言葉シュガー

水無月うみ

言葉シュガー

 一


 病院の一角にある、大きな桜の樹が見える角部屋。そして、その中にある小テーブル。そこには今も、毎日必ず「角砂糖」が一個置かれている。

 ここは、僕にとって非常に大切な場所だ。十年前から、彼女と過ごしている場所なのだ。彼女――僕のとって「大切」な人、「忘れたくない」人、何より「初恋」の人のことだ。

 彼女は十年前に、肺の癌で死んだ。まだ社会人にもなれずに、若くして。彼女は僕の同級生で、僕は彼女に大学一年の冬、「病院で」知り合った。何故かといえば、当時僕は彼女と同じく、癌を患っていたからだ。けれども残念なことに、彼女は死に、僕は生きた。

 「テーブルの上の角砂糖」それを見るたび、僕は彼女を思い出す。ともに闘病し、ともに生き、ともに笑った日々も一緒に。まるで映画のエンドロールみたいに、すらすらとそれらは再生される。こんなことを言うと、いくらかの僕の友人などからは、悲しいことだとも言われる。けれどもそれは、決して悲しいことではないのだ。もはや、悲しんではいけないのである。彼女が言った「最後の言葉」を守り抜くためにも。

 それでも時々、ほんの少しの悲しさが、湧き上がってくるときもある。彼女が見せた様々な表情が、今も僕の脳裏にこびりついているからだ。


 二


 十年前のあの冬の日、僕は病室のベッドで、横になっていた。左腕は点滴で冷たく、機械は一定のリズムで音を打っていた。そのリズムが崩れたかと思えば、医者がドアをノックした音だった。

 医者は定期診察でやってきては毎日のように言った。

 「秋原さん、食事を摂るのは辛いと思うけど、しっかりと食べないと癌に負けてしまいますよ」

 いつも同じことだった。それはおそらく僕の残食率が九十五パーセントをゆうに越えていたからだっただろう。けれどもこれに対する僕の返答は、いつも同じだった。

 「いいんですよ、どうせ死ぬんですし。せめて最後くらい、つらい思いさせないでください」

 僕の癌は、ステージ四であった。癌のステージの中でも、最上級。もはや末期がんと呼ばれるくらいである。

 人というのは、諦めが付くと何もしたくなくなる、しなくなるというのを僕は自分自身の体験で知った。小説何かでは、こういった時に奇跡が起きて克服するのだろうけど、これはリアルであり、起こるわけもなかった。

 それでも医者は、毎日虚言で励ます。

 「秋原さん、そうやって希望を捨てないでください。大丈夫ですよ、なんとかなりますから」僕は思わず苛立って、

 「じゃあなんとかなるって言いますけど、どうやって? そういう確証あるんですか? 中途半端に励ましたりするのとかうんざりなんで、もうやめにしてください」

 僕は医者の目も見ずに小さく、でも多分強く言っていた。ゆえにそれ以上、医者は何も言ってこなかった。

 「もうこうやってベッドで過ごしているのも嫌になりました。最後くらい、自由にさせてくれませんか?」

 僕はそんな医者に嘆くように言った。ずっと目をやっていた窓の外の桜は、やはり綺麗に咲いていた。たちまち医者が口を開いたかと思うと、これまた意外な返答をするのだった。

 「......いいでしょう。それで秋原さんの気が晴れるのであれば、私に止める権利はありません。看護師に点滴を外させますから、少し待っていてください」

 本当に予想外だった。彼がそんなことを言うとは思いもよらなかった。ついに見捨てられたのだろうかとも思った。まあいい、最後くらい、好きに遊んでやろう。

 直に看護師がやってきて、点滴を外してくれた。針が抜かれた瞬間、自由になれた感覚があった。しかし点滴無しで立ち上がってみようとすると、足の肉が完全に削ぎ落ちていて、立てなかった。仕方がないから、点滴のつかみだけ、点滴もないのに受け取った。看護師は僕に、夕食前には必ずベッドに戻ること、病院の敷地外へは出ないことを言った。ベッドを抜け出せるのなら、全然それで良かった。

 病室を抜けると、長い廊下やキッズスペースなど様々な目新しいものが見えた。普通の人から見れば、何の面白みもないものに見えるのだろう。けれども僕にとっては、それらは充分過ぎる代物だった。それらはあまりにも新鮮に、そこに佇んでいた。

