第21話 顕現

 儀式は佳境に入っていた。ことわけを知らず、相変わらずキャッキャと笑い声を上げている蛾十郎を掲げ持ったオビル婆は、重々しい仕草で櫓のほうへ一歩進み出た。そしてまた、一段と声高らかに、異言の呪文を唱えた。

「イロッキヤ、オロッキヤ……イロッキヤ、オロッキヤ……」


 そのときだった。櫓の上の空間が、揺らぐように不気味に動いた。それは透明な箱が重力に引っ張られてひしゃげるような感じだった。ぐにゃりと動いた空間は、そこから何かを吐き出すように中心から周囲へ向けて波紋を広げ始めた。

「何だ……」

 村長を始めとする村人たちは、ただ呆然とその様を見守っていた。オビル婆だけが、自分の手に掲げた赤子の様子を目を丸くして凝視している。


 超自然的なことが起きているのは明らかだった。ここからはもう、産婆とて制御できない。我々は未知の領域に入ってしまったのだ。長内は思った。

 突然、蛾十郎の体がふわっと宙に舞い上がった。「あっ!」と言って長内は手を伸ばしたが、男たちに抑えつけられていて無論届くはずがない。

 ぐにゃぐにゃと脈打つように広がり続ける櫓の上に生じた波紋は、宙に浮いた蛾十郎の体を手鉤てかぎで引っかけるように引き寄せ、その中心に捕らえた。見るとさすがに赤子の目つきも変わってきている。その目は驚いたように大きく見開かれ、自分に起きていることが何なのか探るように、上下左右に忙しく動いていた。

 だがやがてその目は徐々に様子を変え、一点を見据えて動かなくなった。瞳孔は見る見る細くなり、ひと筋の糸のようになった。そしてそうなるとその目は人間の表情を失い、冷たく凝り固まった妖魔の様相を呈した。


「何だ……。何が起きているんだ」

 村長が小声でつぶやいた。

「蛇神様が、生贄を獲りに来ておられるのじゃろう」

 なめした皮のような顔に汗を浮かべながら、オビル婆が言った。

 蛾十郎の小さな体は、少しずつ回転を始めた。シュルシュルシュル……。それは見る間に一気に速度を上げ、高速で回る渦のなかに赤子の姿を巻き込んでいった。

 シュルシュルシュル……。

 長内はそれを、どこかで聞いたことのある音だと思った。そしてハッと気づいた。

 それは長内があの山の裾野の神社で聞いた音だった。大昔の村人たちが蛇神の怒りを鎮めようと必死に祀っていた神社には、確かに蛇神が住まっていた。

 そして長内はあのとき、その蛇神と相まみえていたのだ。

 シュルシュルシュル……。

 シャーッ! という鋭く尖った音がそのあとに続いた。

 それはあのとき、長内に重要な情報を伝えたあの小さな蛇が近づいてきたときに立てていた音と酷似していた。そしていま、我が子の変わり果てた目も、あの蛇の目そのものにほかならないことに長内は気づいた。


 あの目。

 あの威嚇音。


 長内ははっきりと思い出した。我が子が吸い込まれていった渦の中心にあるもの。それを見つめる長内の目は、恐怖に満ちていた。


 赤子を巻き込んで回転する渦はやがてその密度を増し、一本の筋となった。筋は辺りの空間にある一切のものを取り込むようにして徐々に太くなり、物体化して形を成し、さらには色づき始めた。

 そうするうち、全村人が集まった村長の家の中庭で、衆目のなか、巨大な〝蛇神〟が顕現した。

 それは千年以上のあいだ、何百世代にも渡って村人たちが渇望していた瞬間だった。

 蛇神による忌まわしい呪いから解き放たれる……。

 呪い。それは村としての繁栄はもちろん、個人の幸福も諦めなければならない、そしてまた外部から人間を引き入れて犠牲にしなければならないほどのごうを積み重ねることを強いた、気の遠くなるほど長い期間に渡る犠牲だった。その期間はあまりにも長すぎて、いつしか村は呪いとともに生きることをそのアイデンティティと感じるほどにまでなっていたのだった。だが今日、いまこの瞬間、ようやくそのくびきがはずされるのだ。

