第20話 儀式
蛇神の呪いを解くための儀式は、村長の家で執り行われることになった。情報が回され、翌日の早朝、村じゅうの人間が大屋敷に集まった。
代々続く千年の呪いから解き放たれたい一心で、年長の者から乳幼児に至るまで、村人は残らず参列していた。広大な村長の屋敷の中庭に設置された
村外の人間である長内も、参列を許された。それはひとり欠けた塔子の分を補うためのものなのか、それとも塔子の夫として村人のひとりであると認められているということなのかわからなかった。だが妻を取り戻したい願いでいっぱいの長内は、村人たちと同様真剣そのものの面持ちで儀式に臨んだ。
祭祀はオビル婆がつとめることになった。
「イロッキヤ オロッキヤ……」
オビル婆は厳粛な面持ちで、古霊の読んだ巻物が示したとおりに儀式の手順を踏み始めた。
「イロッキヤ オロッキヤ……」
オビル婆が両手で握った
全て異言で形成されるオビル婆の唱える呪文は、
通常、婆たちが唱える呪文は古い時代に村で使われていたとされる言葉の名残りを留めていて、表現法は違えどそのニュアンスは村人たちにも何となく理解できるものだった。だがいまオビル婆の唱えている呪文は村人たちにわかるものとは全くかけ離れていた。それはまるで遠い外国で歌われる歌のような、それとも遥か彼方の宇宙言語か何かのような響きを持っていた。
そのゆえにか、いつしか少しずつ、参列した村人たちのあいだに不安に似た感情が生まれ始めた。聞こえるか聞こえないかといった程度のざわめきが起こり、一分一秒ごとにそのボルテージが上がってくるような気がされた。
それを長内はその場にいて、肌身で感じていた。村人たちは明らかに落ち着きを失いつつある。この儀式が古霊が読み上げた巻物の情報に沿って行われていることを、彼らは知らされていなかった。にもかかわらずこの場において引き起こされた動揺は、村人たちが潜在的に持つ〝畏れ〟に基づくものなのだろうと長内は解釈した。
「儀式の成功のためには、村人全員が心をひとつにして、強く結束することが必要です」
儀式の開始前に、村長が皆に向かって説いた言葉を長内は思い出していた。その昔、蛇神の怒りに触れることをしでかしてしまったのが村全体の責任なら、蛇神の呪いから解き放たれるために必要なものもまた、村全体がひとつ意志に固まることだ、というわけだ。それには五人の産婆たちの助言も説得力を与えていた。この村において彼女たちの影響力は絶大だった。
時刻は午後を回り、儀式も佳境を迎えていた。オビル婆の呪文は徐々に声量を上げ、発する異言のピッチも早くなった。そのころには村人たちの動揺は一応収まったように見えた。おそらく延々と繰り返されることによって異言にも耳が慣れ、慣れることによって不安感が薄まってきたからだろう。
そして、潮が引くように、オビル婆の口から発される呪文は小さくなり、ついにその音を消した。
朗々と唱えられ続けた異言による呪文の余韻が残る会場には、荘厳な雰囲気が醸成されていた。人々は皆、次は何が行われるのかといった表情で、中央の櫓の前に立つオビル婆に注目した。
そのとき、静まり返った会場に、赤ん坊の声が聞こえた。キャッ、キャッ、と無邪気にはしゃぐ声が、奥座敷のほうから段々大きくなりながら近づいてくる。
「何!?」
思わず長内は声を出したが、そうするあいだにも赤子の声はどんどん中庭に近づいてくる。
襖が開かれ、濡れ縁に進み出たのはヤナカ婆だった。その腕には間違いようもなく、長内の長男、蛾十郎が抱かれていた。
「おい……。おい、何をするつもりだ?」
長内はヤナカ婆に向かって言った。婆は長内を一瞥すると、憐れむように眉根をひそめ、
「塔子の夫よ。すまぬが蛾十郎を儀式に使わせてもらう」
