第25話 忌譚
バーのなかは暗く、その夜は週末の土曜日だったこともあって、ひどく混み合っていた。
その日も長内は開店と同時に店に入り、話を聞いてくれる人を探していた。頭を巡らし、ひとりで来店している人や退屈そうにしている人を探す。
そのバーに長内はもう三か月も通っていた。いつもカウンターの同じ席に座り、ウイスキーのロックを一杯頼む。ウイスキーを頼むのは、ちびちびやりながら長時間過ごしていてもあまり違和感がないからだ。
混雑する店のなかで、長内のいるカウンター席も満席となり、隣の席も何度か人が入れ替わった。いましがた立っていった二人組の男性客のあとに、ひと組のカップルが来て座った。
が、男のほうは忘れものでもしたのか、すぐに踵を返して店の外へ出ていった。長内の隣ののスツールに座った若い女性がひとり残された。
女性はしばらく自分のスマートフォンを眺めていたが、すぐに飽きてバッグに戻し、そのあとは自分の指先のネイルアートを見つめたり、バーテンダー越しの棚にずらりと並んだ酒の瓶を眺めたりしていた。
男性のほうがなかなか帰ってこないので、彼女は手持ち無沙汰のように見えた。長内は身を乗り出し、女性に声をかけた。若い女性に声をかけるといっても、手慣れたものだった。あの村の話を誰かに聞いてもらいたくて街に繰り出すようになってから五年。拒絶されることにも受け容れてもらうことにももう慣れ切っている。長内はそんな風にして数限りない人に声をかけ、蛇神に呪われた村の話を語り続けてきたのだった。
女性は最初驚いたようだったが、割とすぐ耳を傾けてくれた。そういうオカルト的な話が好きなタイプだったのかもしれない。
「信じてもらえないかもしれないんですけど、……」
長内はいつものように話し始めた。女性は興味を引かれたように、飲み物を口に運びながらこちらに体を向けた。
「僕は、結婚していたんですよ、その村出身の女性と」
長内は言った。塔子のことを思い出して、ウイスキーを口に含んだ。妻のことを考えると、いつも自分のなかにあるはずの確信があやふやになりそうな気分になる。あの美しい女は本当に実在したのだろうか? 自分のような男と、あのような女が結婚してくれるわけがない。やはり全部夢か妄想だったのだろうか、と。
「その村って、どこにあるんですか?」
長内の話を聞いていた女性は、素朴な質問を返した。
「〇〇県にあるということだけはわかります」
長内は答えた。
「〇〇県の、どの辺りですか?」
女性はさらに聞いた。どうやらもっと興味が湧いてきたらしい。
「どの辺りかと言われると、ちょっとわからないんです。村へ入るためには、山深い道をずっと歩かなきゃならなくて……。行くときは妻のあとをついて行っただけですし、出てきたときは夜の真っ暗闇のなかだったから」
「真っ暗闇のなか?」
女性は口の端で笑った。異様な話に好奇心をくすぐられているようだ。
「そう。蛇神の呪いに取り巻かれた村から、命からがら逃げてきたんです」
「ええっ」
信じられない、といった風に彼女は笑った。笑うと始めのころより愛嬌が出て、可愛らしくなった。
「本当ですよ」
と、調子が乗ってきた長内は続ける。
「その村は平安の時代から、蛇神に呪われていたんです。千年以上も前からですよ」
「信じられない……。現代の、この時代になっても、ってことですか?」
彼女は目を輝かせて聞いてきた。
「そうなんです。僕はこの目で見てきたんですから」
長内はうなづき、またウイスキーをひと口含んだ。女性はちょっと胡散臭いものを感じ始めたのか、首をかしげて身じろぎした。そして一向に戻ってこないボーイフレンドを気にするように、店の入口のほうに視線を投げた。
「その村の人々は皆、ある
長内はグラスを持つ自分の両手を見つめながら言った。女性の反応は気にならないらしかった。
「その村に生まれた人は、十年ごとに突然死を迎えます。十歳、二十歳、三十歳、四十歳……。三度は生き返れますが、四度目は、本当の死です」
「短命なんですね」
つい引き込まれたようで、彼女は言い返してきた。
「はい。それは、蛇神の呪いのせいで」
長内はますます下を向きながら言った。
