第22話 恐慌
村人たちは、大混乱に陥った。悲鳴を上げて逃げ惑う者、絶望のあまり土に突っ伏して号泣する者、怒りに我を忘れて周囲にいる人間を殴りつける者まで表れた。
何しろ、千年の呪いが解かれるという望みを持っていたのだ。最も高く盛り上がった感情のピークから一気に突き落とされた彼らのショックは測り知れなかった。
だが、蛇神は容赦なかった。呪いから解放されようなどという
阿鼻叫喚の様相を呈するなか、村人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。なかには村長の家の頑丈な柱や壁の下敷きになって命を落とす者もいたが、その命は四~七日後の雨の日に復活を許されるものか否か謎であった。何といっても、蛇神の怒りの旋風のただなかで命を落としたのだから。
長内も、ほかの村人たちに紛れてその場から遁走した。櫓の前を離れるとき、長内は産婆たちの逃げ惑っている姿を見た。いまやすっかり威厳を失いおろおろと駆けずり回る背中の曲がった小さな姿は、目も当てられない惨めさと情けなさを呈していた。
「オビル婆、こっちに!」
荒れ狂う暴風のなか、長内は声を限りに叫んだ。オビル婆の干し首のように小さな顔が、こちらを向くのが見えた。長内は手を伸ばし、伸ばされた手を握ってこちらへ引っ張り寄せた。
「ほかの婆たちは?」
小さ過ぎるオビル婆の体を、まるでラグビーボールを持つように小脇に抱えて走りながら長内は言った。
「わからん! ヤナカ! ハシン! ネシン! コドリィーーッ!」
オビル婆も我を失っているようだった。仲間の従姉たちを呼ぶ婆の声は、蛇神の起こす旋風のなかに吸い込まれて消えていった。
「……失敗した、失敗した……」
逃げるあいだオビル婆はずっと、青ざめた顔でそう繰り返していた。脇の辺りから聞こえるその言葉の反復にうんざりしながら、長内は走り続けた。
村長の屋敷を出てもまだ、暴風は追いかけてきた。蛇神の怒りは止まるところを知らずさらにその勢いを増し、村じゅうへと拡大しつつあった。吹き飛ばされないよう家々の軒下に身を隠しながら、少しずつ進むしかなかったが、やがてどうにか風の及ばないエリアにまで辿り着いた。
ひと息ついた長内がオビル婆の体をそっと地面に降ろすと、婆はそのまま地面に突っ伏して泣き始めた。
「わしの責任じゃ……。わしの……。あの古霊の狡猾さを見抜けんかったわしの」
村をより強く蛇神の呪いに結びつけてしまった、と、オビル婆は嘆いた。
「どうしようもない。死んで詫びるよりほかない」
と言うオビル婆を、長内は何とかなだめた。
「あなたが死んでしまっては本当に村はお終いになりますよ。そのあとは、誰が村を護っていくんですか」
とにかく、と力を落とすオビル婆を再び抱え上げて、長内は産婆の家を目指した。村じゅうには村長の屋敷から逃げてきた村人たちがまだ逃げ惑っていた。彼らは皆正気を失っているように見え、その目は虚ろで絶望に満ちていた。
「もう駄目だ」
「この村は、未来永劫呪われる」
すれ違う村人たちは口々にそう囁いていた。
……我々には、もう救われる道がない……。
方々でそんな声が聞かれた。見ると、西側の山の稜線に日が隠れようとしていた。
夕闇が迫るなか、長内はふと村の異変に気づいた。それは少しずつ、目立たない程度にではあるが、確実に進んでいた。
村人たちの様子がおかしい。
日が傾くにつれ、逃げ惑う人々の動きが緩慢になった。皆一様にぶらりと両腕を下げ、顔をうつむけ体を左右に振りながら歩いている。
「うわ!」
すれ違ったひとりの村人を見て、長内は声を上げた。
その村人は女だった。おそらく、という言をつけ加えなければならないのは、着ているものが女ものだったからに過ぎないからである。
その〝女〟は全身青ぶくれしていた。ジーンズから覗く足首はジーンズの締め付けに余り、歩みを進めるたびにぶよぶよと水風船のように揺れていた。そしてその手、腕、顔に至るまで全て同じように青ぶくれしているのだった。
まるで、この村の人間が死を迎えるそのときのように。