 おぼつかない足取りで廊下を抜け、この病院独自である図書室、というよりかは図書コーナーへ行ってみようと思った。図書室は一階の中央、受付付近にある。せっかく入学できた文学部で何もできなかった分、いま少しでも本を読んでやろう、そう思ったのである。やっとの思いで着いたエレベーターホールで、エレベーターを待った。ピンポーン、という音とともに、エレベーターの扉が開く。ここから先は、半年ぶりの世界だ。

 エレベーターに乗る。その鉄箱は、ドアが閉まると急降下を始める。踵が立って、自分の肉体が上へと持ち上げられたような気がして驚く。そしてブレーキが掛かる。少し酔った。きっと、久しぶりだからだ。

 一階につくと、見慣れない患者や窓の外に見える街など、刺激的なものが兎にも角にも溢れていた。とりあえずと思い図書コーナーへと向かった。大きなコンクリート柱の下に、円のように広がって、棚がある。僕は日本文学のコーナーへ向かう。

 とりあえず芥川龍之介でも読むかと、適当に見つけた「河童」(かっぱ)を読むことにした。近くの椅子に腰をかけ、本を開いた。実に新鮮な気持ちだった。また、不思議な気持ちがそこにはあった。


 ――けれども僕が本を開いた次の瞬間だった。後ろから声がしたのだ。生意気なような、でも可愛らしい、そんな声が。

「これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である」

 突然だった。急に後ろから――それも聞き慣れたこともない初めての声だったので――あまりに驚いて、短い寿命が少し縮まったような気がした。思わず後ろを振り向くと、見たことのない、けれども少し華奢な、明るい少女、といっても僕と同い年くらいの女性が立っていた。僕の気持ちの収拾がつかないということにも関わらず、それから彼女は口を開いた。

「驚いたでしょう?」

 彼女はニヤリと笑うと、白い歯を僕に見せた。僕には到底、彼女が病院にいる人間だとは思えなかった。いじらしく、悪魔的に笑う彼女が。しかし、ずっと無言であるのは良くないと、何か言わないとと思って、

「やめてくれないかい? 僕はもうすぐ死ぬ人間なんだ。少しでも寿命を削るような行為を、僕の前でしないでほしい」と、正直に思ったことをずけずけと言った。すると彼女は少し膨れて、

「全く、初対面の人にそんな言い方はないでしょう」と言った。

「君も、初対面の人が読もうとしている小説の一文目を読むとは、随分気が違ってると思うけどね」とそれから僕は挑発するようにからかった。けれども彼女にそれは逆効果で、

 「君、面白い話し方するね。まさか、ライ麦畑でつかまえて、の男の子のまねでもしてるんじゃないでしょうね?」と、すぐに会話を続けようとするエーアイか何かのようにマシンガントークをした。彼女の発話は止まらなかった。

 「ライ麦を知っているなんて、君は文学少女か何かなのかな? まあいいや、とにかく僕の読書の邪魔をしないでくれ」僕はそんな彼女をなんとか止めようとして、ストップをかけた。けれども彼女は強引に話を続けようとした。

 「いいじゃーん、一緒に話そうよ〜。私ずっと病室に閉じ込められてて今とっても高揚した気分なんだよ〜」

 「病室に」という言葉を、僕は逃さなかった。もしかしたら、眼の前にいる気が違った女性は、病気を患っているのかもしれない。もし万が一そうならば、僕もそこまで強く言うことはできない、そう思った。

 「――失礼だけど、君は何か病気でも抱えているのか?」少しの間をおいて、僕は弱々しく言った。すると彼女はすぐに、

 「やっと喋った〜怒っちゃったのかと思ったよ。うん、そうだよ、私、肺がんなの。ごめん、我慢してたんだけどもういいかな」と少し声を下げて言って、それからひどく咳き込んだ。

 ――嫌な音だった。まるで何かが壊れるような、そんな咳だった。僕はその時、初めて眼の前にいる女性が「病気なんだ」ということを実感した。しかしなぜあんなにも明るいのか、やはり気が違っているのではないかとも思った。

 僕の逡巡とは裏腹に、彼女は咳き込むと言った。

 「で、君も何か病気もってるんでしょう? 何なの? 言ってみなよ。私しか聞いてないんだからさ〜」まるで彼女は学生の、好きな人を尋ねるような調子で僕の病気を訪ねてきた。しかしこれは隠す必要もないことだし、彼女に言ったところでどうにかなる話でもない。別にいいやと思って、僕は眼の前の『今さっき出会った女性』に自身の病気を言った。

