第26話 帰村

 マサキと名乗った男は、絶対にコエシロウに違いない、と長内は思った。

 背が伸び、随分と洗練されて往時のイメージとはかけ離れていたが、自分の顔を見たときの反応といい、ガールフレンドが村の話をしていたときの対応といい、あれは間違いなくコエシロウである。

 しかも、あいつは俺が提案してやった名前をそのまま名のってやがる、と、長内は苦笑いした。かつての面影もないほど変わってしまった彼が、まだ広い世間を知らぬ純粋無垢な小さな村の少年であったころに接した思い出をいまさらながら思い出した。


 けれど、マサキ=コエシロウの出現は、長内に確かにあの村は存在していたのだということを証拠立ててくれた。それによって長いあいだずっと自分を苛んできた迷いは払拭された、と長内は安堵した。このような落ち着いた気持ちになれたのは、いつぶりのことだろう。


 どうやら彼は、うまいこと伴侶を見つけ出したようだった。オカルト好きの、やや現実主義的な女性だったが彼女のほうがマサキにベタ惚れのようだったし、おそらく無事に結婚して子供ができた暁には、村へ連れていくことができるだろう。長内は思った。


 思い返せば、あれから五年が経っていた。ということは、マサキはいま十九歳……。そうか。

 急がなければならないのだろうな。長内はにわかに緊張した。マサキが二十歳になるまでに子供ができなければ、彼が死ぬことによってあの村は滅んでしまう。となれば全国に散らばって生活している村出身の人々も、いにしえより連綿と続いてきた村人たちの魂も全て、蛇神によって地獄へとさらわれてしまうことになる。

 バーで出会ったときは、平然とした顔をしていたものの、かなり切羽詰まった状態だったのではないか、と長内は思い至った。

 バーに入ってきてすぐ、マサキが踵を返して出て行きずっと戻ってこなかったのも気になった。おそらくだが、村出身の誰かと延々連絡を取っていたのではなかろうか。それほど彼らの動きは慌しくなっているのに違いない、と長内は推測した。


 確かに、いまやもう自分には関係のないことといえば関係のないことだが、と長内は溜め息をついた。だが、塔子という愛していた妻を失い、ようやくこの世に生を受けた我が子を赤ん坊のまま失った長内である。あの村に執着めいた感情を抱かないわけにはいかなかった。

 しかもこの数年というもの、会う人会う人に、聞いてくれる人にだけではあるが、あの村で経験した出来事を話し続けてきた身でもあった。いまや長内は、あの村と自分とのあいだに数奇な縁のようなものを感じずにはいられなかった。


 長内は毎日、行きつけのあのバーに通い、マサキが再び姿を現すのを待った。もし万が一彼が自分の助けを必要としているのならば、何でもしてやろうという気持ちだった。

 だが、何日経ってもマサキは現れなかった。彼のほうに何か長内に言いたいことがあるのであれば、きっと数日中には戻ってくるだろうと踏んでいたのだが、どうやらそのようなことは起こらなさそうだった。

