ベストサマーメモリーズ

森上サナオ

ベストサマーメモリーズ


 真夏の一番暑い一週間だけ、僕の前にやって来る女の子がいる。


 初めて会ったのは、十七歳の夏だった。


 太陽の光が透けるくらい白いワンピースに、麦わら帽子と汚れ一つないサンダル。

 背中に流れる髪は墨のように黒くて、肌は白く、肘やひざ小僧だけがうっすらと桃色に染まっていた。

 綺麗な顔だった。落ち着いているのに、内には今にも弾けそうなエネルギーを蓄えているような、氷水から取り出したばかりのラムネ瓶みたいな気配を漂わせていた。

 こちらをまっすぐに見つめる瞳は赤みがかっていて、まるで兎みたいだった。

 この姿のまま産まれてきて、今の今までビニールのパックに詰め込まれていたかのような、奇妙なまでの新品感をまとっていた。

 開封したての電子機器みたいな香りがした。


「よっ」


 初対面の女の子が放つにしては、あまりにも親しげな「よっ」に、僕は困惑した。

 僕が眉をひそめて立ち尽くしていると、女の子が突然泣き出した。

 大粒の涙を赤い瞳から溢れさせ、最初は静かに、やがて喉を震わせて、真夏の入道雲と蝉時雨に負けないほど高く大きく声を張り上げて、泣いた。

 

 ヤバい女だと思った。


          ◇     ◇     ◇


 彼女は、十夏とおかといった。


「これから、最高の夏にしてよね?」


 十夏は強引だった。

 強引で、無邪気で、汗ひとつかかず、どんなに空が晴れ渡っていても、熱中症警戒アラートもどこ吹く風で、僕を引きずり回して真夏の一週間を堪能した。

 何をするのにも楽しそうだった。

 素麺の白さとスイカの赤さに微笑んで、青空を横切る飛行機雲に手を伸ばして、夕立の匂いに目をつぶり、夜の田んぼで鳴くカエルの合唱に張り合った。

 

「キミに声かけた理由? 昔のカレに似てたから」


 彼女と出会ってちょうど一週間目の晩だった。

 なぜ僕に声をかけたのかという問いかけに、十夏はしばらく手元の花火を見つめて、さっきの言葉をぽつりと言った。

 僕は内心めちゃくちゃヘコんだ。

 ものすごく悔しくて、ムカついて、胸の奥がもやもやしたのを覚えている。

 

 そんな僕の気も知らないで、十夏は「昔のカレ」について語り出した。


「初めて会ったときはくたびれたオッサンだな〜って思ったの。ぜんぜんやる気ないし。服のセンスないし、ぶつぶつ小声で文句ばっかり言うし。話しかけると面倒くさそうにするクセにわたしのこと大好きなのバレバレだし」


 文句たっぷりに話すクセに十夏の表情は楽しげで、饒舌だった。

 僕は、この線香花火が落ちたらこの世界が終わるくらいの真剣さで、手元の花火だけを睨み付けていた。


「出会って一週間で、いきなり手出してくるし」


 あっけなく線香花火が落っこちた。


 ……それはただのクソ野郎なのでは?


 「昔のカレ」というヤツはろくでなしだ。

 いい歳こいて十夏みたいな若い娘に手を出すし、生活能力はないし、だらしなく、センスがなく、世間に愚痴ばかりこぼしている。

 そいつと僕が似ているだって?

 冗談じゃない。

 そんなヤツにはならないぞ。


「どうだろうね」


 足元に落ちた線香花火の抜け殻を見つめて、十夏は楽しげに言うのだった。


          ◇     ◇     ◇


 その翌年も、十夏とおかは夏の盛りに現れた。


 「よっ」の声と共に現れた十夏に、手を上げ返す。

 今年は泣かないんだな、と言うと十夏は首を傾げていた。

 相変わらず、十夏からは新品の電子機器みたいな香りがした。


 その翌年も、また翌年も、十夏は決まって夏の盛りに一週間だけ僕の前に現れた。


 十夏と一緒にいて気づいたのだけれど、彼女は過去の話をしたがらない。

 出会って2年目に、昨年の思い出を語ろうとした僕の口を、十夏は慌てて塞いだ。

 「むかしの話はしないで」と、いつになく怯えた十夏の艶めかしい瞳と、僕の唇を塞ぐ彼女の手の柔らかさと冷たさに、それ以上何も言えなかった。

 それ以来、十夏の前で昔話はしないようにした。ただ、明日何をするのかばかりを気にかけるようにした。


 一週間、家でダラダラする年もあれば、一週間ぶっ通しで鈍行列車の旅をしたこともあった。

 そして、一週間が経つと、十夏は煙のように姿を消した。

 十夏が消えたあとの一年は僕にとっては燃えかす同然で、次の一週間のことだけを考えて日々をやり過ごすようになっていた。

 