 「僕は胃癌さ。もうステージ四でね。治りそうにもないんだ。でも不思議なもので、意外とこれが動いていられるんだよ」僕は彼女に、別に心配されることもないだろうが、気を悪くさせないためにフランクに言った。すると彼女は、

 「奇遇だね! 私と同じ癌なんて。それにステージまで同じなんてね〜」と少し咳き込みながら言った。「ステージまで」それには流石に驚いた。肺がんは、胃がんなんかよりもっと辛いはずだ。ステージ四の肺がん患者――それが彼女だった。しかし彼女はあっけらかんと、それもさっきからずっと立ちっぱでいられている。なぜだ? もう気を使う必要もないかと思って、僕は思い切って聞いてみた。

 「確認なんだけど君はステージ四の肺がんなんだよね。なんでそんなに平気でいられるのさ」意外と簡単に聞けた。すると彼女は笑って答えた。

 「それは秘密だよ。さすがに、言うわけにも行かないからな〜。でも、君がステージ四の胃がんで動けているのと、同じようなものなんじゃない?」答えた、というよりか、はぐらかされた、に近い。けれどもそれが彼女にとって重大なことであるなら、部外者である僕が入り込むわけには行かなかった。僕が何も言えずにいたからか、彼女は焦ったように話題を変えた。

 「まあいいよ、気にしないで! それより君は名前なんて言うの? せっかくの共通点を持った仲間同士、仲良くしようよ〜」彼女は本当に僕が初対面の人間であるということを知っているのだろうか。しかし、まあもう長くない命だし、僅かな間の友達ができたとでも思ったら、そんなに悪い話じゃなかった。

 「僕は秋原言葉(ことは)だ。名前が少し変わっているのはあまり気にしないでほしい。両親が編集者でね。あと、何を言えばいいかな。強いて言うなら大学一年生、とかぐらいかな」僕は長年自己紹介なんてしていなかったから、言うことが見当たらず、かなり焦った。けれども彼女はまた笑って、

 「また共通点だね。私も大学一年生! お互い一年生で初々しいのに、残念だね〜。まあ仕方ない。切り替えよう!」そして、ずっと一人で、笑って、盛り上がっていた。

 「私は清原愛華(あいか)。よろしくね」と彼女は次には右手を差し出していた。左の手は口元に当てて、咳込みながら。僕はわざとらしく、左手で胃の辺りを苦しそうに抑えながら、右手を差し出した。そして言った。

 「こちらこそ」彼女はそれに笑いながらも満足したみたいだった。

 「私達、まるでパートナーみたいだね!」僕は何も反応することができなかったけれど、彼女も別にそれでいいみたいだった。気づけば彼女は、自分用の椅子と本を持ってきていて、僕の隣でそれを読み始めていた。彼女はずっと「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた。時々、また苦しく咳込みながら。


 気づけばもう午後四時になっていた。僕はそろそろ病室に帰ったほうがいいだろうと思った。そして、いつの間に読んでいた「芥川龍之介全集」を棚に戻して、彼女に言った。

 「君、僕はもう帰るよ」するとすぐに、

 「え〜、もう帰っちゃうの〜?」彼女は小学生、というかもはや幼稚園児であるかのように見苦しく駄々をこねた。彼女の肺がんは知性までも退化させてしまったのだろうか、と少し頭の中で小馬鹿にした。

 「残念だけれど、僕はもう行かなきゃならないんだ。君には悪いけど」

 「まあいいよ、今日はありがとう。また明日ね」彼女はそれからそう言った。

 「また明日?」と僕は思わず聞き返した。

 「まあ、明日があるかはわからないけどね」彼女は僕の質問の意図に対してかなりひねくれて返答した。

 「そんな悲しいこと聞いたわけじゃないよ。僕がいつ明日君と合うって言ったのさ」僕の発話に彼女は、心底驚いたのかはじめだけ大きく、

 「ねえ、私達友達なのよ!? お互い短い時間なんだから一緒に毎日過ごしてみようよ〜。きっと一人でいるより楽しいよう」と後半はまた駄々っ子のように言った。

 「まあ君がそれでいいなら僕もそれでいい」僕はなるべく自然に返事した。

 「じゃあ明日またこの場所でね、午後一時、忘れるんじゃないよ。忘れたら許さないからね!」彼女はそしてゆらりとした口調で言った。

 僕はそんな彼女を一瞥すると、またおぼつかない足取りで点滴のつかみを支えに歩き始めた。後ろに視線を感じて、エレベーター手前で振り返った。するとそこには手を降っている彼女がいた。まるで恋人みたいで馬鹿らしかった。だけれどその純粋さを、僕は受け止めてやらなければならないと感じた。僕は恥ずかしながらに小さく手を降った。遠くには、飛び跳ねてはまた咳き込む彼女の姿が見えた。何だかとても、小さかった。


