白南風
吉野諦一
白南風
「なにを話したかは覚えてないけど、なんだか楽しかったってことだけは覚えてるだろ?」
蝉が初めて鳴いた次の日、彼は僕の家にやってきた。
昔はよく友達がうちにやってきて、彼もそのメンバーのひとりだった。集まってやることといえばだいたいスマブラ。あれは四人対戦だからあぶれるのが何人かいて、彼は観戦側にいることが多かった。
最下位になったら交代するルールは、強いやつがずっとコントローラーを持ち続けてしまうから廃止された。次に優勝したやつが交代するルールは勝負に緊張感がなくなってしまってすぐに廃れた。
最終的に落ち着いたのは自己申告制だった。基本的には最下位が交代することにして、ときどき勝ったやつや飽きたやつが自分から観戦側にコントローラーを渡す。逆に観戦側が望めば交代せずに次の対戦に移行するときもあった。
彼はスマブラが強かった。なのに僕は、彼が観戦側によくいたのを覚えている。
「何ぼけっとしてんだよ」
相変わらずだなあ、と彼は笑う。
僕の家にあがってからというものの、彼は部屋の中を懐かしげに見回していた。そりゃあ放課後は毎日くらいの勢いで来ていたんだから、懐かしい思い出なんていくらでもあるだろう。
中学を卒業したあと、いつものメンバーは進路がバラバラになった。何人かは同じ高校だったけれど、その友人たちも新しい友達ができたとかで遊ぶ場所を移していた。部活動で忙しくなり、まったく連絡を取らなくなってしまった友人もいる。
一緒に遊んでいたころはあんなに楽しかったのに、それよりもっと楽しいことを見つけたのだろうか。畳の上に寝そべって、肩を擦り合わせながらモンハンをやっていたときの楽しさを忘れてしまったのだろうか。当時はそう思っていた。
「君の言うことはわかるけど」
さっきの彼の言葉に対し、僕は返答する。
「ひとつの些細な失敗だけ覚えてて、楽しかったはずの出来事が思い出したくもなくなることならよくある」
「暗いなっ」
彼は一笑する。でも少し心当たりもあるようだった。
「記憶ってさ、今後同じ失敗をしないように嫌な出来事とかを優先して残すらしいんだよな。だから成功体験があっても失敗ばかりを覚えていて消極的になる人もいるんだってさ。本末転倒だよな」
そういって彼は大きなあくびをする。
「あぁ悪い。最近朝早く目が覚めちゃってさ、今朝も五時起きで」
「それはちょっと早すぎるな」
「でも、早起きは早起きでいいもんだぜ? 昼間は暑すぎて何もしたくなくなるし」
彼は畳の上に脚を伸ばし、両手を背後に置いて上体を支える。記憶の中にある、スマブラの観戦をしていたときの彼と姿が重なった。
「さっきの話の続きだけど、思い出したくもないことなんて人生いくらでもあるし、ときどきそれを思い出して頭抱えることも自然だよ。それとは別に、楽しかったり嬉しかったりした記憶だってあるはずなんだ。なんとなくしか覚えていなくても、そういう記憶は思い出したくない記憶と同じくらいの数あるはず」
熱を感じる口調だった。僕に訴えかけるというよりは、彼自身がそう信じたいと願うかのような。
「だから、嫌な思い出だからって忘れていいわけじゃないと思うんだ。嫌な思い出でも失えば、良い記憶も一緒になくしてしまいそうな気がする」
僕は彼の目を見れなかった。彼がどんな気持ちで僕の家までやってきて、こんなことを言うのか、その意思を理解してしまうのが怖かった。
落とした視線の先に、遠い昔にできた畳の染みを見つける。これがいつからあるのかも、どうしてできたのかも覚えていない。だけどこの染みは、過去のどこかで確かにあったはずの出来事を証明している。
たとえ覚えていなくても、自分がしてきたことのすべては、決して消えない。
「ごめん」
何も悪くないはずの彼が、頭を下げて謝った。
「なんか説教臭くなっちゃったな。せっかく久しぶりに会ったのに、こんな話されてもつまらんよな」