 十夏と出会ってから、十年が経った。

 毎年、十夏は僕の前にやって来る。

 けれどさすがに、おかしいと感じる。

 昨年の夏に会った十夏は、僕と初めて会った時と全く変わらない姿をしていた。

 ひざ小僧が淡い桃色で、肌が白くて、夜闇に流した墨のように黒い髪で、赤い瞳で、新品のスマホのような香りで、十代後半の少女の姿。

 おかしいと感じるけれど、十夏と過ごす一週間を想えば、取るに足りないことに思えた。


 例年通りだと、明日から十夏がやって来る。

 社会人の身になった僕だけど、この一週間だけは必ず休みを取るようにしている。

 それが、この十年の間に染みついた盛夏のルーティンになっていた。

 大学進学を機に地元を出て、地方都市に一人暮らしを始め、社会人になり少し広いアパートに引っ越しても、十夏はなんの連絡も寄越さずに僕の前に現れる。


 そして、今年も十夏のいる夏がやって来た。


 いつも通りのはずだった。


 「よっ」と手を上げた僕に、十夏は兎の目をすこし見開いて、こう言った。

 

「はじめまして。……それがあなたの挨拶なの?」


 これまでどおりの、白くて桃色で墨色で赤くて開封直後な十夏のはずだった。

 決定的ななにかが、欠けた音がした。


 これから一週間、僕のそばで過ごすと十夏は告げた。

 そんなことは先刻承知だと、僕は告げる。

 今年の十夏はどこかぎこちなくて、妙に強ばっている。

 借りてきた猫ってこんな感じか、と思った。

 借りてきた猫が大人しいのは、その環境が猫にとって不慣れだから。もっと言えば初めての空間だからだ。


 これまでの十年間が、不穏な音を立てて捻れて反転し始める。


 だから、と十夏は説明を始めた。

 この夏の一週間は、彼女にとっての「バカンス」なのだそうだ。

 与えられた一週間を、彼女は「この」世界で過ごす。

 彼女は、この世界の人間ではないのだと言った。

 そもそも、人間ですらないらしい。


          ◇     ◇     ◇

 

 その世界では遠い昔に、人類に相当する生物は絶滅したらしい。

 十夏とおかのような「兵資へいし」は、人類(便宜上そう呼ぶ)が滅んだ後も、存在し続けた。

 そして、人類を滅ぼした敵と戦っているらしい。

 彼女たち兵資を作った文明は、今の地球文明とは比べものにならないほど発展していた。

 だから、人類が滅んでも、文明の生命維持装置は稼働し続けた。

 彼女たち兵資は人類に代わり、文明の維持を至上命令として戦い続けていた。

 戦い続ける彼女たちだが、年に一度(実際には××サイクルに▽回と言っていた)、休暇が与えられる。

 実際には、彼女たちが形而下けいじか戦闘を行う基底現実の実存戦体のメンテナンス期間らしい。

 休暇といっても、彼女たちの世界にゆっくり休めるような場所は、物理、電子、並列形而上空間ともに存在しない。

 だから、彼女たちの維持管理を管轄する兵資局は、彼女たちをバカンスに出すことにした。


 異なる世界に。


 といっても、いま僕の目の前にいる十夏が、そのまま本当の姿の彼女ではないらしい。

 兵資の戦闘諸機能の中から、実質戦闘に関する術式を除外キャストオフし、僚機との交信を円滑に行うための戦術言語演算プロトコルを抽出して、人類様じんるいようの人格鋳造を行い、更に兵資ごとの戦術選択偏向値を情緒変換して——


 そんなワケの分からない御託はどうでもよかった。

 もっと聞きたいことがあった。


 『はじめまして』の意味を。


 彼女の世界と、僕の生きるこの世界は、時間の進み方が逆なのだそうだ。

 彼女がバカンスのために送りこまれる際、彼女自身の時間の流れだけをこちらの世界に同期させる。

 バカンスが終われば、彼女の時間の進み方は通常通り、つまりこの世界とは逆方向に流れる形に戻る。

 つまり、僕が未来に向かって進んでいる間、彼女の世界は僕から見て過去に進んでいることになる。


 ……つまり? 