 三


 気持ちの良い朝だった。空はどこまでも快晴で、冬らしいグラデーションがかった色合いだった。街には時折落ち葉や鳥たちが飛んでいき、風情のある景色であった。

 いつも通り、午前七時にまずい朝食が来て、午前九時に定期検診であの医者が来て、午前十一時にはまずい昼食が来た。基本的に食って寝る。けれども全く太らない。肉体はずしんとどこか重くなるばかりだけれど何も変わることはない。

 この日は昼食を食べたあとに腹痛が訪れ、トイレで吐いた。吐瀉物が便器の水に勢いよく当たってそれが跳ね返った。喉の奥の方でしみるような痛みと苦しみがあった。胃の奥の方から何か嫌な風味と血の匂いがした。とても味わいたくないものだった。もうこんな思いが最後まで続くのなら、いっそのこと死なせてくれ、本気でそう思った。

 だけれど、午後一時の約束が会ったから、重い体を引きずり起こして、また点滴のつかみに頼って、僕はエレベーターホールへと向かった。

 昨日に比べるとまた少しおぼつかなさが増していた。けれども、誰彼何も言わない。所詮自分など患者のうちの一人に過ぎないのだから。

 エレベーターの急降下は、今日の自分にとっては辛すぎるものだった。胃が少し持ち上げられ、慣性の法則か何かで最後には地面に叩きつけられた気分になった。また吐きそうになって、でも耐えて、胃の辺りが苦しく自分に押しかかる。そんなことの繰り返しばかりだった。

 ようやくの、やっとの思いで一階につくと、昨日の図書コーナーとは少しズレたあたりにあるカフェに、彼女が見えた。カフェ、といっても全国チェーン展開されているそんな特別感のあるものではないのだけれど。しかし、こちらに笑顔で手を振る彼女を見ていると、来てよかったな、あるいは来てくれてありがたいなという感情がそこはかとなく湧いた。

 やはり遠巻きに見た彼女は小さく見えた。それは患者服のせいかもしれないし、病気で縮んだのかもしれないし、始めからそうだったのかもしれない。けれどもそんなことはどうでも良かった。小さくても、彼女が放つ雰囲気と言い表情は、いつも、といえど見ている間は大きく感じたからだ。

 「おーい、こっちこっち!」とそれから彼女は馬鹿みたいに大きく手を降って、馬鹿みたいな大声を出した。周りの視線が、瞬間的にこちらに集まった。勘弁してほしいなと思いつつ、僕はカフェの中に入り席に座る。

