第24話 焦燥

 長内は、住んでいたアパートに戻った。道中の旅費は、コエシロウが訪ねていった家の人たちが貸してくれた。その家は山から下りてすぐのところにあり、やはり村の家のような大昔の造りをしていた。二人はその晩その家に泊まった。

 彼らは何の変哲もない普通の家族で、父、母、息子と娘の典型的な家族構成だった。あの村のことだから、どこかで血が繋がっているのだろう、コエシロウとは容姿に似たところがあった。

 旅費は返す必要はない、気をつけて、と、柔らかな物腰の父親は言い、長内を快く送り出してくれた。昨夜コエシロウから村で起きた出来事について聞かされたはずだが、全く乱れることもなく落ち着いた様子だった。たったひとりでも生き残ったことは、それだけで村の存続の力強い保証ということになるのだろう、と長内は推測した。


 久しぶりに帰ってきたアパートのなかは、異様なほど寒々と感じられた。

 もうここに塔子が戻ることはないのだ、と思うと長内は突然大きな喪失感に包まれた。出産のあとにこの目で見た塔子の亡骸のイメージがいつまでも頭にこびりついて離れなかった。それは長内がそれまでに目にした最もおぞましく痛ましいイメージだった。

 そしてようやく生まれた赤ん坊……。蛾十郎という何とも醜悪な幼名をつけられ、名前を変えることのできる年齢まで育つどころか、奇怪きわまりない儀式に使われ、蛇神の生贄になって消え去った我が子。

 思い出すだけで、気が狂いそうになる。あの村で過ごしたあいだのことは、この街に戻っていつもの日常に立ち返ってみると、何から何まで異常なことだらけだった。


 長内は、アパートのなかを徹底的に片づけ始めた。あちこちに塔子の持ち物が残っていた。洋服にピンク色のドライヤー、化粧品、いつも着けていた甘い匂いの香水。お気に入りだったマグカップまで、長内は塔子の記憶を――そしてあの村の記憶を――想起させる品物を片っ端から段ボール箱に詰め、クローゼットの奥にしまった。そうしないと、元の日常と元の自分を取り戻せそうになかった。


 長内はそれから、元の生活に戻った。システムエンジニアの仕事に復帰し、またプログラミングに没頭した。村にいたあいだ遅滞していた仕事も集中的に仕上げ、納期に間に合わせた。

 できるだけ村のことを考えないようにしようとした。だが、たかだかふた月前の出来事は、いかにしても頭のなかから消し去ることはできなかった。仕事の合間に休憩を取るときでも、ひとりで摂る食事のあいだにも、その記憶はすぐに浮かび上がってきて長内をさいなんだ。


 ある日どうにもたまらなくなって、クローゼットのなかに踏み込み、塔子のものを入れた段ボール箱を引き出した。そしてそれを全てゴミに出してしまった。それほどにあの村は長内の心に傷を残し、時間の経過とともに薄まるどころかどんどん濃くなっていく喪失感を植えつけていたのだった。

 塔子のものを全部手放してしまったのも、ひとえにその喪失感から逃れようとするためだった。あの美しく聡明な年若い妻。彼女との生活、そして子供。何度も反芻するうち、その不在に長内は打ちのめされていった。


 ところが、アパートから塔子の持ち物を一掃し、たったひとりの生活を始めてみると、今度は真逆のことが起こってきた。長内には、あの村で経験したことが夢か幻だったように思えてきたのである。


 俺は本当に、あの奇妙な村にいたのだろうか……。


 そのあまりの異常性のために、村の記憶は非現実的な霧のなかに隠れていった。起きた出来事はどう頑張っても記憶から拭えず、その視覚的イメージは痛いほど目の裏に食い込んでいるというのに、その村が〝本当に存在したのか〟、そのような出来事が〝本当にあったのか〟ということのほうには確信が持てなくなってきた。