 村人たちは皆、感動に打ち震え涙していた。そして呪われて以来初めて彼らの前に姿を現した畏神おそれがみが口を開き、彼らにかけられた呪いを解く言葉を口にするのを待った。



 座敷牢では、ヒヒ、と陰湿な笑い声を立てながら古霊がひとり語りを続けていた。

 いまにも朽ち果てそうなその口からは、先ほどから間欠泉のように一定間隔で緑色の液体があふれ出ている。

「その昔。神隠しに遭っていたあいだの三年の記憶は一切ないと言っていたが」

 肉体の限界を越えていきながら、古霊で邪気子の〝ナナカマドさん〟は言った。

「本当は、全部覚えている」

 ケケ、と愉快そうに笑った。そして緑色の液体の尾を引きながら顔をもたげ、

「〝山の神〟は、優しいぞ……」

 眼球のなかの砂嵐を高速で揺らしながら続けた。

「わしを魅入った神様は〝山の神〟ではない……。蛇よ。蛇神様」


 三年ずっと、わしは蛇神様の奴隷じゃった。蛇神様はもう、わしをどんなひどいめに遭わせたか……。

 蛇神様は、自分の娘をなぶり殺しにした村人たちが、娘に対してしたことをそっくりそのままわしの体に返した。

 それはもう、痛かった、苦しかった、哀しかった……。

 どうして昔の村人たちは、蛇の娘にそんな酷いことができたのか、わしにはわからんじゃった。昔の村人たちは、何を考えておったのか。どう考えてみても、どう想像してみても、わしにはわからん。

 邪気子に生まれたのが悪かったんじゃろか。蛇神様に魅入られるとは。

 三年間よ。三年のあいだずっと、子供のわしに、蛇神様はなぶり殺しにされた蛇女の苦しみを味わわせた。

 辛かった、辛かった、辛かった……。


 そのあいだの記憶が甦ったのか、古霊の目から大粒の涙がこぼれた。その体はしばらくのあいだ不随意に細かく震えていたが、やがて静かに硬直した。

 もはや声帯を震わせることもできなくなった女の体のなかから古霊は言った。


 わしは、身も心も魂さえも、蛇神様の奴隷になり果てていた。蛇神に魅入られた邪気子は、生きて村に帰ってからも、死んで魂になってもなお、蛇神様に命令されればどんなことでもするのじゃ。 

 蛇神様はわしに巻物を作り、それを村長の家の鴨居に隠せと申された。わしは命ぜられたとおり必死に修行をして、指物師になった。


 あの呪文は蛇神様から言われたままを、わしが書いたものじゃ。



 やはり蛇神の呪いは根深かった。蛇神は村の子供をさらい、いつか遠い将来呪いから解き放たれようとするであろう村を、再び闇の底に引き戻す手段を講じておいたのだ。

 神隠しに遭った邪気子は死後古霊となり、何百年も彷徨さまよいながら、肉体に入り込む隙を狙っていたのだ。村人たちにその巻物を発見させ、自ら罠のなかに飛び込んで来させるために。


 それは仕込みの、時限爆弾のようなものだった。


 そしてそして……。ようよう、わしは用済みになった。


 古霊は完全に動きを止め、その口から最期の緑色の液体がこぼれた。




 蛇神はたけり狂って大暴れした。巨大な体躯をぐるぐると回転させ、その場に竜巻のごとき凄まじい旋風を巻き起こした。その勢いに村人たちの体は吹き飛び、村長の屋敷の壁はバキバキと音を立てて崩れ落ちた。

 千年の呪いから解き放たれようとした村人たちに、蛇神は怒りをあらわにしていた。そして何とも言い表し難い異界の声をもって、千年前と同じ呪詛を、高らかに宣言した。


「お前たちは死に絶えるか、未来永劫に苦しむがよい!」


 村人たちの願いとは裏腹に、その儀式は逆の意味を持っていたのだ。それはいにしえの蛇神を目覚めさせ、村人たちの前に復活させる儀式ではあった。だが実際には村人たちは、自分たちの世代で蛇神の呪いから解放されるどころか、新たに呪いの契約を確認し、更新してしまったのだ。


 それは蛇神にとって村人たちへの再度の念押し、〝意思確認〟のようなものだった。



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