第27話 生贄
三奈のお腹に宿った命が、とりあえずはいま村の再興を支えている。マサキが無事に生き返るか否かも、お腹の胎児が無事生まれてくるかにかかっているのだ。長内は目を閉じて、この村の命運の
「妊婦は、大丈夫でしょうか」
長内は尋ねた。葵は少し視線を動かし、何かを探るようにしばらく静止していたが、やがて視線を長内に戻し、こう言った。
「いまのところ、順調のようです。三奈さんが落ち着いたころを見計らって、世話をする人間を差し向けましょう」
産婆の家の血筋が、いま三奈のお腹のなかで胎動している子供の安否を占ったようだった。
「そのうちマサキの顔を見れば、三奈さんも落ち着かれるでしょう」
葵の口ぶりからは、ひとまず安心できそうな様子がうかがえた。
「あなたは産婆ですか?」
長内は穏やかな口調で聞いた。
「いま懸命に修行をしているところです」
静かな微笑みを返しながら、葵は答えた。
「ご存じのとおり、この村は一からのやり直しの真っ最中です。産婆たちもひとり残らずやられてしまいましたから。血を引いているとはいえ、この年になってから修行をしてもオビル婆たちのような力を得ることは叶いませんので、できるだけ早く後身を育てなければなりません」
生まれてくる子が女の子ならばいいが、と葵は言った。
「女の子であれば、即座に産婆としての修行を始めさせます。男の子なら、残念ですがマサキのように武芸と社会交渉術、警備の役割の全てを教え込みます」
いまこの村には、女の子が必要なのだ、と葵は言った。
「さて、では、私は……」
と言い、立ち上がりかけた長内に葵は言った。
「お帰りになるつもりですか」
「えっ」
無論、長内は帰るつもりだった。マサキの出現によってこの村が実在することは確認できたし、しかも三奈を連れてくることによって実際に再びこの村に足を踏み入れ、再興の様子を目の当たりにすることもできた。いま長内は満足していたのだ。その上で、再び山を下り、街へ帰って、元どおりの生活へ戻るつもりだった。
「お越しになったばかりで、すぐに帰られてしまうのも寂しい気がします。もしよろしければ、今宵はこの屋敷に泊まられて、少しお疲れを取ってから下山なさってはいかがですか?」
葵は提案した。それは特に、長内にとって不都合なことではなかった。仕事はいま余裕をもってやっている状態だったし、家で待つ家族もない。そう言われてみれば、むしろ長内の家族はこの村のそこここに息づく全てもののようにも思えた。
「そうですか、では……」
と答え、長内はその晩村長の屋敷に泊まることを承諾した。
その夜、雨が降った。
しとしとと静かに降り始めた雨は夜半過ぎには本降りになり、ざあざあと音を立てて再興途中の村の土を叩いた。
長内は、激しい雨の音で目を覚ました。客間に敷かれた布団に寝ていたのだが、ふと思い立って身を起こした。
この雨で、マサキが目覚める。
葵が言うには、マサキが死んでから一週間ほど経っているとのことだった。では彼が生き返ってくるのは今夜だ。
そのことがわかった長内は、暗い廊下を手探りで渡り、何度も迷った末に玄関口まで辿り着いた。傘や雨具の置いてある場所がわからなかったので、仕方がない、えいっと気合を入れて、外に飛び出した。
外は漆黒の闇だった。その闇を引き裂くように、力強い線となって雨が降り落ちている。その無数の線を唯一の現実感と頼り、長内は前に進んだ。
以前住んていたときの曖昧な記憶を頼りに方角を測り、土砂に足をとられて滑らないよう細心の注意を払いながら、長内は歩いて行った。村長の家の地点から予想して、墓地はきっとこの辺りだろうと目星をつけ、豪雨のなかを
塔子の場合と違い、特に古霊に取り憑かれる心配もない。村人としての通常の死を迎え、埋葬されているマサキは雨のなか自力で土を押し除けて起き上がってくるだろう。
長内は彼に再び対面して聞きたいことがあった。
なぜ、三奈を連れてくる役目に自分を選んだのか。
あの晩も、おそらく彼は近場に住んでいる村出身の仲間と連絡を取っていたはずだ。長内はなぜかそのことを確信していた。その仲間に頼めばもっと簡単にことは運んだのではないだろうか。それはこの村へ向かう道中、ずっと長内のなかに渦巻いていた疑問だったのだ。
