溶ける波に祈りをのせて

ディアナ

溶ける波に祈りをのせて

「私、もうすぐ引っ越して島から出るの」

 遊びに誘うような軽さで言われた言葉に呆気に取られる。その言葉は、煩く泣き叫ぶ蝉の声と静かな波の音が聞かせた幻聴だと思いたかった。


 本土に行くより他国の方が近い長崎の上五島は、島の形から祈りの島とも呼ばれている。十字架を逆さにしたような島の連なりとか、隠れキリシタンの伝説が残るからとか、由来は色々あるらしい。生憎、生まれた時から島育ちだから、これと言って珍しがることもない。教会群が日本遺産だ世界遺産だに登録されたと言う話も、実感なんて湧きはしない。

「教会って行ったことある? 僕、遠くから見たことしかないんだ」

「私も無いよ。遠くから見るだけ。建物は綺麗だなって思うけどね」

 島の子ども達はそんなに多くないから、隣近所同じ集落の子ども達は、大体生まれた時から知り合いだ。僕より二つか三つ位年が上のお姉さんは、潮風に揺れる黒髪を押さえて笑う。大きな黒い目と泣きぼくろが印象的な、美人で少し変わった人だ、と僕の中では固定されていた。

「大丈夫。君なら私の身長、すぐに追い越すよ」

「前も聞いたよ! お姉さん、僕より大きくならないで待っててよ!」

「それは出来ない相談ね」

 近所に住んでいてほぼ毎日顔を合わせるから、頭二つ分上から見下されるのは男として納得出来ない。中学校の制服を着て笑うお姉さんにとっては、そんな男心は理解の範囲外なのかもしれない。


「うん、溶ける波をみてるのも涼しくて良いね」

「変なの。波は砕ける、だよ。国語の教科書に書いてあった」

 背中には山、前には海。公園はあるにはあるが、遊び場は専ら海の方が多かった。暑い夏空の下、遮るものが無い海岸は白い砂浜が光って見える。サラサラの砂は熱く、お姉さんの細い足と、僕の素足を容赦なく焼く。でも、熱いのを我慢して波打ち際まで来れば、砂は冷たい海水に冷やされて、歩くのが苦にならなくなる。波に濡れた砂は、乾いた砂とは違う感触がして踏んでて楽しい。白いスカートを折ってしゃがむお姉さんは、波が届かない波打ち際で、細くて白い指で大きな貝殻を掘りながら笑った。

「波が砕けるって言い方、好きじゃないなぁ」

「でも、岩にぶつかったらバシャーンってなるよ」

「海が荒れた時はね。でも見て」

 表現の仕方に好き嫌いがあるんだろうか。不思議な事を言うお姉さんに疑問をぶつけたら、苦笑しながら足元を指差した。僕は素足で海に入っていたけど、お姉さんはサンダルを履いて波がギリギリ届かない場所にいる。そんなお姉さんが指差したのは、波打ち際の本当に境目。寄せて消える、砂浜と海の境目だ。

「砂浜に、波が溶けてるでしょ? 岩にぶつかるより、砂浜に溶ける方がずっと多いと思うの」

 お姉さんの控えめな笑顔が、夏の日差しで眩しくて見えなかった。僕は、そんな考え方もあるのか、と思った。そして、素敵な考え方をする人なんだ、と知らない内にドキドキした。それに、なぜだかほっぺたが熱い気がする。ほっぺたが熱いのは日差しが強いせいだ、と冷たい海水を掬って顔を洗った僕に、お姉さんは遊びに誘うような気軽さで言った。