 「君、常識ってのを知ってるのかい? あんなことされたら、恥ずかしくて溜まったものじゃないよ」開口一番、僕は言った。

 「だって、君が手を降ってくれなかったから」彼女はまるで怒られた小学生みたいに、もじもじしながらそう言った。

 「まあいいけど。いや良くはないけど、僕はああいうのが苦手なんだ。だから本当に勘弁してほしい」

 「まあ、君そういうの苦手そうだもんね〜」とそれから彼女はまた笑顔を貼り付けながら、僕を嘲った。

 「そうだ、僕はああいうの苦手なんだ。だから勘弁してほしい」僕はその挑発に乗って、そういうふうに言った。

 「はいはーい、善処しまーす」彼女は昨日と同じく一文節ごとに伸ばし棒をつけて言った。それから、

 「とりあえず、注文しなきゃね」と言った。一番知性を感じる発言だった。

 それから僕らは、同じホットコーヒーを注文した。というよりかは、それしか注文できなかった。僕らはもう、甘いものだったりを好きに食べられる体じゃなかったのだ。

 それらが届くまでの間、彼女はまた話し始めた。

 「君、恋ってしたことある?」意外にも、彼女はそれを少し赤めいて、けれどもあまり見せない寂し気な顔で聞いてきた。どう返答するのが吉か、分からなかったけれど、

 「恋、か。逆に僕がしたことあるように見える?」と僕は逆に質問した。すると彼女は、

 「こんなに陰気な君が、恋なんてしたことあるわけないじゃん! そうに決まってるな〜」と馬鹿にするように言った。間違えてないのが、少し悔しかった。

 「そうさ、こんなに陰気な僕が、恋なんてしたことないに決まっている。本当に、したことない」すると彼女は、

 「そっかそっか。じゃあ、今はどうなの?」と更に聞いてきた。

 「僕は生まれてから生涯独身のままだよ。もう死ぬけど」僕は言った。

 「そっか。まあそうだよね、もう死んじゃうんだもんね」彼女はまた少し寂しげな顔を見せながら言った。しかし、彼女が見せる寂しげな顔の意図が、僕にはまだよく分からなかった。僕自身、彼女はすごく強い人間だと思っていたからだ。

 急に沈黙が流れ出したからか、彼女は焦って言った。

 「君も何か、話題ないの?」言った、というよりは要求、してきた。こんな僕にそんな都合よく話題を出せるわけがなかった。けれども一つ、言えることがあった。

 「一つだけ、話題っていうか君に聞いてみたいことがある」僕はそう彼女の顔を見計らって言った。

 「え、私に質問!? 君もたまには私を喜ばせられるようなこと言えるんだね」彼女はいとも簡単に笑顔になった。まるでインターネット上の絵文字みたいに。

 「君に聞いてみたいことがあった。まだ出会って二日しか経っていないけれど、今のところ僕は君の笑顔ばかり見ている。僕らもう死まで秒読みの人間たちだ。なぜ君はそんなに笑えるのさ」僕は聞いてみたいこと、気になっていたことを一息に訪ねた。すると彼女は、ほんの一瞬だけ俯いた。けれどもすぐに笑って、言うのだった。

 「怖くないよ。だって、怖がったって何も変わらないんだもん。それより私達がやるべきなのは、今この瞬間を楽しむことじゃない? 後先の事はどうにでもなるんだから」

 彼女が笑いながら言ってくれたそれは、間違っていないと思った。その上に、核心を突いていたようにも思った。確かに僕らは、後先の事を考える時期じゃないんだ。今見るべきなのは、いま流れ続けているこの一瞬なのだ。

 タイミングよく、コーヒーが到着した。苦くも香ばしい香りが、僕らの鼻腔をくすぐった。僕らはその後も、時間の限るまで他愛のない雑談をそのコーヒーの香りの中でした。気づけばまた昨日と同じように、午後四時、少しずつ空が暗がり始めていた。

 「そろそろ、行こう」僕は話を切り止めるようにそう言った。

 「あ、もうこんな時間かー」彼女は言った。

 「君といると、時間が速く流れるよ。退屈で死にそうだった僕にとって、やはり君の存在は大切だと思う」僕は小恥ずかしながらに、でも彼女の先程の言葉を思い出し、今言っておきたいことを言った。彼女はそれを聞くと、

 「私も」といつもの笑顔に似合わず、なんとも言えない複雑な表情を貼り付けて、言うのだった。

 僕は受付で料金を支払うと、彼女と別れた。昨日と同じく、午後一時、ここで会う約束を取り付けられて。またおぼつかない足取りで、エレベーターホールへと向かった。振り返ると、やはり彼女がいた。手を大きく振って、ひどく笑って。僕は昨日より少しだけ大きく手を振り返した。また彼女は、昨日よりも大きく、飛び跳ねては笑った。しかし僕は見逃さなかった――彼女が笑いながら大きく咳き込んでいたのを。


 エレベーターに乗って、急上昇が始まると、やはり僕の体調はおかしくなった。胃はひどく気持ち悪くて、全身の倦怠感はまるで鉛の肉体かと思わせるほどに酷い。今、どう生きるかということ以上に、今を精一杯生きられないという気持ちが芽生えてしまった。

 エレベータの扉が開く。窓越しに見えた夕暮れの空。僕らの死期を悟らせる。


 四


 それから三ヶ月がたった。あの日出会ったのは十一月のことだったので、もう二月になっていた。街は節分ムードで盛り上がり、僕の病院は高齢者が寒さにやられて死人で盛り上がっていた。そんな中でも、僕と彼女はお互いにあのカフェやあるいは敷地内の庭園に行ったりして、お互いの存在を求めあっていた。僕たちは、お互いの存在を確認することで、毎日をだらだらと生きていたのだ。いや、生きられていたのだ。