雨はどんどん勢いを増していった。長内の行く道はあっという間にぬかるみとなり、足をとられて何度も転んだ。
泥だらけの姿になりながら、長内は村の裏山の墓地を目指した。急な上り坂はまるで真っ黒な壁のように前に立ち塞がり、長内の行く手を阻むかのようだった。
それを這いつくばるように両手を使ってよじ上り、長内はとうとう墓地に辿り着いた。
「マサキ!」
長内は叫んだが、豪雨の立てるもの凄い音は、その声をかき消した。
「コエシロウ!」
もう一度長内は叫んだ。どちらもこの村の将来の長、長内がこの村で最も親しんだバディの名だった。
と、そのとき前方の泥が、わずかに動いたような気がした。何にせよ漆黒の闇のなかなので、確信はなかったが。
すると、その泥は見る見る盛り上がり、真ん中から割れた。そして、やはり泥にまみれた男の手がにゅーっと突き出てきた。
「コエシロウ!」
長内はまたその名を呼んだ。
コエシロウは泥をかき分け、ずるりとその体を地表に表した。夜の暗闇のなかで、彼の白い顔だけが妖しくぼんやりと光って見えた。
魂が体に戻ったばかりのコエシロウは、まだ幾分ぼんやりとした顔つきで頭を巡らしていたが、声のする方角に長内の姿を認めたようで、ふっと視線を止めた。
長内は、自ら泥をかき分けて甦ってくる村人の一部始終を初めて目の当たりにした。それは実際に目撃すると、自分の住む生者の世界では決してあるまじきおぞましい光景だった。
コエシロウはゆっくりとした動作で泥を除け、けだるそうに立ちあがった。
強く叩きつける雨が、彼の体から泥を洗い流していた。彼は以前バーで出会ったときと同じ黒っぽいダークスーツを身に着けていた。そのため暗闇のなかでは彼のほの白い顔だけがぼんやりと浮かんで、首だけが宙に浮いて動いているように見えるのだった。
ますます激しさを増す豪雨に打たれながら、コエシロウがこちらに近づいてきた。
「約束を果たしてくれたんですね」
コエシロウは無表情のまま、そう言った。まだ体と魂がうまく一体化できていないのだろう。それでも彼は長内を認識し、長内に対して依頼したことをしっかりと覚えていた。
「ああ。三奈さんをここへ連れてきたよ。彼女はいま、村長の屋敷の座敷牢にいる。全部君に頼まれたとおりにやったよ。うまくいった」
長内は言った。コエシロウの役に立てたこと、つまり村の役に立てたことを、正直誇らしく思っていた。
「感謝します。あそこにいれば、彼女は大丈夫です」
コエシロウは安心したように息をついた。
「今度の村長の家には、産婆の家と同じように強力な結界を張ってあります。特に座敷牢の周辺には、葵さんが二重三重の結界を張ってくれていますから」
この土地にはいまだに蛇神の残した邪気が漂っている、とコエシロウは言った。
「我々は、これから少しずつこの土地を清浄にし、家を建て、村人を増やしていかなければなりません」
コエシロウはいまだ無表情のまま言った。その顔は、前回会ったときと同じく不健康に青ざめている。
「君、大丈夫か? ひどく顔色が悪いが……」
たったいま墓から甦ってきたからという理由だけではなさそうに思えた。長内は、塔子の家の庭に迷い込んだ生き返りの村人の様子をいまでも鮮明に覚えている。あのとき男は意識朦朧とし、自分のことを認識できないような様子をしていたが、決して死人のようには見えなかった。
けれど今日、いまこのコエシロウの顔は、まるで死人そのもののように青白く血の気がなかった。
何かがおかしい。長内は警戒した。
「長内さん……」
いまだ夢うつつのように虚ろな響きを持つ声で、コエシロウは言った。先ほどから気になっていたのだが、それはようやく呂律が回るといったぐらいの、危なっかしい声色だった。
「何だ?」
悪い予感のようなものを覚えながら長内は聞いた。コエシロウは、ゆらゆらと幽鬼のようにおぼつかない足取りで、さらにこちらに近づいてくる。
「聞いてくれますか、長内さん……」
コエシロウの表情は全く変わらない。長内は真っ暗闇の冷たい雨のなかで、怖気を感じた。