「私、もうすぐ引っ越して島から出るの」

 海水で顔を洗った僕は、言われた言葉に呆気に取られる。その言葉は、煩く泣き叫ぶ蝉の声と静かな波の音が聞かせた幻聴だと思いたかった。

 顔から落ちる塩水が気持ち悪い。言わなきゃいけないことはいっぱいあるのに、言葉がでてこない。ずっと一緒だと思っていたのに、島で一緒にいられると思っていたのに……。

「……いつ、引っ越しちゃうの……?」

「夏休みが終わる頃かな」

「どうして……」

 やっと絞り出した言葉は、本当に言いたかったことではなかった。ついで出た言葉の答えを聞く前に遠くからお姉さんを呼ぶ声がして、僕に答えるより先に返事をして歩いて行ってしまった。一人取り残されてしまった僕は、お父さんが僕を呼ぶまでずっと海の中で立ち尽くしていた。海岸には二人分の足跡が、ずっとずっと残されていた。

 お姉さんが島から居なくなると聞いてからしばらく夏空は荒れ模様で、外に出ることができなかった。お姉さんに会えなくなる、どうしよう、ってろくに寝られなかったし、何も手につかなかった。そんな様子を心配したおばあちゃんに色々聞かれ、話をしたら皺くちゃな手で頭を撫でられた。

「何か渡したらどうじゃろうかね? 忘れられんようにね」

「何かって、何が良いの?」

「なんでも。贈りたい物、作ってあげたら良かよ」

 作る、僕はおばあちゃんの提案に乗ることにした。幸い、僕は手先が器用だし、お父さんは大工でお母さんはモノ作りを仕事にしている。夏休みの宿題の工作でも、毎年先生に褒められている。急いでお母さんの仕事場に、ノックして飛び込んだ。驚くお母さんに所々つっかえながら話をすると、にっこり笑って色々出してくれた。その中から海の向うから流れて来てスベスベになった木と、海岸に来るまでに角が丸くなった宝物シーグラス、それに貝殻を貰う。

「工具は気を付けて使うのよ」

「はーい! ありがとう、母さん!」

 貰った素材は切る必要が無い位だから、お母さんが心配するような事にはならないはず。雨音を聞きながら僕が作ったのは写真立て。スベスベの木で淵を作って、宝物シーグラスと貝殻で飾った、シンプルな物だ。

「出来た……! ねえねえ、喜んでくれるかなぁ?」

「お前が心を込めて作ったんなら、喜んでくれるさ。さ、雨止んだぞ。行って来い」

 出来た物をお父さんに見せたら、グリグリ頭を撫でられて、雨上がりの外へ背中を押された。駆け出した僕は一直線に、お姉さんの家に走る。そしたら丁度、お姉さんが家から出てくるところだった。

「お姉さん!」

「ん? どうしたの、走って来て?」

「これ、お姉さんに渡したくて!」

「え?」

「忘れないで! ここのこと、僕のこと、忘れないで、ほしい……から……」

 行ってて急に恥ずかしくなって、俯いた僕の手から、お姉さんは写真立てを取ってくれた。そして、今まで見た中で一番綺麗な顔で僕に笑ってくれた。

「ありがとう、大切にする」

「! うん!」

 写真立てを胸に抱いて笑うお姉さんは、雨上がりの空より綺麗で、僕はドキドキしっぱなしだった。それから僕もお姉さんも色々あって会えなくて、二、三日後にお姉さんの家に行ったら、もう誰も居なかった。夏休みはまだ二週間位残っていた。サヨナラも、またねも言えずに、お姉さんは海の向こうに引っ越してしまった。

「……また会えるか、聞きたかったのに……。夏休みが終わる頃って言ったのに……。お姉さんの嘘つき……」


 夏休みが終わる頃になると、いつも思い出す。あの日別れたお姉さんの年を越えて、写真に残るその人の身長も越して。随分遠い記憶になったとしても。高校の制服を来て、僕は変わらない海と海岸を見下ろした。

「お姉さんが言った通りだ。……波、溶けてる……」

 岸に打ち付ける波は、海岸に溶けて消えていく。なら、溶ける波に祈りを乗せても良いんじゃないかな。ここは、祈りの島なんだから。

「お姉さんに、また……逢いたいな……」

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溶ける波に祈りをのせて ディアナ @diana_1202

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