 毎日他愛のない会話をしていた。けれども僕たちは、そんな他愛のない会話に救われていた。いつ死んでしまうかわからないからこそ、「今日は晴れだね」とか「今日の朝食は不味かった」とか「退院したらディズニーに行ってみたい」とか、そんな言葉たちに励まされていたのだ。


 雨が降っていた。その日は、冬に似つかない雨が、東京の街を襲った。僕の病室からも、その様子は一望できた。雨は、空も街も僕もすべてを真っ黒に染めた。窓ガラスには、爪で引っ掻いたみたいな水滴の跡が、いくつもできていた。

 僕はまたいつもと同じように午前中をやり過ごすと、また、いつもと同じように午後一時の約束を果たしにエレベーターホールへと移動した。

 胃の癌はあれから、肝臓、小腸にも転移した。生還は、正味絶望的な状況だった。こう歩けているだけで不思議なものだった。本当ならば、痛すぎて歩けない。確かに体は痛くて重い。けれども歩けているのは、やはり彼女のおかげなのだろうか。それとも単にまだピークではないためなのだろうか。だがそんなことはどうだって良かった。大切なのは、今どう生きるかだけなのだから。

 半ば引き攣るような足取りで、僕はエレベーターに乗った。毎日経験した急降下は、未だに苦しいものがあったが、流石に慣れてきた。エレベーターを降りると、いつもと同じように彼女の姿がどこかしらに見える。今日は、受付近くの窓際にいた。

 その窓からは、病院内の庭園や菜園、湿度が低ければ近くの町並みも見ることができる。しかし、今日は雨が降っていたのでさすがに叶わなかった。

 ある時から、僕がエレベーターを降りても、彼女は手を振らなくなった。笑顔をこちらに向けるだけになった。正確に言うと、彼女は手を振れなくなったのだ。僕が癌が三箇所に転移したように、彼女の肺がんも、彼女の腕の骨や脾臓に転移していた。現実は、僕らをじわじわと殺しにきていたのだ。

 腕のなくなった彼女は、今日も笑っている。笑顔だけは、いつも限りなく捨てないで、生きる希望を見捨てなかった。僕が死にたいと思ってそれをこぼすと、彼女は珍しく怒るものだった。彼女にとって、生きようとするその姿勢が、最も大切だったのだ。

 しかし、人は変わる。彼女もあの日からだいぶ変わった。幼稚園児のようにはしゃぎまわる彼女の姿は、もうなくなった。彼女は本来の大学生らしい落ち着きを取り戻した。取り戻したと言うよりかは、そう変化したといったほうが多分正しいんだろう。けれどもたまに見せる駄々や寂しげな顔は今もなお健在で、彼女ほど強い女性がどうしてと思うこともあった。しかし、人には耐えきれないものがあるんだと思うことにした。

 「こんにちはー! 秋原くん」彼女は気づけば僕を名字で呼ぶようになっていた。僕はまだ「君」と呼ぶことしかできなかった。「愛華」と呼んでやれれば、どれだけ彼女が喜んでくれるかは、見当がついていたのにだ。

 「相変わらず君は元気だ」僕はいつもと同じようなセリフを言った。

 「雨にも似つかず、君だけは太陽みたいだ」とにかく彼女を上機嫌にさせる、それだけが僕の役目だと思っていた。

 「ありがとう」そう言って、彼女は少し寂しげな顔をした。いつもなら、笑ってそういうか、あるいは僕の揚げ足を取るというのに。窓の外を眺める彼女の哀愁漂う顔。それはその不安を助長させた。けれどもそれは、次に言った彼女の言葉で、杞憂から現実に変わった。

 「宣告された」彼女は手短にそういった。僕は何とも言うことができなかった。ただ呆然と――こうも簡単に変わってしまうのか、それだけだった。

 「膵臓に転移したんだ」膵臓、転移したら完治はもう難しいと言われている内臓。それが示す事実は、多分たったの一つだった。

 「明日から、もうここにはこれない。専門的な治療をするんだ」僕は覚悟していた。

 「そうか」僕はそれ以上に何も言うことができなかった。この期に及ぶ「転移」なんて、もう悲しいことじゃなかった。だが僕は、多分、泣いていた。視界が歪んだ。歪んだ先に、彼女の寂しそうな顔が見えた。なぜ悲しいのか――もうわかり切っていたんだと思う。だから、最後の日になるであろう今日に、僕は決意した。

