ヒ ソ ム モ ノ
八月 猫
潜むモノ
木々が深く生い茂った人も立ち入らないような山奥。
夜には月の光すらうっすらとしか届かないその場所にひっそりと設置されている枯れ井戸。
遠い昔にこの地で林業に携わっていた人たちが利用する為に掘られたものだという噂があるが、その真偽すら確かめる術がないほどに忘れられた存在である。
――ぴしゃ
とうの昔に枯れ果てているはずの井戸の中から聞こえてくる水音。
――ぴしゃ
その音はゆっくりとした間隔を空けながら、徐々に、徐々に近づいてくるようだった。
――ぴしゃ
――ぴしゃ
――ぴしゃ
月の薄明りに浮かび上がる井戸。
男は井戸から聞こえてくる水音に恐怖し、その身を震わせながら逃げる出すことも出来ずに立ち尽くしていた。
――ぴしゃ
――ぴしゃ
男が歯の噛み合わせをガチガチと鳴らしている間にも、ゆっくりと井戸の中を登ってくるように近づいてくる水音。
叫び出しそうな程の恐怖に、今すぐにでも走ってこの場を立ち去りたかったが、男にはどうしてもそうすることが出来なかった。
ただ、瞬きをすることも出来ずに井戸を見つめる。
手に持っている懐中電灯は足下を照らしていたが、それを井戸に向けるほどの勇気は男には無かった。
――ぴしゃ
――ぴしゃ
そして恐れていた瞬間が訪れた。
――びちゃ
それまでとは少し違う音に、男は反射的に懐中電灯を井戸へと向けた。
その光に照らし出されたのは、井戸の縁にかけられた人の右手。
聞こえていた水音は、その手にべったりと付着していた真っ赤な血液の音。
血に染まった筋張った細い女の様な指は必死で井戸の縁を掴み、外へと這い出そうと力を込めているように見えた。
男は叫んだ。
言葉にならない叫びを上げながら井戸へと走っていく。
そして、井戸の縁を掴んでいた手を全力で蹴りつけた。
何度も何度も何度も……。
息切れする程に蹴り続け、ふと気付いた時には井戸を掴んでいた手は消えていて、その縁には手の形をした血の跡がべっとりと付いていた。
「って言うのが、俺が前に大学の先輩に聞いた怪談話なんよ。これって先輩の実体験らしいだが、酔ってる時に話してくれたやつだから、どこまで本当かは知らんけどな」
駅前にある冷房のよく効いた喫茶店。
向かいの席に座っていた
「へえ……怖い話ですね」
「ん?何だお前でもこういう話を怖いとか思う事があるのか?世の中にはお化けなんていませんって顔してるくせに」
少なくとも俺はそんな顔をして歩いている人間に出会った事はないが。
「まあ、オカルト的な話は怖いと思わないですよ」
「いや、怪談は十分にオカルトだろう?それとも幽霊は本当にいるからオカルトじゃないとか思ってんのか?」
「いやいや、そんなことは微塵も思ってないですよ。幽霊が本当にいるかいないかは別として、科学的に証明されていないものは信用しないってだけです」
「ハッ!本当にお前は昔から変わらねーな!」
「昔からって、一緒に部活やってたの一年だけじゃないですか。いや、実際は五カ月ちょっとですね」
「それでもお前がどういう人間かってくらいは理解してるさ。だからこそこんな怪談話を怖いなんて言うのが意外だったのさ。まあ、結局何を怖がってるのかは分かんねーんだけどよ」
目黒先輩は腕を組んで、ぎょろっとした大きな目でこちらを睨むように見てくる。
「そうですね……その、先輩に話をした先輩?ややこしいな……。その人は今も大学に通ってるんですか?」
「いや、俺がこの話を聞いて少ししてから見かけなくなってな。先輩の友達の人に聞いてみたら、急に大学を辞めて連絡がつかなくなったらしい」
「じゃあ、その先輩の言ってた井戸がどこにあるのかも……」
「分かんねーな」
「そうですか……」
「何なんだよ?お前も井戸を見に行きたいとか言うのか?」
「見たい……そうですね。その話が本当なんだったら、是非とも見に行かないといけないと思います」
「怖いって言ってみたり、見に行きたいと言ってみたり……本当にわけわかんねーよ」
不満そうな顔で大きな溜息をつく目黒先輩。
本当に分かってないのか。
この人の豪快な見た目からその心の内を察することは難しい。
でも多分先輩も全て分かっているからこそ、この話を俺にしてきたのだろう。
そんな人が来ないような場所に何故その先輩はいたのか。
しかもそんな夜遅くに。
答えは一つしかない。
その先輩は最初からそこに井戸があることを知っていたのだ。
そしてその場所に用があったからこそ、人目のつかない夜を狙ってそこに向かった。
きっとそこへは二人で行ったのだろう。
肝試しとか何とか理由をつけて、その相手と二人でこっそりと。
そして……その先輩はその後、どこかに身を潜めている。
「まあ、こんな話はどうでも良いわ。それよりも大事な話があってお前に来てもらったんだからな」
目黒先輩の口調はどこか満足そうに聞こえた。
それは俺が何かに気付いたことをちゃんと察しているかのように。
「片難、一年にも面白そうな奴が入ったんだろ?そんなお前と新聞部に頼みたいことがある」
ふぅ……。
こんな話の後に出てくるものは、絶対にろくなもんじゃないのは分かる。
嫌そうな気持が顔に出ていたのだろう。
目黒先輩は嬉しそうに本題を話し出した。
―― 了 ――
ヒ ソ ム モ ノ 八月 猫 @hamrabi
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