「ううん、いいよ。君がしたい話をしてくれれば、僕はそれで」
「そっか」
彼はまた大きなあくびをした。伸ばした脚をたたんで、胡坐に組みなおす。
「そうだ、せっかくだしスマブラやろうぜ。サシでも、CPU入れて四人でも」
「スマブラはもうないよ」
「ほんとかあ?」
「……かなり奥のほうに仕舞ってあるから、出してくるのが大変だけど」
「じゃあ出してこようぜ。俺が手伝えばすぐだろ」
ゆっくり立ち上がった彼を追うように僕も立ち上がる。そのときに目線が図らずも彼の顔へと向く。そして気づく。
彼の目元には涙が滲んでいた。あくびの後だからだと納得することもできたけれど、それより先に浮かんだのはもうとっくに忘れたはずの記憶だった。
彼は確かにスマブラが強かった。だけど最初から強かったわけじゃない。みんなでスマブラをやり始めたころ、彼はいつも最下位で観戦側にいた。そんなときに彼はきまって眠そうにあくびをしていたのだ。
彼がスマブラで強くなりだしたのも、毎日遊ぶなかで少しずつ上達していったからだった。そして対戦で優勝することが増えたころに、彼自ら最上位になった人が交代するルールを提案した。
それらを思い出したとき、僕は心の底から恥じていた。何が楽しかったはずの出来事が思い出したくもなくなる、だ。楽しさを支えてくれていた誰かの思いを、気づかないふりをして覚えてすらいなかったくせに。
子どものころのことだから、なんて言い訳にもならない。だって僕は彼が子どものころから変わらず善いやつだったことを知っている。覚えている。その彼の善意を忘れてしまった僕は、子どものころの彼よりもずっと劣っている。
思い出したくもない記憶と同じくらい、楽しかった思い出も眠っている。
それを僕は、まったく逆の意味で理解してしまった。
十日後、彼は亡くなった。
老衰だった。
入院しての延命はとっくの前に諦めて、余生を自宅で過ごすことを選んだ。最期は大勢の親族に見守られての大往生だったそうだ。
葬儀の日、僕は参列した人の中から腰の曲がった旧友の姿を見つけた。僕とは違い社会人になってからも彼と交友を続けていたそうで、彼が余命いくばくもないことを前々から知っていたのだという。
「あいつはずっとお節介なやつだったよ。長い間会ってないお前や他のやつらのことをいつも勝手に気にかけてた」
旧友の口調は責めるような色合いを含んでいた。
「そうだ、覚えてるか? あいつの癖」
心当たりがあっても、覚えているとはどうしても言えなかった。
返事を濁していると、旧友はため息をひとつ吐いて続ける。
「あいつは悔しいときや悲しいとき、いつもあくびをするふりをして誤魔化してたんだよ。涙が出るくらいつらくても、そうやってあいつは弱いところを見せないように生きてきたんだ。そんなの傍から見ればバレバレなのにな」
去っていく旧友の小さな背中を目で追いながら、すっかり皺だらけになった自分の両手を強く握り込む。
これまでの長い人生、数え切れないほど後悔を重ねてきた。しかし今の僕はそのほとんどを忘れ、長年連れ添ったはずの妻の顔さえ思い出せず、自分と似た顔の男とその配偶者に身の回りの世話をしてもらって生きている。
覚えていることが幸せなのか、それとも不幸せなのか、今の僕にはもうわからない。嬉しい記憶とつらい記憶が同じくらい存在するのなら、その両方を同時に失ったとき、僕には何が残るのだろうか。
鮮やかな花々に彩られた、かつての親友の遺影を見る。爽やかな笑顔に深々と入ったほうれい線の皺が、彼の人生を象徴しているかのようだ。
彼とまた話したい。次は僕から連絡を入れようと、そう思った。
白南風 吉野諦一 @teiiti
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