 「行こう」僕は重い体を引きずりながら、彼女の片腕を掴んで、引っ張った。目指すは、病院の外だった。彼女は抵抗せずに、僕に引っ張られるがままについてきた。幸い、病院内は雨のせいか人は少なかった。誰にも多分、気づかれなかった。


 雨の中、暗闇に包まれる都心。それは僕らの心を表しているものだったと思う。病院の広い敷地を抜けると、僕らはどこかへともなく走った。走ったと言うより、速度的には歩いたに近かっただろう。

 服はビシャビシャに濡れて、それらは僕らの体を徹底的に冷やした。それでも僕らは走った。体はむしろ暑がり、悲鳴を上げ始めていた。けれども。


 ――見れなかったものを見るために、できなかったことをするために、僕らは生きる。

 それがたとえ、一つの規則を破ったり、多くの人に迷惑をかける展開になっても。僕らは、今を生きているのだから。


 気づけば新宿まで来ていた。といっても、三百メートルほどしか移動していない。だが、僕らからした三百メートルは、 三百キロメートルと等しかった。

 僕らは迷った子羊のように、そんな久々な新宿の街を歩いた。電光掲示板や山手線、行き交う車たちなど、ハイテクな都市に僕らは魅了された。そこに言葉はなかった。代わりに、砂糖のように甘い時間、それだけがあった。


 雨の中、僕らは山手線の高架下でやっと雨に濡れなくなった。僕らの体は冷えていて、たまに通る列車の蒸気でなんとか温まろうとした。だが、それは不可能だった。必然的なことだったのかもしれない、その後僕らがした行動は。僕らは、 気づけば眼の前に温もりを感じていた。


 ――雨の街での抱擁。思えば、彼女とこんなにも密接に触れ合ったのは、これが初めてのことだった。冷たく濡れた患者服越しに、彼女の温もりを感じた。その時僕は思わず「好きだ」と言った。彼女も言った「私も」と。周囲の目線など、気にしなかった。僕らがしたいことをする、これから生きられた分を今使い果たして良い。もはやここで死んでも良いと思うくらいに。 僕がここまで生きた理由、多分それは、眼の前にいる女性のためだったんだと気付いた。

 「好きだ」という甘い言葉以外に、このロマンティックな情景に似合うものはなかった。僕らはずっと抱き合っていた。互いの体温を、互いの温もりを求めて。


 充分に温まりきった頃、僕は手を離した。もうじきで病院の職員が来る。そう思った。新宿駅前の時計はもう、午後六時を指していたのだ。寒く風が吹き荒れたけれど、僕らはお互いの温もりのお陰で、きっと大丈夫だった。もう会えなくなってしまうかもしれない。少なくとも、明日から彼女と会うことはできない。ここまできて、恥ずかしがる必要はなかった。眼の前の、僕の「初恋」の女性に、僕は言った。


 「君があの日話しかけてくれたから、僕は今日まで生きられたんだと思う」彼女は静かに、頷きながら聞いてくれた。

 「僕は心底、自分の人生に絶望していた。けれどもこの三ヶ月間、君が僕に話してくれたから――」僕は改めて彼女を見つめた。

 「楽しかったんだ、幸せだったんだ、辛くなかったんだ」彼女はその時、はっと、目を上げた。

 「こんなことを言ったら、君に呆れられるかもしれない。僕が期待する反応をしないかもしれない。でも、君はあの時、今を生きなければならないって言ってくれたから、僕は言うよ」僕は息を吸い、近くに病院の車が見えることにも気を留めずに、雨の都心の中で言った。

 「愛華。君は、僕の初恋の人だ」

 瞬間、僕らはまた互いに抱いて、そしてそっと口づけした。言葉は、いらなかった。

 「まるで、砂糖みたいだね」彼女は小声で、そう言った。その時の僕に、その意味は分からなかった。けれどもそれで良かった。眼の前にいる女性と過ごしている今、この瞬間を、噛み締められたのなら。


 すぐ、病院の車は訪れた。車内で、僕らが言葉を交わすことも、何かすることもなかった。言うなら彼女は、我慢していた咳を何度も、強く、カラカラした音を立ててしていた。

 病院について、僕がエレベーターホールに向かっていき最後、後ろを振り返ると、もう彼女の姿は見えなかった。けれども、僕はどこかで充足感を感じていた。雨の満ちた都心の中でも、彼女の温もりと、彼女の言葉と、彼女の返事とが、僕の中でこだましていたからだ。


