4.木陰に笑う


 そして私たちは、最後の一枚に戻ってきた。


 他よりずっと小さな四号サイズのキャンバス。緑に囲まれて、白いワンピースの少女が笑っている。

 目深まぶかにかぶった麦わら帽子を、ふっくらとした腕でおさえながら。


 顔は口元しか見えないのに、きっと満面の笑顔をしているとわかる。

 降り注ぐ木洩れ日の下、その身いっぱいに幸せを浴びて。



  ☆



「また描いていたの?」


 チューブに繋がれた彼の手は、指先が緑に染まっていた。

 あまり根を詰めると体に障ると、お医者さんから注意されたらしい。


「描いていないと、死んじゃうから」


 笑えない冗談、とはよく言うが、それを通り過ぎるともう、笑うことしかできない。


 この期に及んで私は、彼の病気を信じていなかった。

 来年も、その次も、十年後も……何だかんだで、こうやって絵を描いているんじゃないの。芸術的な未完成作品を積み上げながら。


 それでも彼は、真っ白な病室にいた。


 ねえ、こんな冗談、もうやめようよ。


 花瓶の花だけが、今日もまた新しい色彩を添える。

 大学生まで育てた息子を、社会に出す直前に失うご両親の気持ちは、無念は、私には計り知れない。


「一人っ子じゃなくて良かった」


 彼はそう言った。私には関係ない。私にとって「竹内くん」は「竹内友輝」しかいないのだから。


「出来たの?」


 私の大きな鞄を見て、彼は弱々しい声で聞いてきた。私はジッパーを開いて、中のキャンバスを見えるよう掲げる。


 合作が完成する度、私はキャンバスを抱えて彼の病室までせっせと運んだ。行き帰りには目立って仕方ないが、こればかりは、実物でなければ意味がない。


 今回の作品は、海の絵。私が最初の合作『稲そよぐ風』にとりかかっていた頃、隣で彼が描き始めたものだ。『あの日の海』よりも少し緑がかった海の色。ベージュの砂浜を踏みしめて、連れ立って歩く二人の姿。


――もう一度、描きたくなって。


 あの時、彼が発した言葉の意味を、私はわかっていなかった。


 私たちは協議の末、この作品を『海辺の二人』と命名した。

 それから竹内くんのスマートフォンを借りて、写真に収めるまでがルーティン。また一つ、コレクションが増えた。


「これだけあったら、個展でもできそう」

「いいじゃない。やろうよ」


 何でもいい。彼が少しでも、未来を向いてくれるなら。


 そんなかすかな希望の光も、彼は丹念に塗り潰してしまう。


「いつか、開いてね、雪さんの個展」


 いつの間にか彼は、私のことを下の名前で呼ぶようになっていた。私はまだ踏み切れずにいる。


「何言ってるの。竹内くんの作品じゃない」

「でも、雪さんがいなかったら、完成しなかった。作品として、世に生み出したのは、雪さんだ。だから『尾関雪』の個展」

「違う。『竹内友輝』の個展」


 どうせ折れないとは、わかっていたけれど。


「じゃあ、間をとって『竹内雪』にしようか」


 こいつはたぶん、天然だ。


「それなら……『竹内ユウキ』は?」

「ユウキ?」


 一瞬ポカンとなった顔が、ベッドサイドの名札に向いた。これまで幾度も読み間違えられてきたであろう『竹内友輝ともき』の名前に。


「じゃあ、もっと、描かないと」

「そうだよ。じゃないと、私がやること無くなっちゃう」


 彼から託された未完成作品たちは、残り少なくなっていた。少しくらい、未完成のまま残しておいても良かったのかな。


「退院したら、またモデルやってあげる」


 ああ、またやってしまった。

 だけど、構わない。彼が未来を望んでくれるなら。


 もっと希望ひかりを。竹内くんは、光を生み出す魔法使いだ。


「退院したら、なんだ?」

「だって、ここじゃ……。あっ、別に、ヌードってわけじゃ、ないからね!」


 まるで、私が脱ぎたいみたいじゃない。やめてよ。


 だけど、あなたが望むなら。


「何でもいいよ。次は、どんなのがいい?」

「白がいいな」


 竹内くんの目は、まぶしそうに私を見ていた。


「雪さんの、白いドレス……見てみたい」


 窓から吹きこむ風に、病室の白いカーテンがひらひらと揺れた。


 ホアキン・ソロヤの描く女性は、白い服が多い。




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