第23話 脱出
そのとき、カオスと化した群れのなかから飛び出してくる影があった。
それは、あの産婆の家の門番であるコエシロウだった。コエシロウは、長内に取りたかっている亡者のごとき村人たちを片っ端から剥ぎ取っては投げ飛ばした。
長内はその光景を見て驚いた。この少年だけは、なぜだか青ぶくれておらず人間の姿形をしている。
「どうして」
長内のみならず、周りを取り囲む村人たちも声を上げた。コエシロウは微笑み、張りのある声で言った。
「オビル婆の命で、この祈祷所で待機していたんだ。蛇神に見つからないように、護符を敷き詰めた陣のなかに入っていた。婆の読みは、見事当たった!」
儀式が始まる前、オビル婆は策を講じていたのだ。村が呪いから解放された
「言わば、保険をかけておいたということか」
長内は笑って言った。
「そういうことです」
コエシロウも快活に返した。
「さすがは最長老の産婆。あっぱれだな!」
だが、呪いに巻かれた村人たちはもはや思考を制御できず、まだ長内をその群れのなかに引き込もうと迫ってきていた。それをコエシロウが片っ端から殴りつけ、蹴り倒し、効果的な突きを連打して遠ざけていく。この少年の凶器のような喧嘩の腕が、このときばかりは役に立った。
二人は一瞬、オビル婆のいるほうを振り向いた。産婆はしっかりとした視線でコエシロウを見つめ、力強くウンウンとうなづいた。そして「行け」と言うように前に向けて手を振った。
長内はコエシロウのあとについて、祈祷所の外に出た。門を封じていたにもかかわらず、いつの間にか産婆の家には村人たちが押し寄せていた。
廊下いっぱいにウヨウヨと群がる連中をコエシロウが片づけているあいだ、隙を見て長内は戸外へ出た。
玄関から門へ向かう飛び石のある通路にも、村人がびっしり寄り集まっていた。村長の屋敷で蛇神が巻き起こしている旋風の舌先がそろそろこちらにも及んできて、彼らはますます大きく青ぶくれ、その手の先まで水風船のようになっていた。
ひどく苦しいのだろう、彼らは断末魔のような悲壮な声を上げ始めていた。そしてそうなればさらに激しく村外から来た人間を自分たちと同じ運命に引き込みたくなるようだった。
青黒い水風船のような無数の手が、長内を捕らえようと長く伸ばされてきた。
捕まってたまるか。
長内は無我夢中で、もはや意志を持たない異形のものとなり果てた村人たちをかいくぐって逃げた。コエシロウも少し遅れてあとに続いた。
「こっちです。近道がある」
産婆の家の門を出ると、コエシロウは長内の手を引いて家々のあいだの路地を走り出した。
もう日はとっぷり暮れ、外灯も何もない村の細い道は真の暗闇と化していた。そのなかを、まるで心眼で進む先を探知しているかのように、迷いなくコエシロウは走った。長内は目をつぶっているも同様の状態で、少年を信じて必死に足を動かすしかなかった。
村人たちを何とか振り払い、二人は村から出ることに成功した。
「オビル婆はどうなるんだ? 見たところ、ほかの村人たちとは違ってひどい恰好にはなっていないようだったが」
肩で息をしながら長内は尋ねた。まだ村から出たに過ぎず、夜の闇に包まれて山のなかにいる。けれど村からは離れられたので、少し安心できた。
「祈祷所のなかにいるし、霊力が強いので、しばらくは大丈夫でしょう。……でも蛇神の風が産婆の家に吹き込み始めたから、もう長くはないはず」
コエシロウも荒い息をつきながら、そう答えた。
「ほかの産婆たちも、ダメか」
絶望を予想しながら長内は言った。
「はい、おそらく。ほかの四人の婆たちは産婆の家に姿を現さなかった。ということは、あの場所ですでに蛇神に取り込まれてしまった可能性が高い。残念ですが」
コエシロウが肩を落とす。
「君の親族なんだろう」
長内は眉根に皺を寄せて言った。
「はい。五人とも皆」
コエシロウは顔を上げた。