 つまりどういうことだ。


「これからよろしくね。そして、これまでありがとう」


 つまり、

 十夏にしてみれば、これから十年間、毎夏一週間のバカンスが始まる。

 僕にしてみれば、十夏が現れる夏はもう来ない。

 

 やっと分かった。

 十夏と初めて会った十七歳のあの夏のこと。

 初めて会う女の子に気安く話しかけられぎょっとする僕に、大粒の涙を見せて泣いた理由が。

 互いにすれ違う夏が、最期を迎えたことに気づいてしまったから。


          ◇     ◇     ◇


 初めて見るこちらの世界の風景を、彼女は陸に上がった魚のような顔で眺めていた。

 

 僕は、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。

 ただ呆然として、一日を浪費した。十夏は、テレビの野球中継をつまらなそうに眺めていた。

 

「ねえ、わたしの休み、あと六日しかないんだけど」


 不満げな十夏の声で目が覚めた。

 エアコンの風はどことなくカビ臭くて、洗い物はそのままで、髭は剃ってないし、頭は痛いし、正直、ベッドから起き上がりたくなかった。

 

「キミ、ずいぶんズボラでだらしなくて、甲斐性無しなんだね」

 

 その言葉で、記憶が蘇った。


 初めて会った年の、最後の晩。

 線香花火を見つめながら語った、十夏の「昔のカレ」の話を。

 笑いがこみ上げてきた。

 汗くさい枕に顔を押しつけて、くっくと笑いを噛み殺した。

 そんな僕を、カエルの死骸が動き出したのを目撃したかのような顔で、十夏は見下ろしていた。

 布団から起き上がり、昨日から身に付けっぱなしだった服を脱ぎ捨て清潔なものに取り替えた。

 十夏はぎょっとした顔で壁の方を向き、「脱ぐなら言ってよ!」と文句を垂れた。


「さあ、今日はなにする?」


 壁とにらめっこしている十夏に問いかけた。

 

「……「海」が見たい」


          ◇     ◇     ◇


 レンタカーを借りて、海を見に行った。

 夏祭りの屋台をひやかして、花火を観た。

 山道を走らせ雲海から昇る朝陽に目を細めた。

 お互い下手なゲームをムキになって一日で完走した。

 深夜の墓地に忍び込んで、虫の多さに悲鳴を上げた。

 涼みに行ったコンビニで、不必要な買い物をしてレジ袋をパンパンにさせた。

 ファミレスのメニューにあれこれ文句を付けながらつつき合った。

 ショッピングモールをぶらぶらして、夜の寝静まった街を手を繋いで徘徊した。

 どれもこれも、十夏から教えてもらった過ごし方だった。

 今日僕が十夏に教えて、十夏が気に入って、そしてこれから十夏が僕に教える、怠惰で無邪気で地に足付かない、空にただようクラゲみたいな夏の過ごし方だった。


「キミ、けっこうやるじゃん。楽しかった」


 アイスを囓りながら十夏が赤い目を細めた。

 七日目の、夕方だった。

 午後六時を知らせる防災無線が「ふるさと」を流している。

 蚊取り線香の煙が、ぬるい風にただよっていた。


 いつも、十夏はこの後、煙のようにいなくなる。

 

も楽しみ」


 そう言って、彼女は笑う。

 怖かった。

 時計が一秒を刻む音にさえ本能的な恐怖を覚えた。

 僕は、

 僕は、十夏の手を掴んでいた。

 

 僕に引き倒された十夏が、驚いた顔で僕を見た。

 ああ、僕はなんてことを。

 これじゃ、ただのクソ野郎だ。

 

「なさけない顔」


 シワだらけのシーツの上で、十夏がまどろむような声を出した。

 十夏の、関節がほんのり桃色に染まった白い手が、僕の頬をさすった。

 ねじくれていた感情が、解けて、一本の糸になる。

 耐えがたい恐怖を、僕は言葉にして吐き出した。

 

 行かないでくれ。

 ずっとここにいてくれ。

 

 なんてしょぼい言葉。

 伝えたい悲しみも、欲望も、願いも祈りも、砂粒ほどしか込められない。


「ごめんね」


 十夏はそう言って、僕の唇を同じ場所で塞いだ。

 彼女の唇は、指の先は、腰のくびれは、乳房は、ふくらはぎは、どれも真新しい電子機器が放つ静電気のような香りがした。

 その香りを胸に抱いて、その香りの胸に抱かれて、僕と十夏はひんやりした湖に沈むような眠りに落ちていった。

 