と言った。
「儀式に使うって……。俺の子をどうするってんだ!?」
反射的な恐怖と怒りが、長内を突き動かしていた。立ち上がり、我が子を抱く婆に向かって走り出そうとした。
が、そのとき、数名の若者が長内の前に立ちふさがった。見ればあの、長内が村を脱出しようとしたときにそれを阻止し、長内を捉えて運んで行った荒くれ者どもだった。
そのひとりが言った。
「長内さん、これは村全体の命運がかかった儀式だ。俺たち皆が救われるか救われないかの瀬戸際にいま立っているんだ。ここは堪えてもらう!」
そう言うと長内の腕をつかみ、地面へ引き倒した。
「ぐっ! やめろ! 俺の子だ……俺と塔子の、初めての子……」
言いながら長内は、四人がかりで男たちに押さえつけられた。見るとそのなかには、あの日突然道端で卒倒し、青ぶくれになって死んでいた筋骨隆々の男の顔があった。男は無事生き返り、二度目か三度目の生を生き始めていたのだった。
男たちが長内を抑えたのを確認すると、ヤナカ婆は静かに濡れ縁から降り、両手に蛾十郎を抱いたまま前へ進み出た。
櫓の前では、オビル婆が厳格な顔をして待ち受けていた。
「……やめろ……やめろ……正気か、赤ん坊だぞ! 何考えてるんだ!」
長内は気が触れたようになって叫んだ。だが、村人たちは静止したまま身動きもしなかった。蛾十郎は現れたときと同じようにキャッキャと声を上げてはしゃいでいる。生まれた瞬間から自分を取り囲み、愛と滋養を与えてくれていた婆に、完全に心を許して。
やがて櫓の前に辿り着いたヤナカ婆の手から、オビル婆に蛾十郎が渡された。小さな体はまるで張り子の人形のように易々と手渡された。
「蛾十郎を〝生贄〟にする」
オビル婆は赤ん坊を高々と持ち上げると、確固とした声でそう宣言した。
「がぁっ!」
長内は言葉にならない声を上げた。何ということを。だが村人は誰も産婆の言うことに逆らおうとはしない。
「手順にはこう示されていた。儀式の最後には、『穢れなき呪われしものを使う』と。まだ穢れのない魂ではあるが、死人から生まれてきた赤子は〝呪い〟に触れている。従って、この赤子は『穢れなき呪われしもの』である」
ヤナカ婆があとを次いで続けた。
「やめろやめろーー! やめてくれぇ!」
泣き叫ぶ長内を、男たちの無情な手が押さつけた。地面に顔を押しつけられ、土にまみれながら長内はもがいたが、蛾十郎のところには一ミリも近づけない。
蛾十郎の体はオビル婆の手によって、高く掲げられた。そのあいだも絶え間なく、異言による呪文は唱えられ続ける。
しずしずと、うしろのほうから三人の産婆たちが進み出てきた。口々に、オビル婆の唱えている呪文と同じものを唱えている。
長内はハッとした。周囲を埋め尽くす村人たちが、再び心をひとつにしている。我が子を、蛾十郎を生贄として捧げることを知って、千年の呪いから解き放たれる喜びに一斉に目覚めたかのように。
村長を始めとする村人の全てはいま、産婆たちが一直線に居並んだ櫓に向かって手を合わせていた。目を閉じ一心に拝んでいる者もいる。
そのときだった。中庭から遠く離れた屋敷の奥の座敷牢の暗闇でひとり、ボソボソと何かをつぶやく者がいた。
誰も聞き手はなかったが、その痩せさらばえて地面の畳と一体化しそうになるほど平べったくなった体を横たえた女は、しかし確実に言葉を発していた。そして誰に言うともないひとり語りを始めた。
「わしも密かに儀式に参加させてもらうよ……」
そして、ヒヒ、と陰湿な笑い声を立てた。そのいまにも朽ち果てそうな口からは、もう緑色の液体がこぼれている。
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