「今年は、遅いのかな、桜」


 竹内くんは今日もベッドの上から外を眺めていた。

 ベイビーブルーの空の下、土手の桜はまだつぼみも固く、うつろに枝を伸ばしている。


 それでもいつかは花を咲かせる。

 彼の腕は、もう筆を持てない。

 こんな時、何を言えばいいのだろう。


 明日、竹内くんはこの部屋を出る。

 退院おめでとう、ではない。自宅で看取る準備ができて、そのためだけに帰るのだ。


「雪さん」


 しまった、何か言わなきゃ。


 覚悟の定まらぬまま、竹内くんと目が合った。視線はすぐに外されて、ベッドサイドのキャビネットへ向く。


「その引出し、開けてくれる?」


 出てきたのは小さな絵だった。


「最初で、最後の、プレゼント」


 小さなキャンパスに描かれた、小さな女の子。

 どうして? 何も言っていないのに。


「ごめん。こんなものしか、あげられない」


 ううん、そんなことない。

 もう、もらっているよ。


 応えたくても言葉が出ない。この絵が油彩画で良かったと、私は心の底から思った。



  ★



 静謐せいひつなギャラリーに不似合いな、幼子の泣き声が響いている。


 待って。もう少しだけ。

 祈りは虚しく、声は次第に勢いを増す。


「すみません、光ちゃんが……」


 いよいよ手に負えなくなったのか、清見さんが奥から出てきた。


「ずっと、いい子にしてくれていたんですけど」


 申し訳なさそうに、私の顔と森影氏の後姿を見比べる。

 そんな、こちらこそ、子守りまでさせてしまって。その一言をかける余裕さえ、私にはなかった。


 あと少しだけ。お願いだから。


「行きなさい、あなたを必要としているところへ」


 視線はそのままに、森影氏が言った。


 ああ、どうして。

 子供は大事だ。でも、この作品たちにかけた想いも同じように重い。周囲に反対されながら、身重の体で作品を仕上げ、あちこち駆けずり回って、ようやくここまで漕ぎつけたのに。


 今しかないのに。


 これが、最初で最後だから。


 泣き声は悲壮感を増す。まるでこの世の終わりとでもいうように。

 大丈夫、そんなことで世界は終わらない。それくらいのことで、死ねはしないわ。


 とうとう森影氏が振り返った。


「行ってあげなさい。大丈夫、私はここで待っていますよ」


 陽だまりのような顔だった。


「𠮷井くん。次の予定、少し遅らせてもらいましょうか」


 森影氏がキャンバスを離れて、隅の椅子に腰を下ろす。

 𠮷井さんが電話を片手に外へ出る。


 私は、光へ向かって駆け出した。




  <了>


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光を求めて 上田 直巳 @heby

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