「村人は、死ぬたびにそれはもう苦しい思いをするそうです……。死は突然やってきます。驚きと恐怖に打たれた村人は、少しずつ深く冷たい暗闇のなかに引っ張られるのを感じ、やがて死に至ります。そのときの形相はものすごくて、口で説明しても、きっと半分も伝わらないでしょう」
長内は、村長が語っていた死が訪れたときの感覚を、我がことのように思い浮かべていた。そうすると、村人の死がじわじわと自分の足下にも近寄ってきているような錯覚を覚え、ゾクッとした。
「どんな形相になるんです?」
女性は知りたがっていた。長内は流れるように説明した。
「死んだ瞬間に、全身が水死体のように青ぶくれするのです。体じゅうの血管に沿って紫色の線が走り、まるで一週間前に亡くなった遺体のように見えます。そして」
「そして?」
「その顔は、恐怖に固まり、目と口はカッと開いて、断末魔の苦しみを示しています。そうだ、ずっと話しながら、僕はこの『断末魔』という言葉を探していたんです。断末魔の苦しみ。村の人たちが死ぬ瞬間に陥るのは、まさにその苦悶」
「それって、本当に本当の話ですか?」
よくできた怪談話だと言わんばかりの明るさで、女性は笑った。
「なかなか信じられないですかね」
長内は言った。これもまた、いつも返ってくる通常の反応だった。
「もう、五年も前の話ですからね……。記憶も曖昧といえば曖昧で。最近はもう、僕自身もあれは本当にあったことなのかただの僕の妄想なのか、区別がつかなくなりそうになっているんですよ」
これもまた、いつものパターンだった。こう言ってやることで、半信半疑の聞き手に緩衝地帯を与える。
信じるか信じないかはもちろん聞き手次第だが、彼らに向かって話すことで、長内自身が自分の記憶を辿ることができていた。そして実を言うと、語るたびに、その記憶が紛れもない事実であることを長内は確信していった。自分の口から出てくる物語は語るたびに一語一句ぶれることなく、あの当時の状況を正確に再現することができるのだ。それは何度繰り返しても変わったり、長内自身の考えやほかの余計なイメージが混ざり合っておかしな別の物語になることもなかった。妄想であるのならば、語るときのコンディションや色々な別の要因で、少しずつ物語が変化していくということもあり得そうではないか?
それを確認することによって、長内はあの村で起きたことは単なる妄想などでは決してなく、現実に起きたことなのだと感じることができた。
「そんな村がいま現在、この日本に存在するなんて、ちょっと信じられないですね」
女性は慇懃なもの言いで言った。語り手である長内が気を悪くしないよう、気を遣いながら言っているのがわかった。若いがしっかりと自分の意見を言える女性のようだった。
「でも、あなたのお話、どこかで聞いたことがある気がします」
女性は言い、ちらっと上目遣いに長内を見てからバッグに手を入れ、スマートフォンを出した。そして何度かフリックとタップを繰り返していたかと思うと、画面を長内のほうに向けた。
それは、オカルトや怪談を扱う総合サイトだった。女性が画面を長内に向けたままあるURLをタップすると、「呪い村」や「蛇神」などという文言がちりばめられたサイトに切り替わった。
「ここに、いまあなたから聞いたのとよく似た話がいっぱい載っていますよ」
含み笑いを浮かべながら、女性は言った。彼女からスマートフォンを渡され、長内はそれを閲覧した。
そこには確かに、いま長内が彼女に向かって話したような類の怪談が、ところ狭しと掲載されていた。動画のなかで語る怪談師風の男性、実際呪い村に行ってみた、とした深夜の山中の藪のなかで生中継を張ったもの、テキストコンテンツにおいても多種多様な切り口で、呪われた村についての情報が溢れ返っていた。
つまり、この女性は長内の話を頭から信じておらず、このようなコンテンツを作る人々と同類の言わばクリエイターのひとりとして捉えていたようなのだ。
「面白いとは思いますけどね」
女性は長内の目を見て言った。