           


          

           

          


          

 高速代をケチって下道を選んだのが失敗だった。

 運転席から降り立つだけで腰が痛い。

 エアコンが効かない中古車のドアを乱暴に閉めて、僕は胸いっぱいに夏の匂いを吸い込んだ。


 あれから一年が経った。


 もう十夏は来ない。それでも、僕は一週間の休みを取った。

 どこか遠くの、海と山が近い田舎の古い家を借りて、静かに過ごすことにした。

 保冷剤代わりにクーラーボックスに放り込んでいたアイスを囓る。

 冷房器具と呼べるものはファンが青くて透明な、やたらとダイヤルが多い古びた扇風機一台だけだった。

 ギヤの調子が悪いのか、首を振る度に「コッコッコッコ」とヘンな音を立てた。

  

「よっ」


 扇風機をいじっていた僕の背中に、気安い声がかけられる。

 新品のPCみたいな香りがした。

 光に肌が透けそうな白いワンピース。ピカピカに光を受ける麦わら帽子。暗闇で流した蜜のように黒い髪、熟したリンゴのような赤い瞳。

 

「はじめまして、じゃないよ」


 口にくわえていたアイスが足元で水っぽい音を立てる。


「なにその顔。ちょっと考えれば解るでしょ? 終わったの。戦争」


 だからもう自由。一週間の縛りもない。時間の逆行も気にしないでいい。


 だから——


「最高の夏にしようね」


 はにかんで僕の手を握る十夏の横顔が、逆光に霞んで——






 目が覚めた。


 蚊取り線香の匂いが、エアコンの冷気の中に残っていた。

 目の前に、枕が転がっている。

 枕のかすかに窪みに、僕ではないだれかの体温が宿っていた。

 締め切った遮光カーテンの向こうで、新聞配達のバイクが通り過ぎた。

 僕は壁際に寄って、まるでもう一人に場所を譲るようにして寝そべっていた。

 起き上がる。

 キッチンへのドアを開けると、エアコンの効いていない湿気た空気が身体にまとわり付いてくる。

 玄関を見る。

 薄汚れた、くたびれた男物の革靴が一足、片方だけ横倒れている。


 裸足で飛び出した。

 

 真夏の、かすかに粘ついた朝の熱気が肌にからみ、汗が噴き出す。

 空が明るくなりかけている。

 蝉が鳴き始めた。

 散歩するひと、畑仕事をするひと、ラジオ体操のピアノ伴奏、朝のニュース、朝食の匂い。エアコンの室外機が唸り出し、空に雲が立ち上り、蝉が「暑さで死ね」と大合唱し始める。


 部屋に戻って、汚れた足をぬるいシャワーで洗った。


 叫んだ。

 絶叫した。

 夢から覚めてしまった自分を恨んだ。

 ここではないどこか遠くの古びた家で十夏と再会したあの瞬間に胸の中に満ちあふれたものを、もう一度味わいたかった。

 あのままずっと眠り続けたかった。

 壁を殴って、蹴りつけて、敷金とか礼金とか、隣人への迷惑なんていう下らない戯言たわごとなんてすべてかなぐり捨てて怒りを吐き出した。

 

 十夏がいなくなってしまった。

 もう、僕は十夏に会えない。

 涙が口の中に入り込む。やる気のない海水みたいな苦みが歯茎に染みる。

 

 十夏と初めて会った十年前の夏を思い出す。

 最期の晩、花火をしながら見つめた十夏の横顔。

 十夏の「昔のカレ」の話を聞いて、そんなヤツには絶対にならないと呟いた僕に、「どうだろうね」と言った彼女のことを思い出す。

 あのときの十夏は、楽しそうにしていた。


 十夏が涙を見せたのは後にも先にも、十年前の出会い頭、あの一回だけだった。


 悪態をついて、ティッシュで鼻をかむ。

 深くため息をついて、深呼吸を繰り返す。

 カーテンを開ける。

 飛行機雲が空を二分していく。

 いつか十夏がそうしたように、手を伸ばし、空を切る。

 これから少しずつ、僕の夏は静かになっていく。

 十夏の夏は、これからどんどん騒がしくなっていく。 


 だから、終点始点にいる僕は、かつての十夏と同じ祈りを唱える。


「これから、最高の夏にしてくれ」

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