噴出したみたいに、大きな波となっておれに涙を流させた。理由なんて知らない。でも、間違いなく俺の中で何かを感じたんだと思う」

 脈略もロジックもない、僕の言葉を、母はこくりこくりうなずきながら聞いてくれた。気づけば母も泣いていた。何に泣いたのかは、たぶん分かるような気がしていた。

 僕の言葉を聞いて、母はほほえみながら、こう言った。温かく、ゆっくりと。懐かしむように話した。そしてそれを言った後に、僕と母が言葉を交わすことはなかった。

「ミドリちゃん、亡くなる一週間前までよくうちに遊びに来てた。まさか病気だったなんて、私も気づかなかった。あの子はいつも気丈で、元気そうに見えた。そう見せてたのよ。ミドリちゃんは本当に強かった。あんた、あそこに見えるわよね。単行本。ミドリちゃん、いつもそこでそれを読んでたのよ。ずっと」


 母が去ったあと、僕はこたつの上にのっている単行本を手に取った。

 そして、それをパラパラとめくった。ざっと百五十ページくらい。

 最後には栞が挟まれていた。

 表紙には——夏休みの冒険(5)と書かれていた。



 東京に帰宅後、郵便ポストを開けてみると、おかしな量の郵便物が入っていた。いろんな明細やら案内やらばかりだった。しかしその中には、たくさんのファンレターがあった。

 机の上に置き、その数を数えてみると、五十はゆうに超えている。

 あまりの多さに読む気が失せる中、ある一枚が目に留まった。

 ファンレターに描き掛けられた文字。

「暁先生のストーリーを、いつも読んでいます。そして、もっと見たいといつも思います。ごめんなさい。謝っても済まないことだと思います。でも私は、これからもずっと、先生のことが大好きです。いや、そんな言葉じゃ言い足らない。私はずっと、先生の読者です」

 まるで幼稚園児が書いたような字だ。

 でも、それは僕の心を締め付け続ける。

 この気持ちは一体何なのだろう?

 その時、僕の視界に懐かしいものが映った。

 それは、隅っこに描かれていた、懐かしい、あの時、あの初めて会った日にミドリが描いていた「異世界シリーズ」の主人公の似顔絵だった。



 もう書くことも野暮だ。話も終わりにしよう。



 僕はその読者アンケートを読んで、泣いた。

 ぼろぼろと涙があふれた。

 そして同時に、失っていた大切な何かを取り戻したような気がした。

 激しい慟哭の末、僕はまた執筆に、ちゃんと戻ることを決意する。


 そのファンレターをほかのたくさんのそれと一緒に、抽斗に仕舞った。忘れてしまわないように、忘れるわけがないだろうけど、大切に大切に、愛用の黒インクのペンと一緒に。

 赤いジャケット姿が見える。

 僕が小説を書き続ける理由が、その時はっきりと分かった。

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アカツキとミドリ 水無月うみ @minaduki-803

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