 五


 三月。暖かな陽が街を包んだ。春の陽気が、もう、すぐそこまで来ていた。あの日以来、僕は彼女と会っていない。これからも会うことはない。二度と。

 会いたいと思う気持ちは、やはりどこまでも伸びた。けれども、受け止めなければならないと自分に言い聞かせた。今度は、自分が我慢する番なんだから。

 僕の癌は、肝臓、小腸におけるものはすべて消えた。奇跡だった。医者もその時は酷く不思議がっていた。残るは胃の癌だけで、これも摘出すれば完全に治ると言われている。

 体調も良くなってきたので、僕は彼女がいた病室を訪れることにした。足取りも以前とは全く異なっていて、スムーズに歩くことができている。病室内。彼女のベッド。もうネームプレートは外されていて、そこに彼女の痕跡はもうない。思わず、涙が零れそうになる。現実は、やはり彼女を殺した。しかし、それはおそらく仕方のないことだったのだと思う。だから、泣きたくなってしまう。

 けれども、泣くわけには行かない。あの日、君が言ってくれた「まるで、砂糖みたいだね」その意味が、わかったからだ。

 その後僕は一階の売店で、角砂糖を一つ購入した。もとよりお金がなかったから、おそらくこれで、僕の貯金額はほとんどなくなっただろう。けれども、それでも良かった。

 僕は彼女の病室に戻ると、その角砂糖を彼女のベッドのテーブルの上に置いた。近くの窓からは、桜の花びらが、暖かな陽の光とともに入ってきていた。角砂糖に、一枚の花びらが乗った。


 角砂糖は、いずれ崩れてしまうかもしれない。あるいは、あり等によって持っていかれてしまうかもしれない。けれども、今すぐではない。この角砂糖の時間分だけ、僕が覚えている時間分だけ、おそらく永遠になるのだろうけれど、彼女は生き続ける。彼女という存在を忘れないために、彼女という存在と共に生きるために、僕は角砂糖を置く。言葉と一緒に。甘い時間を思い出しながら。


 以下、後日発見された彼女の机に入っていた手紙である。


「秋原くんへ


 私が死んでしまったあとでも、あなたはあなたのままでいるのでしょうか。少しは変わってくれなければ、私は自信をなくしてしまいます。とにかく、この三ヶ月間ありがとう。

 君はあの雨の都心の中で、私に好きだと言ってくれましたね。秋原くん、遅いです。私はずっとずっと前、君がこの病院に来たときから、君の存在を求めていましたよ。あの日、図書コーナーであなたを見かけたときは奇跡かと思いました。だから私、急いで抗がん剤で髪の毛のなくなった頭にウィッグをして、急いで化粧して、咳が出そうになるのをなるべくこらえるようにして、君と会っていたんです。懐かしいですね。ライ麦畑のような話し方をする君には、思わず笑ってしまいそうになりましたよ。

 二人でカフェや庭園で毎日の午後を過ごしたのも、忘れられません。私はなるべく君の前では笑顔になるよう振る舞ったんですけど、難しかったですね。どうしても、自分の死期っていうのが君といると感じてしまって、感傷的になってしまいました。でも君がいたから、私は素直に、毎日を楽しめたんだと思います。

 この手紙を読んでいるということは、私の膵臓の手術は失敗して、私は死んでしまったのでしょう。そこで、秋原くんには絶対に伝えておきたいことがあります。これだけは、照れくさいけどできる限り覚えておいてください。


 秋原くんは、私の「初恋」の人です。


 君が私を好きになってくれているか、あの新宿での君の言葉まで、ずっと気になっていて、不安で仕方ありませんでした。死ぬまであと僅かしかないと心の中で思っていても、どこかでやっぱり君と恋したいと思っていたし、私には君しかいないと思っていました。

 君には迷惑をかけたかもしれない。君は大変な思いばかり私のせいでしたかもしれない。だけれど、私の思いはもう実際に言ったとも思うけれどこうなんです。

 忘れないでとは言いません。人はいつかやっぱり忘れてしまうものですから。けれども君と過ごした砂糖のような甘い時間は、私の中で、あるいは私を包んでいます。私は絶対に、君のことを忘れません。

 最後に言わさせてください。

 私を好きになってくれて、一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう。私はやっぱり、君のことが大好きです」

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言葉シュガー 水無月うみ @minaduki-803

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