「葵さんから聞かれているかもしれませんが、彼女は産婆の家系の者です……」
その声は、ますます虚ろさを増していき、人間の声からは遠ざかっていくようだった。
「村に戻ってきて以来、彼女はオビル婆たちの跡を継ぐべく、自分の知る限りの方法で産婆の修行を始めました」
いまや至近距離にまで近づいたコエシロウの顔は、雨に打たれてそこここから水滴を滴らせ続けていた。だがそれはもうすでに彼自身の顔ではなく、ひどく違った〝何か〟のように思えた。
「ある日のことです。葵さんが座禅を組み、長い瞑想に入っていたときでした」
コエシロウの目が、長内の目のすぐ前にあった。その目は少しずつ焦点を欠き始め、瞳の色は薄くなっていった。
「葵さんは、あるヴィジョンを見たのだそうです」
瞳の色を変化させながら、コエシロウは言った。
「ヴィジョン?」
長内は思わずオウム返しに言った。
「そうです。そしてそれは、間違いなく蛇神からのメッセージでした」
「蛇神からの、メッセージだって!?」
長内は驚愕した。産婆の瞑想中に、蛇神から直接何かが降りてくるなんて。そして、あの山の裾野の神社で出会った蛇のことを思い出していた。
あの小さな蛇は、間違いなく蛇神の化身だった。あの日、あの小蛇は長内を見据え、激しく威嚇しながら長内の意識下に蛇神からの伝言を伝えたのだ。それがどういった意味のものだったのか長内にははっきりとわからなかったが、のちに起きた凄惨な出来事によって身をもって思い知らされることになった。
蛇神の伝えてくることは、絶対に〝起きる〟。長内には、いまではそのことがはっきりとわかっていた。村人でもなく産婆の家系の者でもない長内にはヴィジョンなど見ることができようはずもなかったが、あのオビル婆の親族である葵には蛇神からの直接のメッセージが降りてきたのだ。
「はい」
おぼろな声で、コエシロウは言った。
「あなたがいま感じておられるように、蛇神の意志は絶対です。それはこの村に滞在されて、肌身に沁みてご存知でしょう」
「ああ。君たちと一緒に、あんな出来事をくぐり抜けたんだからな」
なぜか自然と震えてくる体の反応を感じながら、長内は言った。どうしてだろう、声までも震える。恐怖が長内の心を浸食し始めていた。
「……あなたに、残酷な決定を言い渡さなければなりません」
コエシロウは言った。その言葉の内容とは裏腹に、声には抑揚も感情も一切籠められていなかった。まるでいまこの体は、コエシロウのものであってコエシロウのものではないかのように。もしかすると、いまこの体のなかではコエシロウと別の何かがせめぎ合っているのかもしれない、と長内は思った。
「葵さんは、この蛇神に呪われた村の再興を堅固なものにするために、あるものを捧げるよう言われたのだそうです」
コエシロウは言った。目の色はますます変わってきている。
「あるもの? 何だ?」
長内は問いかける。だが、それが何なのか、もう自分でもわかっているような気がした。
「それは」
コエシロウがにじり寄る。その瞳は細くなり、一本の線になった。
そのときもう、彼は彼でなかった。長内にははっきりとそれを感じた。
「わかるでしょう? 神社になど行かなければ良かったのに。あのときすでに、あなたは蛇神に魅入られていたのですよ」
「ぐはっ!」
突然長内の口から思いもかけない声が上がった。一瞬にして、自分の体が自分のものでない感覚に襲われた。
長内は震えながら、自分の腕を見た。暗闇のなかで何も見えないが、感覚で感じる。血管に沿った線が盛り上がり、モゾモゾと蠢きながら浮き上がってくるのがわかる。
明るい場所で見えていれば紫色に違いないその線は、肩に広がり、胸に広がり、そして四肢を浸食していった。
何も見えないなかで、長内は感じていた。体じゅうに水が湧き、内側からどんどんどんどん膨れていくのを。
声帯までも水に浸食され、終いには声も出せなくなった。
そして長内が最後に見たのは、バンと視界を覆う禍々しい青だった。
終
呪村忌譚 @agataseina
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