 しまった、と、塔子の持ち物を全部処分してしまったことを後悔した。塔子の物が何かあれば、彼女が確かに存在していたことの証になるし、そうであればあの村での出来事を辿るよすがにもなる。だがもう、あとの祭りだった。塔子とは正式に結婚していなかったので、婚姻届けすらない。長内の手の届くところに、塔子という女がいた証拠になるものは、何ひとつ残されてはいないのだった。


 あんな村はなかったということであれば、どんなに良かっただろうか。長内はあの村の不実在性を真に願った。けれどもそう願えば願うほど、頭のなかに浮かぶイメージはその鮮明さと陰惨さを増していった。そして長内自身の精神も、村の存在と不在とのあいだで常に揺れ動くようになった。

 ある日、エンジニアの仕事を請け負う企業の課長と直接会う機会があった。毎日の両極端な精神状態のせめぎ合いのせいですっかり憔悴し切っていた長内の顔を見て、彼は心配した。

「どこか体調がすぐれないんじゃないですか、長内さん?」

 そして、知り合いの心療内科を紹介してくれた。よく話を聞いてくれ、親身になってくれるドクターだという。

「いまの世の中、精神的に辛い思いをしている人は多いもんですからね。きっと楽になると思いますよ」

 課長は言った。


 渡された名刺を頼りに、長内はその心療内科に行った。応対したのは、先端的な知識を身に着けた滑らかな顔をした若い開業医だった。

 簡単な問診のあと、ドクターは長内に、いま言葉にできるだけの心のうちを全て吐き出してみるよう促した。長内はおそるおそる、自分がずっと苛まれているものについて話してみた。

 ドクターは真っ直ぐに長内の目を見て、要所要所でうん、うんとうなづいていたが、ひとしきり話を聞き終わると、確信したようにこう診断した。

「長内さん。あなたはいま、大変お疲れのようです」

 そして目の前にあるパソコンの画面を示した。モニターには脳の断面図が示されてあり、その一部ずつを指しながらひとしきりドクターは脳の構造と働きについて一般的な説明をした。

 結果的にドクターは、長内の話は極度の脳疲労の末に引き起こされたある種の妄想だと位置づけた。彼の場合は特に、性的なコンプレックスから来る自ら作り上げた幻覚世界に入り込んだのだというのだ。

「蛇というのは、精神領域の研究では性的なシンボルとされています」

 ドクターは微笑みながら言った。その表情はどこまでも穏やかで、医療的な措置を講じればその妄想を抑えることができると言わんばかりだった。


 長内のなかには、違和感だけが残った。相変わらず村での出来事は鮮明に頭のなかに残っている。けれど心療内科でドクターと話したあとは、いくらそのイメージが明瞭であってもそれは自分が自分の内部で作り上げた虚構であり幻なのではないかという気がされてきた。

 長内はしばらくのあいだ、ドクターに処方された薬を飲んでみた。脳の緊張状態をやわらげる作用を持つというその薬を飲むと、確かに頭のなかの悶々とした感覚は少し楽になったが、代わりに下顎が勝手に強張った。それは事前に伝えられていた副作用のなかのひとつだったが、決して快適なものとは言えなかった。

 薬を飲み続けても、村に関する強烈な記憶は消えず、副作用も辛く感じられてきたので、長内は心療内科に通うのを止めた。するとその過程を過ぎたあとは、ますます自分の頭のなかに展開されるイメージとそれを現実だと認められない危うさとのせめぎ合いは強くなった。


 長内は何かにすがるように、街に出るようになった。誰でもいい。誰かに話を聞いてもらいたかった。


「俺が見てきた村の話を聞いてくれるか……」


 それが彼が最初に言う言葉だった。多くの人が集まるバーなどで暇そうな人を見つけ、声をかける。突飛なその行動と切羽詰まったような目つきにほとんどの人は背を向けたが、たまに話を聞いてくれるもの好きな人もあった。


「その村は呪われている。古くからの忌まわしい呪いに、いまだに取り憑かれ続けているんだ……」


 長内はその人たちに語った。

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