「こんな話って、世間にあり余るほどあって、皆それを面白おかしく消費しているだけなんですよ。そして次々に更新されて、上書きされていって、どんどんエッジの利いたものになっていっている……。人間の想像力ってすごいですよね、だから私は好きなんですけど」
長内は呆然としながら、彼女の言うのを聞いていた。
面白おかしく消費されるコンテンツ……。そうか。俺の体験した話は、世間ではそんな風に見られている類のものなのか。
「でも、あなたのお話、すごくいいと思いますよ。発想も個性的だし、話の筋も面白い。そして、何よりあなたの語り方が良かったです。ものすごくリアルで……まるで、本当にその村に行ってそんな体験をしてきたみたい! 怖くてついつい引き込まれました」
怪談師になれる才能ありますよ、などと言いながら、女性は長内の肩を叩いてきた。
「いや、この話しか話せないから」
と言って謙遜するふりをするぐらいしか、長内にできることはなかった。
そのとき店の扉が開いて、彼女のボーイフレンドが入ってきた。
「遅かったね」
女性は彼の顔を見ると言った。
「ごめん、電話が長引いちゃって」
そう言った彼は、何気なく長内のほうを見た。そして驚いたように目を見開いたが、気を取り直して何も言わずに軽く会釈をした。
長内のほうも彼を見た。どこかで見たことがある顔のような気がしたが、よく思い出せない。男は背が高く、綺麗に整った顔をしていた。シックなダークスーツに身を包み、物腰も洗練されている。彼は黙って彼女の横のスツールに腰かけ、バーテンダーに飲み物を頼んだ。
「ねえねえ、待ってるあいだ、この人に怖い話を話してもらってたの」
甘えるような声で、彼女は言った。その態度と口調から、彼に心底惚れているというのが伝わってくる。それもそうだろう、と長内は思った。その男は長内から見てもかなりグレードの高い、女性が放ってはおかないようないい男だったのだ。
「へえ。どんな話?」
落ち着いた優しい声で、男は言った。彼女は即座に答える。
「〇〇県の山奥にね、蛇に呪われた村があるんだって。で、そこの村人はいまこの時代でも、ずっと蛇に呪われ続けてるって話」
男の頬が、一瞬ピクリと動いた。だが男はクールな視線を前のほうへ投げて、バーテンダーがカウンターに置いた飲み物を手に取った。
「〇〇県って言ったら、ねえ」
彼女は言った。
「そうだね」
言葉少なに、彼は応える。
「聞いたことある?」
相変わらず含み笑いを浮かべながら、彼女は言った。長内の話をはなっから信じてなどいないのだ。
「いや。知らないな」
彼も小さく首を振った。そして、
「呪いだとか、あんまり趣味のいい話じゃないですね。忌むべき話ですよ」
たしなめるように、そう言った。
その男の様子をじっと見ている長内のほうに振り返って、彼女は微笑みながら言った。
「彼、〇〇県の出身なんです。ちょっと田舎のほうの村だって言ってたよね?」
頬杖をついて、彼を見つめながら彼女は言った。彼は黙ってうなづいた。
「私はまだ行ったことがないんですけど……。実は来月、結婚するの」
恥ずかしそうに笑いながら彼女は言った。照れながら、でもそれを誰かに言いたくてたまらないようだった。
「結婚前のご挨拶に行く予定だったんだけど、彼のご両親が病気になってしまったらしくて。ホント残念」
「そのうち連れてくよ。そうだな、子供ができたら一緒に帰省しよう」
男は綺麗な微笑みを浮かべ、彼女の目を見つめながら言った。
「やだーー! いまからそんな話……。人前で、恥ずかしい」
彼女は嬉しそうに嬌声を上げた。男は言う。
「妊娠した君に会ったら、両親もきっと喜んで元気が出ると思う。だから早いほうがいいんだ」
「おめでとうございます」
長内は口を開いた。その視線はずっと、男に注がれていた。
カップルが席を立った。今日は面白い話をありがとう、と彼女が長内に言った。
彼が勘定を済ませ、彼女のあとから店を出ようとしたとき、長内は背後から声をかけた。
「ちょっと待って。君の名前は何という?」
その目は大いなる期待で見開かれていた。
男はゆっくりと振り返って言った。
「マサキ、っていいます」
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