かろうじて救いだったのは、村人たちがまだ、あの死んだときの目と口をカッと開いた苦悶の表情をしていなかったことだった。かつ彼らはまだ口をきくことができた。彼らとのあいだには、会話が成り立ったのである。
産婆と出会うことができた彼らは、口々に助けを請うた。オビル婆は、自分が知る限りの呪文やまじないを唱えたが、彼らの変容を止めることはできなかった。
「いまは非常時じゃ。いつもと違うことが起こっている」
オビル婆は恐怖に震えながら言った。
「……おそろしいことじゃ」
「この人たちは、元の姿に戻れないのですか?」
長内も恐怖を感じながら聞いた。目の前にいる人々は、見る見る死の兆候を迎えているようだったからだ。オビル婆はうつむいて言った。
「蛇神は、千年を経たいまも我らのことを強く恨んでおる。まっこと、蛇の呪いは執拗じゃの……。もしかすると……」
「もしかすると?」
背中に戦慄を感じながら、長内は聞いた。オビル婆は全身を小刻みに震わせながら、こう答えた。
「蛇神は、この村を全滅させようとしておるのかもしれん。……いま、村じゅうに呪力が満ちてきているのを感じる。このままではわしらは全員、地獄へかっさらわれてしまう」
産婆の家に近づいてくと、門の前にはゾロゾロと村人たちが集まっていた。皆、例外なく通りすがりに目にしてきた村人たちと同じに青ぶくれしていた。
「オビル婆、助けて下さい」
「お力で、呪いを和らげて下さい」
苦しそうにうめきながら、村人たちは訴えた。彼らの肩に手をかけながらあいだを通り過ぎると、オビル婆は忌々しそうに拳を振り下ろした。それは自分自身に腹を立てているような仕草だった。
オビル婆はまず、門前に集まっている村人たちを全員産婆の家のなかに入れた。そして門を閉じ、玄関を入ってまっすぐ奥の祈祷所に連れていった。
「よいか。ここはひとまずの避難所となる」
人々を前にしてオビル婆は言った。
「だがそれもおそらくは時間の問題……。蛇神の呪いはこの産婆の家にも及び、蛇神の〝お戻り〟とともに、我らはもろともに連れ去られてしまうだろう」
「そんな……」
「助かる手立てはない、ということですか……」
絶望に満ちた声で村人たちは言った。そのあいだにも、呪いの力は忍び寄ってきていた。長内には彼らの体じゅうの血管が紫色になり、膨れ上がっていくのが見えた。
彼らのことを気の毒に思いながらじっと見つめていた長内は、ふと自分の腕に目を落とした。彼らとは違い、自分には蛇神の呪いは影響を及ぼしていない。
それは純粋に、この村に生を受け、代々血を繋いできた村人にだけかけられている呪いなのだ。
……長内の体は自然と動いていた。誰にも気取られぬよう、静かに、少しずつ動いていった。目立たぬようかがんだままの姿勢で、出入口のほうへ移動した。
「おい、どこへ行く」
目ざとい者が長内の動きに気づいた。さっ、と周囲の視線が集まる。
「ひとりだけ、逃げようっていうのか」
村人たちの目は、いまや血走っていた。千年のあいだ蓄積された呪いの毒が、少しずつ滲み出てきているかのようであった。
「行かせるか」
誰かが言った。気づけば、村人たちは出入口を塞いで長内を取り囲んでいた。
「俺はこの村の者ではない!」
そう叫んで逃げ出そうとする長内に、
「お前ももうこの村の者だ、塔子と一緒になったからには」
村人がそう言った。
「違う! 俺は呪われていない。見ろ」
自分の腕を突き出して長内は言った。
「ああ……。いいなあ、ふくれてない綺麗な腕」
ほかの村人が言った。
「お前もここに留まれ」
「私たちと一緒に」
「未来永劫」
呪いに取り巻かれた人々は、蛇のように手足を長く伸ばしてまとわりついてきた。近くに寄せられるその顔は皆例外なく青ぶくれし、血管に沿って紫色の線がジグザグに走っている。
彼らはすでに、人間であることを放棄しようとしていた。
そしてそれは、蛇神の呪いの最たる狙いだった。呪いが極まったそのとき、村人たちは長内をも呪いのただなかに取り込もうとした。彼らはそうせざるを得なかったのだ。
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