「でも、だから、生き残ったのが俺で良かったんです」
産婆の家の血筋であるということは、かなりの強みである、とコエシロウは語った。
「もともと村の外に出て、伴侶を探して子供を作り、村に連れ帰るのが俺の使命でした。十五の歳を迎えたらそれを開始することになっていたんですが、予定が少し早まっただけだと思えば気も楽です」
自分ひとりでも蛇神の呪いからまぬがれ生き延びることができれば、村は滅びたことにならない。そして産婆の血筋である自分が無事に子供を作り、妻とともに村に連れ帰ることができれば、防御力に富んだ家が村にまたひとつできて家系を繋げることになる。
「言わばリセットされたような形で。また一からのやり直しということになりますが、全滅して全員地獄にさらわれるよりはマシです。ここからまた、村を再興していけばいい」
村は、
「これからは、全部君次第なんだな」
長内は納得して言った。
「そう。俺次第です」
コエシロウは背筋を伸ばし、きりっと姿勢を整えた。これからこの少年が、村全体の行く末を担うのだ。
「行こう。山の夜道には慣れていない。先導してくれ」
長内は言った。はい、とコエシロウは応えて、先に立って歩き始めた。
「これから街に出て、伴侶となる女性を見つけ、一緒になって子を成し、村に連れ帰るとなると……こりゃ君、大変だよ」
長内は暗がりをコエシロウの手を頼りに進みながら言った。
「そりゃあ、大変ですよ。うまくいくか、正直自信がない」
コエシロウは振り返って言った。
「じゃあまず、その名前を変えたほうがいいな」
長内は笑って言った。
「コエシロウじゃ、まずモテないぞ」
暗闇のなかで小さな笑い声がした。
「じゃあ、マサキでいきますか」
「それがいい。間違いない」
長内も笑って応えた。
「ところで、山を下りたら君はどうするんだ?」
村から出るのは初めてに違いないコエシロウを長内は気遣った。長内以上にしっかりしているとはいえ、まだ十四歳の少年だ。行くあてはあるのだろうか。
ところが、コエシロウは何食わぬ様子でこう答えた。
「山を下りてすぐのところに、村人が住んでいます。村に建築資材や燃料とか、ほかにも細々としたものを調達するために置かれている家で、代々村のために役立ってくれているのです。ひとまずはそこに行こうと思います」
なるほど。日本全国に散らばっていると言っていたが、近隣社会にも溶け込んで物資を調達する者がいるというわけか。長内は改めてこの村の徹底した組織性に驚かされた。
「何より村に起きたことを伝えなければなりませんから。その家にしばらく厄介になって、いずれ街に出ることにします」
コエシロウは言った。
長内はこの少年に象徴される村の図太さ、たくましさにほとんど感嘆していた。そしていつか村長が言っていたことを思い出した。外部からの伴侶を探すために全国に散らばっている村出身者は、外の世界から援助を行い、村の存続を支えている。この先コエシロウは、彼らの協力のもとに村を再興していくのだろう。
あの村はこうやって、千年の昔から自らを守り通してきたのだ。そしてそれは逆に、蛇神の呪いがどれほど根深く執拗でおそろしいものであったかを物語ってもいた。
長内はコエシロウに、自分の住んでいる街の名を教えた。体ひとつで村を脱出してきたので紙もペンも持ち合わせがなく、住所や電話番号など細かな連絡先を教えることはできなかった。
「充分ですよ。いつか必ず、その街に会いに行きます」
コエシロウは言った。
長内は再びコエシロウに手を取られて、二人は急な斜面を下っていった。塔子と初めてこの道を上ってきたときはひどく長く感じたその道程は、今度はやけにあっけなく、早く終わってしまったのに長内は気づいた。
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