 おそらくマサキは特に自分の助けなど必要としていない。そう結論づけたが、長内にとってそれは少し寂しいことだった。

 蛇神に呪われた村、か。

 バーでウイスキーグラスを傾けながら、長内はひとりごちた。


 それからしばらくののち、バーのカウンターで飲んでいる長内の前に、ふらりとマサキが現れた。

「こんにちは」

 マサキは、こころなしか青ざめたような顔で長内の隣に座った。

「やっぱり、ここにいた」

 マサキは力のない声で言った。

「やっと来たね。君がいつ現れるかと思って、ここで待ってたよ」

 長内は心配しながら言った。マサキの精気のなさが気になっていた。マサキはバーテンダーに合図し、トニックウォーターを注文した。

「俺も、そろそろ二十歳が近づいてきたのでね」

 差し出されたグラスを見つめながらマサキは言った。長内にはそれが何を意味するのかはっきりわかっていた。

「彼女が……三奈というんですけど、妊娠しました」

 単刀直入にマサキは言った。

「それは、おめでとう」

 長内はかしこまって言う。その言葉に含まれる意味を全て汲み取りながら。

「正確には、妊娠したようだ、ということがわかっただけで、まだ確定ではないんです」

 明日病院に行って診察をし、妊娠していることを確かめることになっている、とマサキは言った。

「それで、ちょっと問題があって」

 うつむきながらマサキは言った。そうすると、目の下に隈ができているのがわかった。

「感じるに、俺はもう長くない」

 言いながら、マサキはトニックウォーターを少しだけ口に含んだ。オビル婆の血筋で、普通の村人よりも死の訪れを感じる能力が高いのだろう。

「一刻も早く、村に帰っておかなければと思うんです」

「なるほど。あの墓地に埋葬されなければならないんだからね」

 長内が理解を示すと、マサキは黙ってうなづいた。

「それで、相談が」

 神妙な面持ちでマサキは言った。


 その数日後、長内はマサキの婚約者のもとを訪ねた。

 三奈は喜んで長内を出迎えた。

「マサキくんから聞いています。長内さんがマサキくんの故郷の村に連れていってくれるんですよね」

 彼女はまだ膨らんでいないお腹に手を当てながら嬉しそうに言った。

「彼はご両親の具合が急に悪くなったそうで、急に村に帰らなければならなくなったんです」

 婚約者の村へ行って正式に両親に会えることが彼女は嬉しいようだった。

「ええ、聞いていますよ。実は僕も同郷の者なもので」

 長内は口から出まかせを言った。だが三奈は疑いもしない。

「そうなんですってね。ビックリですね、ご縁って」

 彼女はマサキから聞かされたことを信じきっていた。嬉しそうに微笑むと、まとめた荷物に手をかけた。長内はそれを受け取り、代わりに運んだ。


 二人は駅で電車を降り、タクシーを拾って山道を延々と上っていった。そしてある地点でタクシーを降り、そこからは徒歩で急な斜面を上って行った。

 妊娠初期の三奈を気遣いながら、長内はうしろからついていった。

「ふう、こんな急坂をまだ行くの……? どんな山奥の村なのよ」

 三奈は愚痴をこぼしたが、愛する婚約者が待っていると思うと力が湧くようだった。長内に促され、ときどき休憩を挟みながら、村への獣道をゆっくりと歩いていった。

 そしてついに二人は、その村の入口に辿り着いた。


 長内にとって五年ぶりに足を踏み入れる村には、以前とは全く違う光景が広がっていた。段々畑状の地形はほぼ全て更地となり、そこで大勢の男たちが木材を運び、柱や梁を組み立てて、昔ながらの日本家屋を立てているのが見えた。

 土地の最も高い位置、かつて村長の屋敷があったのと同じ場所に、大きな屋敷ができ上がっていた。村は再興の拠点となる村長の屋敷を真っ先に建てたのだ。

 長内は三奈をその屋敷に連れていった。玄関先には、見知らぬ女が出迎えた。

「初めまして。葵と申します」

 女は丁寧に自己紹介した。そして三奈と長内を、屋敷のなかに迎え入れた。


 屋敷は新築の匂いに満ちていた。新しい襖や障子が入れられ、新しい畳が敷かれ、廊下の敷板も全部真新しい美しさに輝いている。

「わあ、素敵なお宅……」

 三奈はここをマサキの実家だと思っている。まあそう言ってもいいだろう。生き返ってきたマサキは、いずれ村長としてこの屋敷に住むことになるのだろうから……。長内は推測した。


 葵は慇懃な態度で三奈と長内を案内し、廊下を先へ先へ進んでいった。奥座敷を過ぎ、さらに何度か角を曲がった。

「ずっと奥が続いてるのね……大きなお屋敷ですね」

 三奈が不安げな声で言った。少し落ち着かなくなってきたようだった。

「さあ、着きました」

 葵が落ち着き払った声で言った。

 そこは屋敷の一番奥に位置する、座敷牢だった。そう、あのとき塔子に取り憑いた古霊が入れられていたその場所である。

 葵と長内は二人して、三奈をその座敷牢に押し込んだ。

「何するのっ!? やめて!!」

 三奈は抵抗したが、無論かなうはずはない。葵は座敷牢の重い鍵をかちゃりとかけた。

「ここで、しばらく過ごしていただきます」

 葵は相変わらず落ち着き払った調子で言った。


 座敷牢に響き渡る三奈の悲鳴を背に、葵と長内は再び長い廊下を通ってひとつの座敷に落ち着いた。

「ご協力、ありがとうございました」

 葵がかしこまって言った。長内は黙って顔を左右に振った。

「私はコエシロウ……、いえ、マサキに助けてもらったことがあります。……そして、ここは亡き妻の故郷」

 いまや私はこの村に愛着があります。いえ、結びつけられていると言ってもいいかもしれない……と、長内は続けた。

 葵は深くうなづき、丁重に礼を述べた。

「三奈さんにはしばらくのあいだ、この屋敷内で静養していただきます。産婆の家は村長の家の次に着工したのですが、いまだ建築中で使うことのできない状態ですので」

 葵は説明した。そしてはたと気がついたように続けた。

「申し遅れましたが、私はオビル婆の弟の孫に当たる者です。使命のため村の外に出て暮らしていましたが、今回のことを受けて、三年前に村に戻ってきました」

 葵は産婆の一族の者だった。ということは、マサキとも血縁になる。

「ご覧のとおり、村は再興の工事の最中でございます。蛇神の怒りはそうとうに凄まじかったようですね。私が村に戻ったときは、建物は全て吹き飛ばされて、辺り一帯土の平面と化しておりました」

 葵は生真面目な表情で言った。

「本当に、柱の一本も残されていなかったのです。それを再構築するために、全国から村の出身者が戻ってきました。大工の修行をした者も相当数いますから、彼らの指導のもと急いで村を立て直しているところです。ですが外部に知られぬよう工事を行わなければならないため、時間がかかってしまって……」

 近隣の山から、目立たないよう広範囲に渡って少しずつ木を切ってきては木材にし、使っているのだという。なるほどそれで五年経ってもまだ村長の屋敷が完成しているのみなのだ、と長内は納得した。そうしてまで彼らは村の秘匿性を守る。

「この村が蛇神に呪われているというのは、本当のことでした」

 長内は真剣な眼差しで言った。葵は深くうなづいた。

「我々村の者も、蛇神のおそろしさがこれほどのものだと知ったのは初めてのことです……。でも、マサキが生き残ってくれたことは幸いでした。彼の命が繋がる限り、この村は滅亡したことにはならない」

「オビル婆が手を打っておいてくれたお陰でした」

 長内は言った。あの聡明な勇気ある産婆の顔が、目の裏に浮かんだ。

「本当に」

 聞き及んでいます、と葵は目を閉じた。

「マサキくんは、いま」

 長内は気遣わしそうに聞いた。はい、と葵は答えた。

「いまは墓地にて静かに眠っています。あれからもう一週間になりますゆえ、次の雨が降れば出てくるでしょう」

「そうですか。それは良かった」

 長内は安堵した。

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